大谷翔平の「二刀流」という言葉はこの会話から生まれ定着した
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(本記事は、佐々木 亨氏の著書『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔』=扶桑社、2020年3月26日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

「二刀流」という言葉が生まれたある会話

そもそも球団として二刀流のアイディアを持ち始めたのはいつだったのだろうか。大渕はスカウトの立場からこう語る。

「結構前からそのことは考えていたと思います。むしろ、どちらかに決めることが難しかった。選手の能力を最大限に生かすことが我々の使命だと思っています。大人の都合で、あるいは今までそうだったからという理由で、何かをなくすのはもったいないことです。どうすれば大谷の能力を消さないで済むのか。二刀流での起用までは、はっきりとイメージしていたわけではありませんが、何とか能力を消さない方法はないかと、おそらく球団のみなさんが考えていたと思います」

実は、野球における「二刀流」という言葉自体は、GMの山田と栗山監督の会話のなかから生まれたものだった。山田が会話を思い出す。

「私としては、バッターとしては一年か二年すればプロのレギュラーを獲ってずっとやっていけるだろうと思っていました。ピッチャーに関しては、少し時間がかかるだろうな、と。三年目ぐらいに出てきてくれればいい。当初はそんな感じで思っていました。そんなとき、ドラフト前に栗山さんから『山田さん、大谷という選手はピッチャーとバッター、どっちがいいんですか?』という質問を受けたんですね。そのときに、私は『難しい質問だけど、両方いいんじゃないかな』と答えました。どっちがいいとか悪いとかではなく『どっちもいいんじゃないですか』という話をしました。そうしたら栗山さんが、冗談風ですけど『二刀流だね』って。『二刀流をやらせたら面白いね』とおっしゃったものですから、だんだん私自身も頭のなかに『二刀流』という言葉を思い浮かべるようになりました」

一方の栗山監督は当時の会話をこう記憶している。

「二刀流という言葉は、ごく自然のなかで出てきたものでした。二刀流は宮本武蔵ですよね、みたいな。現場として(投手と打者の)二つをそのままやれる二刀流ですよねって。そうしたら、『やりましょう』『できますよ』という話になっていった感じです」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔
佐々木 亨
1974年岩手県生まれ。スポーツライター。雑誌編集者を経て独立。著書に『あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる』(ベースボール・マガジン社)、共著に『横浜VSPL学園 松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)、『甲子園 歴史を変えた9試合』(小学館)、『甲子園 激闘の記憶』(ベースボール・マガジン社)、『王者の魂』(日刊スポーツ出版社)などがある。主に野球をフィールドに活動するなかで、大谷翔平選手の取材を花巻東高校時代の15歳から続ける。

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