渋谷で話題のパン屋さん ~創業150年の老舗が作る四角いパン
東京・渋谷スクランブルスクエアの一角に話題のパン屋がある。客が次々と手に取るのがサイコロ型の「四角い焼きそば」(270円)や「四角いナポリタン」(301円)。パンの中に焼きそばやナポリタンが入っている。四角いから持ちやすい。IT企業などで働くビジネスマンがスマホ片手でも食べやすい形にした。
他も凝ったパンばかりだが、最も充実しているのがあんぱん。「苺あんぱん」(221円)は生地も餡もイチゴ味でホワイトチョコ入り。「あんずあんぱん」(231円)にはあんずジャムを練り込んだ餡が入っている。一番人気は「渋谷あんぱん」(301円)。あんこはこしあんと白あんのミックスで、滑らかな口当たりが自慢だ。
そんなパンと一緒に売っているのが「しぼりたて牛乳」(335円)。わざわざ福岡の牧場から取り寄せている濃厚な逸品だ。スタッフが全国の牧場を回って選び抜いた。
「コンセプトはあんぱんと牛乳を食べて飲んで楽しんでもらえる店」というこの「キムラミルク」。実はデパ地下などでおなじみのパンメーカー、木村屋總本店が生き残りをかけて作った新業態の店だ。
木村屋總本店の創業は1869年。関東の百貨店や駅ビルなどに26店舗を展開している。そして、木村屋といえば代名詞となっているのが日本で初めて作った「あんぱん」。桜の塩漬けをあしらったこしあんの「桜あんぱん」(171円)は時代を超えて愛されている名作だ。
東京・江東区の有明にある木村屋總本店東京工場。百貨店や駅ビルの店舗に出す全てのあんぱんをここで作っている。その数1日2万個。だが、その製造ラインでは餡を手で包んでいた。スタッフの一人は「1分間に17個。入社20年ぐらいですが、まだまだです」と言う。
早いだけではない。作業中にタイマーが鳴ると職人たちは包んだパンを量りに乗せた。「生地25グラム、あんこ25グラムで作っていますが、一人一人手作業でやっているので、重量の誤差をなくすために3分間に1回、量っています」と言う。完成形は50グラム。プラスマイナス2グラムまではOKとなる。
そしてこの「あんぱん」の最大の特徴はその製法にある。使っているのは木村屋独自の酵母、酒種。酒種酵母は酒造りに使われている天然酵母の一種だ。社内の酒種室では、3人の種師が門外不出の製法を駆使し、酒種酵母を作っているという。この酵母で生地を発酵させ、膨らませると、独特の酒の風味としっとり感が生まれる。
ただし大変な手間もかかる。発酵が早いイースト菌なら生地から1日でパンができるが、酒種はそうはいかない。「酒種の仕込みから始めると、あんぱんになるまで10日ほどかかる」と言う。これはイーストの10倍。それでも木村屋は創業以来150年、この伝統製法を頑なに守り続けているのだ。
あんぱんをつくった老舗の危機感~木村屋の新たな挑戦
しかし、若くして会社を継いだ7代目の木村屋總本店社長の木村光伯(42)は、そんなあんぱん頼みの商売に危機感を覚えていた。
「若い世代の人が、あんこやあんぱんから離れているという危機感があります。形を変えたり見せ方を変えたりしながら、新たなものを発信していきたいと思います」
だから木村は、若者たちが買ってみたくなる新しいパンをそろえた店を渋谷に作った。さらにこれまでとは全く違う商品の開発も行っている。
社長も出席する新商品の試食会は、ほぼ毎週、開いている。この日のテーマは夏向け商品。豚しゃぶのパンや牛丼具材のパンが提案されていたが、いずれも企画は練り直しとなった。冒険的な商品にも見えるが、木村にはこんな信念がある。
「30年前も50年前も木村屋は『こんな奇抜なものを出していいの?』ということをやっていたのではないか。(木村屋が発明した)ジャムパンとかうぐいすパンも、当時なかったものが出て定番商品になるのは変わらないのかなと」
新たな定番を求め、毎月20種類もの新作パンを発売し、試し続けているのだ。
現在はコロナ不況のさなか。売り上げは2019年に比べて25%も減った。しかし、そんな厳しいコロナ禍にあっても木村はまた別の新業態の店を出した。JR巣鴨駅の改札からすぐの場所にある「キムラスタンド」だ。
「昨年6月にオープンしたサンドイッチをメインとした店です」(木村)
