アリババグループ(阿里巴巴集团)創業者で中国最大の富豪であるジャック・マー(馬雲)氏が、公の場から姿を消してから約3ヵ月が経過した。共産党の一党独裁体制や言論・経済・報道の自由の締め付けなど、国内の情勢が緊迫していることから、その安否が気遣われている。純資産604億ドル(約6兆 2,733億円、フォーブス2021年1月19日付)を有する世界の大富豪に、一体何が起きたのか?その謎に迫る。
「失踪説」の背景
ことの発端は2020年10月24日、マー氏が上海の金融フォーラムで行った「中国の金融当局や国営銀行を批判した」スピーチだ。その直後、米国のTV番組「アフリカのビジネスヒーローたち(Africa’s Business Heroes)」の決勝戦への出演予定が、「マー氏のスケジュールの都合により」突然取り消されたことで、にわかに不穏な空気が漂い始めた。
失踪説の決め手となったのは、アリババ傘下の金融会社アントグループ(螞蟻集団)の香港証券取引所および上海証券取引所科創板(STAR)への上場延期だ。総額345億ドル(約3兆5,842億円)規模と予想されていた上場は「金融技術の規制環境の変化などの重要な問題により、情報開示要件や上場条件を満たさない可能性がある」として、11月3日、正式に延期が発表された。
そこへ追い打ちをかけるように、金融当局がアリババを含むネット通販大手に対し、電子商取引(EC)慣行に独占禁止法違反の疑惑が浮上したことを理由に、調査を開始した。12月にはアントグループに、金融規制の遵守に向けた事業再編を命じた。事実上の「事業縮小令」である。
このような騒動の最中、マー氏は一切コメントを発表していないのみならず、公の場にも姿を現していない。Twitterが最後に更新されたのは、2020年10月10日だ。失踪説や逮捕説が飛び交っていても、不思議な状況ではないだろう。
中国富豪の運命は「監獄か死」?
マー氏の安否が懸念されている理由の一つは、過去にも複数の中国富豪が失踪した例があるためだ。
最も記憶に新しいのは、元不動産王の任志強氏の失踪・身柄の拘束だろう。同氏は「習近平国家主席と思われる人物」や、中国のコロナ対策を批判するエッセイを発表した直後の2020年3月に失踪した。同年9月、北京第2中級人民法院は、同氏が125万元(約2,004万円)相当の賄賂を受け取り、約5,000万元(約8億162万円)を横領したとして、懲役18年、罰金420万元(約6,733万円)の刑罰を課した。人権団体は再三にわたり、汚職容疑を弾圧手段として用いる中国政府のやり方を非難しているという(BBCより)。
任志強氏の身に起きた出来事は、2019年に失踪後、本国で身柄を拘束されたインターポール(国際刑事警察機構、ICPO)前総裁、孟宏偉氏のケースと酷似する。いずれも失踪期間中に何が起きたのかは謎が多く、その後身柄を拘束されている。
また、不動産王の郭文貴氏が2019年9月に米金融TV番組リアル・ヴィジョンに出演した際、マー氏の今後を「監獄か死のいずれかだ」とコメントした動画も、Twitterで拡散している。郭文貴氏は2014年に中国から米国に亡命した、中国反体制派として知られている。
逆風を見越しての雲隠れか?
世間が騒ぎ立てているように、本当にマー氏の身に危険が迫っているのだろうか?
2020年1月5日付けの英デイリーメイル紙は、アリババの情報筋から得たという、「行方不明ではなく、ただ身を隠しているだけ」という証言を掲載した。一方、ブルームバーグの報道によると、同氏には12月の時点で出国禁止令が出ているという。これらの報道が真実であれば、マー氏は中国本土に潜伏している可能性が高い。
もう一点考慮すべきは、問題視されているスピーチの内容だ。フィナンシャル・タイムズ紙など一部のメディアは、スピーチの内容を「痛烈な政府批判」などとセンセーショナルに煽り立てているが、一概には言えない。ITメディア・タイムズ紙に掲載された20分相当のスピーチの全文を見る限り、未来の世代のために「健全な金融システムを築き」、「成長段階にある」既存の中国の金融システムの改革を訴えかけるものという印象を受ける。スピーチ全体を通して、改革の必要性を説きながらも、習近平国家主席の意を尊重する下りも盛り込まれている。
もっとも、中国政府がスピーチから同様の印象を受けたという保証はない。また、過去数年間にわたり、融資サービスを提供するFinTech(フィンテック)プラットフォームの台頭と、それらが経済にシステミックリスクをもたらす可能性について、中国の規制当局が懸念を強めていたことは揺るぎない事実だ。特にアントグループのように、銀行業免許を取得していない企業が銀行顔負けの金融業務を行っていることに対して、当局は監視の目を光らせていた。
これらの情報から総合的に推測すると、状況を警戒したマー氏が、ほとぼりが冷めるまでの間、国内で目立つ活動を控えていると見るのが、最も有力な説ではないだろうか。
「世界的な対中感情」がマー氏の救世主となるか?
任志強氏ら他の大富豪のように、身柄を拘束され、社会的に抹殺される筋書きもないとは言い切れない。しかし、習近平政権下の権威主義から始まり、香港の民主化デモの鎮圧からコロナ対応策まで、世界各国で対中感情が広がっている今、世界的に知名度の高いマー氏を強権統治で押さえつけるような行為は、あえて回避する可能性も考えられる。そうなれば、マー氏が公の場に、再び姿を現す日が訪れるのではないだろうか。現時点においてその答えは、時間のみが知るところだ。
※2021年1月19日現在
文・アレン琴子(オランダ在住のフリーライター)