『ASEAN M&A時代の幕開け』
(画像=Natee Meepian/stock.adobe.com)

本記事は、日本M&Aセンター海外事業部の著書 『ASEAN M&A時代の幕開け』(日経BP 日本経済新聞出版本部)より一部を抜粋・編集しています。

大戦中、独立を貫き今や世界的製造国家に

19世紀末から20世紀にかけて、ASEAN各国は欧米の植民地になった。唯一独立を守り抜いたのが、タイだ。この事実が今もタイ人の精神に息づいている。そのため、タイ人はプライドが高いなどといわれることもあるが、18世紀から途切れることなく続く国王家への国民の敬愛の念は極めて深い。街を歩くと、いたるところに国王・国王妃殿下の肖像画が掲げられている。また、黄衣をまとった僧侶もよく見かける。王室と並んで僧侶にも、国民は心からの敬意を払う。タイは仏教大国であり、殺生や争いごとを好まない仏教の教えが日常生活に根付いている。

経済規模はGDP総額で見て、人口大国のインドネシアに次ぎASEAN第2位。1人当たりGDPは2019年で7792ドルとなっており、典型的な中進国の位置にある。 実質GDP成長率は、ほぼ2~4%前後の水準で推移。他のASEAN諸国のように爆発的な成長はないが、しっかりした足取りで安定軌道に乗っているといえる。

低廉な人件費を武器に発展した世界有数の製造国家として知られるが、タイにとって焦眉の急は、屋台骨である製造業をいかに高度化して付加価値を増すかにある。産業高度化に取り組む大きな理由は、シンガポールと同様、すでに高齢化社会の入口に立っていることだ。人口のうち65歳超が占める割合は現在10%だが、2030年には20%近くに跳ね上がる可能性があるとされ、国全体の人口も減少傾向。人件費がじりじり上昇していくのは必至で、労働者のスキルアップや生産性の向上が喫緊の課題である。

ここに、製造大国である日本の技術・仕組み・品質・付加価値が役立つことは間違いない。彼ら単独では限界がある。M&Aによる資本業務提携は今後も増えると予想する。

巨大な日本人マーケット

タイへの日本企業の進出は1960年代初頭、広い裾野産業を抱える自動車会社が先陣を切る。電機、電子、機械企業などが後を追った。その過程で生まれたのがバンコクに形成された巨大な日本人マーケットだ。在留邦人数はASEAN都市のなかで群を抜いて多く、在留届を提出していない未登録者を含めるとタイ在住日本人は15万人規模になるという。

また、バンコクはインフラも整備された近代都市でありながら、路地に入れば露天商が並ぶ。このゴチャゴチャ感がタイ好きにはたまらない。「マイペンライ(問題ない、大丈夫)」が口癖だとされるタイ人の大らかな気質も、日本人が虜になる理由だろう。地方都市との経済格差は大きく、一極集中が激しいバンコクには、中間所得層から高所得層の人たちが集まり、旺盛な消費意欲をみせる。貯蓄率が低い国民性も手伝って、週末の繁華街では気前の良いタイ人の姿を目にすることができる。こうしたバンコク経済圏に絞ったビジネス展開が、現実的な選択肢となるだろう。

現に、多くの日系サービス業は、まずこのバンコクの日本人マーケットを狙って参入してくる。しかし手っ取り早く進出できる飲食業や小売業などの分野はすでに飽和状態になっており、これからの新規参入は相当に難しい。日本人マーケットに根を張ったうえで、現地のローカルマーケットへの営業展開がなければ業容拡大は望めないだろう。「タイ人の本当の好みはタイ人にしかわからない」。現地の事情に詳しく、ブランド力とマーケティング力があり商習慣に精通している現地企業を、M&Aで獲得するのが近道となる。

後継者不在によるM&Aや日本人オーナー企業の売却が増加

タイのM&A市場は、海外企業がタイ企業を買収するケースは年間20~30件程度。売却理由は、大半が経営者の高齢化・後継者難を理由に挙げている。しかも、2016年から相続税・贈与税の制度が導入された。現在の税率は低いものの、今後もし引き上げられれば、事業承継を目的としたM&Aはさらに増えていくことだろう。

