全30球団の大半が獲得に名乗り その中で大谷翔平がエンゼルスを選んだ決め手とは
(画像=ArakiIllustrations/stock.adobe.com)

(本記事は、佐々木 亨氏の著書『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔』=扶桑社、2020年3月26日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

「金銭面」に左右されることなく

CAAでのミーティングでは、直接行われる面談を前に代理人のもとへ届いていた各球団のプレゼン資料を読み込んだ。「やることは決まっていて、各球団のプレゼン資料を片っ端から見ました。スクリーンに映し出したパワーポイントで作られた資料を、代理人のネズ・バレロが説明していく流れでした」

いわゆる「一次審査」のために事前資料を送ったのは25球団、あるいは27球団とも言われた。いずれにせよ、アメリカンリーグとナショナルリーグを合わせて30球団があるメジャー球団のほとんどが大谷獲得に向けて動いたことになる。大谷は、獲得の意思を伝えてきた球団の資料すべてに目を通した。そのなかから、直接面談を行なう球団を絞った。

そのときの心境を大谷はこう語るのだ。

「その過程は大事だと思っていました。お話を持ってきてくれた球団の資料は全部見て、もらったものは全部確認しました。何の先入観もなく、オープンな気持ちで。全球団に『行く』と仮定して、そうしたときにどうなるんだと考えた上で決めていった感じです」

各球団への配慮もありながら、直接面談を行なう球団を絞り込んだ。サンフランシスコ・ジャイアンツ、シアトル・マリナーズ、ロサンゼルス・ドジャース、テキサス・レンジャーズ、サンディエゴ・パドレス、シカゴ・カブス、そしてエンゼルスの7球団が次のステージへ進んだ。大谷が言葉を加える。

「お話を聞く球団を7球団にしましたけど、そこがまず難しかったですね。プレゼンの資料で、すべてが伝わるわけではないし、そこから絞れるかとなれば簡単には絞れない。資料だけで、果たして計れるものがあるのか、ないのか。伝言ゲームじゃないですけど、通訳を通しての会話で、僕の真意ではないところで変に伝わるのも嫌でしたし。本当に難しかった。7球団に絞るところが一番、難しかったですね。

ただ、物理的に全球団に(直接会って)話を聞くのは無理なので。いろいろな球団はありましたが、結局は一つに行くわけですし、 無暗(むやみ) やたらと交渉期間を延ばしても他球団に悪いですし。決めるんだったら決めるで、スパッと決めないといけないとは思っていました。特にこの球団が良くて、この球団が悪くてというのはありませんでした。全球団ともに一生懸命に資料を作ってくれていましたし、本当に(うれ) しかった。そのなかで、ア・リーグやナ・リーグなど(選定要素は)いろいろなものはありましたが、そこは僕にとって重要ではなくて、実際にプレイする上で自分がよりイメージできた球団をまずは絞りました。結局は、行く可能性が高くなる7球団を選んだという感じでした」

一部のメディアを通じて聞こえてきたのは、直接の面談までこぎつけることができなかった球団の苦し(まぎ) れのコメントばかりだった。「大谷は、大きなマーケットよりも小さなマーケットを望んでいる」。そんな恨み節のような言葉だけが世間を(にぎ) わせ、チームの選定過程に対する憶測だけが独り歩きした。規約で契約金総額が定められているなか、最大限の〝誠意〟とばかりに潤沢な資金で大谷獲得を狙う球団があったのは事実だ。

しかし、大谷にとってそれは決断に向けて重要ではなかった。

「今回は、そこ(金銭面)に左右されることなく決めることができたことがよかった」

二〇一六年に締結されたメジャーの新労使協定では、ドラフト対象外で25歳未満の海外選手については各球団に厳しい契約金の上限が設定されている。多くの球団の上限は475万ドル(約5億4000万円)とされ、すべての国際FA選手の契約金総額をその金額に収めなければならないのが基本ルール。他球団から国際契約プール金を選手のトレードによって獲得することは可能だが、契約金には一定の上限が設けられている。また、たとえ実績があってもマイナー契約となる。シーズン中にメジャー昇格を果たしたとしても、一年目の年俸は最低保証額の54万5000ドル(約6000万円)。23歳の大谷には、それらの「制限」が適用された。

代理人が介入するメジャーの契約においては、最終的には選手本人が決定権を持つのだが、選手の意向に寄り添いながらも大型契約を結ぶことをビジネスとする代理人の交渉術がウエイトを占める場合がある。そこには交渉相手との関係性や、ビジネスにおける皮算用、つまりは金銭の損得を勘定する打算的なものによって交渉が行われることもある。もちろん、それがプレイヤーの意向でもあり、モチベーションになるケースは多い。選手のライフスタイルを守るための代理人としての最大の役目となることもある。

