(本記事は、大野 裕之氏の著書『ビジネスと人生に効く 教養としてのチャップリン』=大和書房、2022年11月4日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
「チャーリー」の原点をつくった母
『モダン・タイムス』『独裁者』『街の灯』など、数々の名作を残した喜劇王、チャールズ・チャップリン。彼の創作のルーツのひとつは、母ハンナにありました。
チャップリンの両親はイギリスの軽演劇ミュージック・ホールの芸人でした。しかし父は酒に溺れ、早くに亡くなってしまいます。ハンナは、喉を痛めて舞台を休むことが多くなり、幼いチャールズと4歳上の異父兄シドニーを、裁縫の内職などの仕事をして懸命に育てました。狭い屋根裏部屋には、近くの漬物工場からの悪臭が立ち込めていました。そんな中でも、母は、時折昔の舞台衣裳を引っ張り出しては、かつての持ち歌を歌い踊ってみせて息子たちを喜ばせました。また、道行く人を面白おかしく描写しては子供達を笑わせ、その間幼い兄弟は空腹を忘れました。人が生きて行くためには、衣食住と同じぐらい〈笑い〉が必要なものだということを、チャップリンは幼少期に身をもって知ったのです。
母は「不運な環境に染まるようなことはせず、常に子どもたちの話し方に注意を払い」(『チャップリン自伝』中里京子訳、新潮文庫)、ぼろをまとっていても「気品を持てる」ように教えました。チャップリン作品のなかの、「放浪者にして紳士でもあるチャーリー」は少年時代に生まれたとも言えます。
ただし、ハンナは決して「聖女」だったというわけではありません。3人の子供を授かり、その父親が全員違うという奔放な女性でした。『自伝』には、母ハンナが幼いチャップリンを寝かしつけた後、舞台の仕事に行っていたと書かれていますが、本当は他の男性のもとに通っていたことを息子たちは知らなかったのです。一時は幼い兄弟を捨てて他の男性と住んだこともあり、家庭を壊したのは父だけの責任ではないことに、チャップリン兄弟もうすうす気づいてはいました。でも、有名になってからもチャップリンは両親の悪い面は何も語りませんでした(そのことは、彼のエレガントさをあらわしていると思います)。とにかく、兄弟は、母のことを心から愛していたのです。
やがて、いよいよ家賃も払えなくなり母子そろって救貧院(当時イギリスにあった家のない貧民を収容する施設)に行き着くことになります。そこでは、親子といえども男女別々に収容され、面会できるのは週に一回と決まっていました。チャップリン母子が収容されたランベス救貧院は、今は映画博物館「シネマ・ミュージアム」になっています。門を入って左側に小さな建物があり、そこで持ち物をすべて没収されて、服を脱がされシャワーを浴びてから入院するのです。今も天井にシャワーの跡が残っていて、ここで母と引き離された幼いチャップリンの気持ちを思うといたたまれなくなります。
別々に収容されて、親子で一緒に過ごせない辛さ―そこで、ハンナは一計を案じます。1898年8月12日の金曜日、3人は申し合わせて救貧院からの退院手続きを取りました。住む家が見つかったわけではありません。しかし、それが、ばらばらに収容されていた3人が顔を合わせる唯一の手段だったのです。
退院した母ハンナと息子たちは近くのケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごしました。兄シドニーがどうにかして手に入れた9ペンスで、サクランボとお茶と薫製ニシンとケーキを買って分けて食べ、新聞紙を丸めてキャッチボールをして、親子水入らずの時間を楽しんだのです。
夕方に母ハンナが「今なら救貧院のお茶の時間に間に合うわ」と言って院に戻り、再び入院したいと告げた時、係員はかんかんになって怒りました。でも、この日は兄弟にとって一生忘れ得ない楽しい思い出としていつまでも心に残りました。
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