日本企業によるタイ企業のM&Aは公表ベースで年間15件程度。上場企業による買収が主流で、買収金額は10億円以上が多い。そのなかでも特徴的なのが、日本人がオーナーを務めるタイ企業が売却を希望するケースが増えていることである。日本企業の進出の歴史が長いタイならではの動きといえよう。業種は建設、コールセンター、部品製造など様々だ。多くの場合、日本語のできる人材を抱えているため社内マネジメントがしやすく、M&Aとしては成功の確率が高い。縁あっていい相手が見つかれば、日本の中堅・中小企業にとって格好の案件となる。

タイ企業を買収する場合は、次の4点に注意したい。

①外資規制

製造業には外資規制がない。しかし製造業以外は基本的に外国人事業法によって、株式取得は49%までしか認められていない。
外資企業にとっては、「製造業」の定義が問題となる。例えば製造業の会社を買収しても、得意先への原材料販売が卸売業とみなされ規制対象にされたケースがある。受託加工は製造業ではなく請負業で、これも規制に抵触する恐れがある。事前にプレ法務DDを行い、法務DDでクリアできるかどうかを確認したい。

②労働法の改正

2019年、労働者保護法が改正。定年を理由に退職を求めると解雇同等とみなされ、解雇補償金の支払いを求められる。解雇補償金を積み立てている中堅・中小企業はまだ少ないとみられ、財務DDで指摘されると、純資産の大幅な落ち込みを招くこともある。

③全法人監査の原則

すべての企業は法人監査を受ける制度になっている。しかし実態面では、公認会計士の不足に加え、監査レベルにばらつきがあり、「監査済み」をにわかに信用できる状況ではない。法務、財務だけでなく、税務面で当局から指摘されるケースもしばしばある。

④片言でもタイ語を

マネジメント層は英語で問題ないが、現場のタイ人とは英語だとコミュニケーションを取りにくいため、片言でも積極的にタイ語を使いたい。相手との距離がぐっと近くなる。
これが英語を公用語とする国と違う面白さである。言葉だけではない。現地の料理を食べる、バスに乗る、文化に興味を持つ。こうしたタイへのリスペクトの姿勢に、現地の人は好感を持つ。ビジネスにおいても、現地スタッフとの良好なコミュニケーションにつながるのだ。自尊心の高いタイ人だからなおさらだろう。

タイへの進出は、インドネシアやベトナムほどの高成長は望めないかもしれないが、リスクは比較的低いといえるだろう。バンコクの日本人マーケットに代表されるように、進出しやすい土壌がある。手堅く進出できる国としてお勧めである。

ASEAN M&A時代の幕開け
日本M&Aセンター海外事業部 編著
1991年日本M&Aセンター創業。事業承継にいち早く着目し、中堅・中小企業向けにM&Aを通した支援を行う。 2013年、海外M&A支援業務に注力した海外支援室を設立。2016年シンガポール、2019年インドネシア、2020年ベトナムとマレーシアに進出し事業部として拡大。ASEAN主要国をカバーし、シンガポールでは最大級のM&Aチームに成長している。

編著者代表
大槻昌彦(おおつき まさひこ)
日本M&Aセンター常務取締役 兼 海外事業部事業部長
大手金融機関を経て2006年入社。主に譲受企業側のアドバイザーとして数多くのM&Aに携わり、自社の東証1部上場に主力メンバーとして大きく貢献。現在は海外事業部をはじめ、日本M&Aセンターグループ内のPEファンドやネットマッチング子会社等、M&A総合企業としてのグループ会社全体を統括する。

尾島 悠介(おじま ゆうすけ)
日本M&Aセンター 海外事業部 ASEAN推進課 マレーシア駐在員事務所 所長
大手商社を経て、2016年入社。商社時代には3年間インドネシアに駐在。2017年よりシンガポールに駐在し現地オフィスの立ち上げに参画。以降は東南アジアの中堅・中小企業と日本企業の海外M&A支援に従事。2020年にマレーシアオフィス設立に携わる。現地経営者向けセミナーを多数開催。

この章の執筆者

井直大
日本M&Aセンター 海外事業部 ASEAN推進課ディールマネージャー・タイ王国担当
井直大(い・なおひろ)
日本M&Aセンター海外事業部ASEAN推進課、ディールマネージャー・タイ王国担当。大学卒業後、日本M&Aセンター入社。入社以来会計事務所ネットワークを担当。10社以上の譲渡企業を成約させ新人賞獲得。その後大学時代にタイへ交換留学をした経験から「日本企業をもっとアジアに!」という思いが強くなりシンガポール・オフィスへ異動。シンガポールでは会計事務所ネットワークをゼロから立上げ、タイ・シンガポールローカル企業に対しM&Aのアドバイスをしている。