アメリカは契約社会の国だ。内容の一つ一つに詳細な条件を加え、交わされた契約をもとに物事は進められていく。契約がすべてと言っても過言ではない。それがアメリカという国であり、メジャーの世界である。大金が動く大型契約を勝ち取ることが、プレイヤーにとって、そして代理人にとってもステイタスとなるケースが一般的だ。

ただ、海をわたろうとしていた日本の23歳にとって金銭面は関係のないことだった。

大谷ははっきりとこう言うのだ。

「結局は僕自身で決めるんですけど、代理人とも一緒に決めていかなければいけませんよね。もしもフリーの契約だったら……。でも、たとえ(契約金の)上限に変動があったとしても、代理人のネズはお金に左右されることなく一生懸命にやってくれたと思います。今回、ミーティングをやっていてそれは思いましたし、本当に良い代理人にお世話になったと思います」

ネズ・バレロは、これまで多くの有名選手を担当して大型契約も勝ち取ったことがある代理人。全米でも敏腕として名が知られる人物だ。そんな彼も大谷の意思を誠実に受け止め、ミーティングや交渉の一つ一つを丁寧に遂行してくれた。その姿勢を見て、大谷は代理人への信頼を厚くしていった。

築かれていった信頼関係があったからこそ、ときにはロサンゼルスでのミーティングがヒートアップすることもあった。

「結構、激論でしたよ。僕とネズ・バレロとマットさんで。ああでもない、こうでもないって。それぞれが意見をぶつけ合ってヒートアップしたこともありました。ネズはこれまで向こう(メジャー)の人との関係も築いてきて、良いところも悪いところも知っている。僕の意見も尊重しながら、言うべきところと言うべきではないところを選択しながら話している感じはありました。でも、最終的にネズが言ったのは『どこへ行ってもいい方向にいくから』ということでした。それは間違いないという感じで言ってくれました。僕も『そうだよな』と思いましたし、みんなが同じ気持ちで一生懸命に考えてやった感じでした」

十二月四日から二日間にわたって行われた7球団との面談の結果、最後はエンゼルスへの入団を決断するわけだが、その決め手となったものは何だったのか。

「最終的な決め手……何でしょうね……」

改めて思い返しながら、大谷は本音を語り始めた。

「そこはフィーリングなんですよね、本当に。自分がお世話になる球団として、しっくりくるというか。自分がユニフォームを着て、グラウンドに立って、野球をやって、ダグアウトに帰って、生活をしている。それらをイメージしたときに、なんか『いいな』と思うのがあったんじゃないですかね。決してエンゼルスだけがよかったわけではなくて、本当に20数球団ともにすばらしいお話を持ってきてくれて、各球団ともにすばらしいGMがいて、すばらしい組織で、すばらしい資料を用意していただき、すばらしいプレゼンをしてもらいました。ただ最終的には一つに絞らなければいけないというのは決まっていて。ある程度、アナハイムに決めようかというところまでいったとき、これからお世話になるかもしれない方々なので、もう一回話を聞いてみたいと思いました。僕がいたところからはアナハイムは近かったですし、わざわざチームに足を運んでいただくのは申し訳なかったので、僕たちのほうから向こうへ行きました。実際に球場も見たいと思ったし、 挨拶(あいさつ) もしたいと思ったので。話をして、施設を見て。そこで改めて『いいなあ』って。最後はアナハイムに決めました」

十二月九日の入団会見を終えた大谷は、決断にいたるまでの濃密な時間をともに過ごしたスタッフや球団関係者とエンゼルスのスタジアム内で食事をした。

「代理人のネズをはじめ、僕のために寝ずに頑張ってくれたスタッフの方々には本当に感謝しています」

そして、約二週間のアメリカでの滞在を終え、再び十時間のフライトで日本へ戻った大谷は、帰国したその日から千葉県 鎌ヶ谷(かまがや) 市でのトレーニングを始めた。

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔
佐々木 亨
1974年岩手県生まれ。スポーツライター。雑誌編集者を経て独立。著書に『あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる』(ベースボール・マガジン社)、共著に『横浜VSPL学園 松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)、『甲子園 歴史を変えた9試合』(小学館)、『甲子園 激闘の記憶』(ベースボール・マガジン社)、『王者の魂』(日刊スポーツ出版社)などがある。主に野球をフィールドに活動するなかで、大谷翔平選手の取材を花巻東高校時代の15歳から続ける。

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