(本記事は、大野 裕之氏の著書『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』=大和書房、2022年11月4日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
秘書は日本人だった
チャールズ・チャップリンの秘書は、長きにわたって 高野虎市 という日本人がつとめていました。
広島生まれの高野は、1900年に満15歳で渡米しました。移民の大半は貧しい農家の出身でしたが、彼は村一番の大金持ちの息子で、親に決められた結婚を嫌って、自由を求めてアメリカに渡ったのでした。現地で飛行家を目指すも事故に遭い断念。その次にスリリングなものを求めて自動車の運転手をしていた時に、ちょうどデビュー3年目で億万長者になってやっと自動車を買ったチャップリンが運転手を募集していることを知ります。
1916年秋のある朝、高野は、チャップリンが当時住んでいたホテルの一室に赴きます。チャップリンはベッドで朝食を取っていたところでした。チャップリンは高野に「君は運転ができるの?」と問い、高野が「はい」と答えると、「僕はできないよ。かっこいいなあ」と喜劇王が言って、面接は三言だけで終わりました。
この面接にはチャップリンの姿勢がはっきりと表れています。当時のアメリカ西海岸では日本人に対する差別感情が強くあり、排日の気運が高まっていた頃です。チャップリンは「あなたは日本人なんですね?」などと聞かずに、運転の能力だけを聞いたのです。人種的偏見のないチャップリンの公平さを示すエピソードです。
高野は、誠実な仕事ぶりが評価され、運転手のみならずチャップリンの身の回り全般の世話を任される秘書になりました。
チャップリンへの個人的な手紙はすべてまず高野に届き、チャップリンの妻に対してさえ、本人の代わりに高野が応対した時もあったとのこと。喜劇王は高野に、撮影所内に五つの寝室がある邸宅をプレゼントし、高野の長男スペンサーの名付け親となりました(スペンサーはチャップリンのミドル・ネーム)。チャップリンは高野を通じて日本人を信頼し、1926年頃チャップリン家で働いていた17人の使用人は全員日本人だったほどです。
その後、18年にわたって気まぐれな天才につくし、信頼され、一時期はチャップリンの遺言の財産相続人の一人でもあった高野でしたが、1934年にチャップリンの当時のパートナーであるポーレット・ゴダードと衝突。チャップリンの慰留を振り切って、高野は秘書を辞任します。
チャップリンからユナイテッド・アーティスツの日本支社長の職を与えられたのですが、日本の商慣習に馴染めずそれも辞任。アメリカのソフトボールチームを日本に紹介するなど、日米の架け橋になるべく活動をしていましたが、1941年6月に太平洋戦争直前のアメリカで高野はスパイ容疑で逮捕されます。私は1136ページに及ぶFBIの調書を読みましたが、もちろんどこにもスパイをした証拠はありません。高野は、戦争をめぐって日米関係が悪化する中、罪なくして逮捕されたのでした。太平洋戦争が開戦すると、今度は日系人強制収容所に収容されます。
戦後も、日米友好の架け橋になりたいという思いは健在で、日系人がアメリカ市民権を再獲得するための運動に身を挺しました。晩年は広島に戻り、1971年に死去しました。最後まで「チャップリンほどの人物は二度と出ない」と言っていたそうです。
喜劇王を支えた誇るべき日本人。私たちは彼のことをいつまでも覚えておきたいと思います。
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