それもただのサンドイッチではない。店の奥で調理し、作りたてを提供する。コロッケサンド「ザ・定番コロッケ」(300円)は大きなコロッケにソースもたっぷり。「ダブルハムカツ濃厚ソース」(320円)もハムカツを2枚重ねにした。どの商品も具材が厚いのだが、これには狙いがある。
「足早に通り過ぎる方も大勢いる。3~4メートル離れても『何これ?』と、カット面や彩りを意識して開発しました」(木村)
店の外からもショーケースが見えるが、厚切りの迫力が伝わり、つい立ち寄りたくなる。どこか懐かしい味を、こんなやり方でアピール。見た目に惹かれて食べてもらえればこっちのもの、というわけだ。
あんぱんと共に歩んできた老舗が今、懸命に新しい道を探している。
「いかにこの今の時代で受け入れられるかを意識しながら、古いものと新しいものを融合させて新しい価値をつくっていきたいと思います」(木村)
あんぱん、ジャムパン、蒸しケーキ…パンを発明し続けた老舗
木村屋の収益の大黒柱はデパ地下のパンではない。スーパーやコンビニに並ぶ、袋に入ったパンだ。
川崎市「OdakyuOX」新百合ヶ丘店には、看板商品の「あんぱん」を始め、知恵を絞った新作パンなどが並んでいるが、その中に多くの客がこぞってカゴに入れていくパンがある。それが「ジャンボむしケーキ」。首都圏の蒸しパン売り上げランキングで11年連続トップに輝いている隠れたヒット商品だ。
この蒸しケーキも最初に世に出したのは木村屋。木村屋はパン業界にあって、まさに開拓者として歴史を切り開いてきた。
その創業は1869年。初代・木村安兵衛が東京・新橋に開いた一軒のベーカリーから始まった。しかし当時、イーストはまだなく、ビールに使われるホップ種を使用。そのため固いパンしか作れず、なかなか普及しなかった。
「日本人にはパンと一緒に何を食べたらいいのか分からない時代だったので、ご飯に代わる主食というより、嗜好品にしていこうとして生まれたのがあんぱんでした」(木村) 安兵衛は息子の英三郎と共にあんぱん作りに邁進。酒饅頭を作る時に使う酒種に目をつけ、しっとりとした生地が特徴のあんぱんを作り上げた。
その開拓精神は受け継がれ、3代目の儀四郎はアメリカのジャムを挟んだビスケットをヒントに1900年、日本初のジャムパンを開発。そして4代目の栄三郎はむしケーキ初めて世に出した。
600坪の自宅を売却、200人リストラで幻覚
そんな創業一族に、1978年、現社長の光伯は誕生した。学習院大学在学中は木村屋の工場でアルバイト。パン作りの修行に励み、入社後にはアメリカのパンの研究所に留学するなど、パン一筋の人生を歩んできた。
しかし、木村の知らないところで、会社は大きなピンチに陥っていた。4期連続の赤字となり、経営は火の車になっていたのだ。
「当時売り上げが160~170億円あるなかで、長期負債が150億円ありました。毎月資金が2億円足りない状況が2年ほど続きました」(木村)
さらに老舗のおごりも業績の低迷に拍車をかける。
「うちの父(当時の木村信義会長)が『営業なんていらん』と廃止してしまった。いいものを作っていれば自然と店から注文がくるのだから売り込まなくていい、と。営業部員が隠れて仕事をしている状態でした」(木村)
最後はメインバンクが経営者の交代を要求し、社長は退任し、父親も代表(会長)の座から降りたのだが、残った幹部は「全員が(社長を)やりたくない、と。その結果、『まだ早いけど光伯やれ』と、急遽バトンが飛んできた」(木村)。
借金まみれの会社だったが、木村は腹をくくり、立て直しにかかる。真っ先に取り掛かったのが当座の運転資金の捻出。工場や会社の寮、新宿区内にあった600坪の自宅などを売り払い、現金を作った。
次に進めたのが事業の徹底的な効率化。商品数を絞り込み、コストカットを図った。工場の閉鎖に伴い、従業員のリストラも行う。その数は200人に及んだ。
「耳も難聴になりましたし、夜も眠れず幻覚を見るようになりました」(木村)
製造の現場では細部に渡り、マニュアルを導入。各工程の作業内容を細かく数値化し、経験の少ない職人でも商品が作れる態勢を構築していった。ところが、このマニュアル化には落とし穴があった。
「お店を見に行くと、例えば『桜あんぱん』のヘソの位置がずれていたり、本来丸いものが楕円形になっていたり。販売の人たちからは『最近こういうパンばかりです』と言われました」(木村)
