(本記事は、佐々木 亨氏の著書『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔』=扶桑社、2020年3月26日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
「野球ノート」に記された三つの教え
小学校時代は監督を、水沢南中時代に所属した一関市にあるシニアリーグのチームではコーチを務めた徹さんは、翔平にとって指導者でもあった。
「父親は中学まではずっとコーチや監督だったので、グラウンドで接していることのほうが多かったですね。ただ、監督やコーチはチーム全体を見ないといけないですし、息子だからといって特別扱いするわけにもいかない。だから僕も父親という観点ではあまり見ていなかったですね」
親子の間柄でありながら指導者と選手の立場だった当時のことを、翔平はさらにこう語るのだ。
「僕が監督だったとしてもそうだと思いますが、同じぐらいの子が自分の息子と同じ実力だったら、息子ではない違う子を試合で使わないといけないと思うんです。それは当たり前のことというか。だから、息子である自分が試合に出るためには圧倒的な実力がなければいけない。チームのみんなに納得してもらえる実力がなければいけない。まだ小さかったですけど、それは僕にもわかりました。だから、ちゃんとやらなきゃいけないという思いはずっと持ち続けていました」
仲間の選手よりも何倍も、何十倍も練習した。
岩手県奥州市と 胆沢 郡 金ケ崎 町の境界を流れる一級河川の胆沢川。その河川敷にあるグラウンドでは、小学生だった翔平の打球が川によく飛び込んだという。さらには、リトルリーグ最後の年、6イニング制で行われた東北大会決勝では17奪三振の圧巻のピッチングを見せた。それらは紛れもなく彼の実力を証明するエピソードである。ただ、試合における結果だけに目を奪われがちだが、その裏には子供ながらの日々の努力があり、父親に認められたい、あるいは周囲の期待に応えたいという内なる思いがあった。「父親に怒られるのも嫌でしたしね」。翔平はそう茶化してみせながらも「やるべきことはちゃんとやっていました」と言葉を加えるのだ。
そして、彼は少年時代の野球をこう語る。
「部員は少なかったですし、ウチのチームはアットホームな感じで、野球を楽しくできました」
父と息子。
その関係は、ミニサイズのキャンパスノートでもつながっていた。表紙に「野球ノート」と書き込まれたノートは、父と息子の野球における交換日記のようなものだった。徹さんがその日の評価やアドバイスを書き、翔平は試合での反省や今後の課題を記した。「たぶん小学校五年生ぐらいまで続けましたので、二~三冊にはなったと思います」。そう話す徹さんは、今でも実家に残る一冊を見つめながら当時のやりとりを語り始めた。
「試合から帰ったら、今日はこういうプレイができた、3回まではいいピッチングができた。あるいは、高めのボール球に手を出したとか、ボール球を打ってフライを上げたとか。そういった試合での良かったことや悪かったことなどをノートに書かせていました。そこで大切なのは、悪かったときに次に何をすれば課題を克服できるのかを考えて行動に移すことだと思っていました。エラーや三振はある。その反省から自分がどういう取り組みをしていくのか。それらを字で書き残すことによって、しっかりとやるべきことを頭に入れてほしかった。つまりは、練習における意識付けですね。野球ノートを始めた一番のきっかけは、そこにありました」
ノートには、ほとんどのページに書き込まれている徹さんのこんな言葉がある。
一つ目は、「大きな声を出して、元気よくプレイする」。
闇雲 に声を出すのではなく、連係プレイを含めた中での確認作業をするために、アウトカウントやストライクカウントなどを大きな声で確認し合う。選手間で各打者の打球傾向を確認し合ったり、たとえば「セーフティバントをされそうだぞ」と言い合ったり、元気よく声を出してプレイし、コミュニケーションを大事にしてほしいという思いが込められていた。
二つ目は、「キャッチボールを一生懸命に練習する」。
肩を温めるだけのキャッチボールではなく、自分が意図するところ、狙ったところに投げること。指にかかった縦回転のスピンが効いたボールを投げられるためにキャッチボールの段階から意識を高く持って投げることを求めた。
三つ目は、「一生懸命に走る」。
野球は走るスポーツでもあるために、力を抜かずに最後まで全力で走ることを指導した。
徹さんはそれら三つのポイントを事あるごとにノートを通して息子に伝えようとした。一年を通して戦い続けるプロの世界まで行った選手が、それらすべてをやり続けられるかどうかはわからない。多くの場合、それらは上のレベルに行けば行くほどに忘れてしまうものかもしれない。でも、やはり……そう言って徹さんはこう言うのだ。
「野球をやっている以上は、この三つのことを大事にしながら進んでほしい。そういう思いを込めて書き続けていました」
父の思いは、23歳になった翔平の心の奥に、まだ生き続けている。
「三つの教えは基本的なものですが、今でも覚えています。それは、いつどのステージに行っても言われ続けることだと思います。特に全力疾走は、そのこと自体に意味がありますけど、その取り組む姿勢にも大きな意味合いがあると思っています」