パンの品質が目に見えて低下し、客からのクレームが殺到した。どうなっているのかと工場の従業員に問うと、「マニュアル通りに作っている」「マニュアルの方が間違っているんじゃないか」という。
当時、総務課長だった齊藤浩二取締役は「パンは生き物ですので、気温や湿度の変化に直感的に対応できるスタッフを育てられなかった。逆に仕事にマンネリ感を覚え、もっとパンの知識を学びたい従業員は他社へ移ってしまったということもありました」と振り返る。木村は「人があってのものづくり」を痛感した。
「もう1回原点に立ち返って、人づくりやものづくりをすべきだと反省しました」(木村)
そこでマニュアル化と並行し、職人の技術を重視する製法に切り替えた。例えばあんぱんの焼き上げ工程。なにかをじっと見つめた職人が機械を操作している。トンネル型で温度が変わりやすいオーブンなので、焼き具合にブレが出ないよう、コンベアのスピードを微調整しているのだと言う。
さらに経験の長い職人と若手を組ませた人材育成も実施。従業員はものづくりへの意欲を取り戻し、老舗は窮地を脱出した。
「メゾンカイザー」との因縁&木村屋ののれん分け店
東京・千代田区の「大丸」東京店にある木村屋の売り場の隣に入っているのは「メゾンカイザー」。以前、カンブリア宮殿にも登場したフランスパンの名店で、高級ホテルやレストランも御用達の人気ベーカリーだ。
この店を作った木村周一郎社長は、木村屋總本店社長・光伯の従兄弟にあたる。実は木村屋とは、浅からぬ因縁があった。周一郎の父親・周正は一時、木村屋の経営者だったこともある。
しかし、同族経営の会社内で確執が。経営権の争いから父親は退社。息子の周一郎も木村屋と距離を置き、単身、フランスに渡った。そこで修業を積み、日本でメゾンカイザーを開業した。
「『あ、木村屋のバカ息子だ』と思われることはよくありました。『何も知らないくせに』と思いましたが。(打倒木村屋という気持ちは?)ないです。私が『メゾンカイザー』を作ってパン業界に入ったのは、木村屋の歴史を自分なりに紡いでいく必要があると思ったから。私には私の紡ぎ方があり、木村屋には木村屋の紡ぎ方がある。お互い切磋琢磨して存続していくことが重要だと思う」(周一郎氏)
一方、木村屋總本店社長の光伯はこう言う。
「私が社会人になった時には周一郎さんは『メゾンカイザー』で頑張っていたから、パン業界の先輩という認識でした。(お互いに歴史に振り回された?)でも同じ木村屋の親戚として生まれたので、いろいろなものは乗り越えられていると思います」
一方、福井県鯖江市内の「ヨーロッパンキムラヤ」は、木村屋總本店ののれん分け店だ。こうした木村屋から繋がる店は全国に32店あり、各地で伝統の味を広めている。
三代目店主の古谷香住さんは「木村屋さんのパンの精神、パイオニア精神を引き継いでいる」と言う。のれん分け店でも独自で新たな名物を開拓しているのだ。
鯖江の店が作ったのは、パンの中に大福を仕込んだ「大福あんぱん」(220円)。餅とブリオッシュの生地のハーモニーがクセになると評判だ。
実は今、古谷さんの息子の大河さんは木村屋總本店の東京工場で修業中。木村屋はのれんを分けるだけでなく、次世代への技術の継承までバックアップしている。
「地元鯖江の人に受け入れられるパン屋さんになりたいと思っております」(古谷さん)
※価格は放送時の金額です。
~村上龍の編集後記~
キムラスタンドに並んでいるサンドイッチは、普通よりも、コロッケとか惣菜もたっぷりと楽しめる、どことなくレトロな感じが漂う。そのレトロな感じというのは本物だ。あんぱんが生まれたのは明治7年だ。その時代の雰囲気は今に生きている。本物のレトロなのだ。収録の際に、立派なあんぱんをいただいた。その夜、ふと日本酒に合うのではないかと思い、食べたら、見事に北陸の銘酒にマッチした。本物の和風のものに、あんぱんはすべて合う。
<出演者略歴>
木村光伯(きむら・みつのり)1978年、東京生まれ。2001年、学習院大学卒業後、木村屋總本店入社。2002年、日本パン技術研究所で製パン理論研修。2003年、アメリカ国立 製パン研究所へ留学。2006年、代表取締役就任。
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