この記事は2023年5月18日に「テレ東BIZ」で公開された「急成長!格安ステーキ店~アメリカ仕込みの型破り経営術:読んで分かる「カンブリア宮殿」」を一部編集し、転載したものです。
「いきなり!」とは違う~沖縄発の「やっぱりステーキ」
東京・吉祥寺の駅から少し離れた住宅街の人気店「やっぱりステーキ」吉祥寺店。「サーロインステーキ」(100g 1,100円)や「ロースステーキ」(150g 1,100円)など各種ステーキがリーズナブルな値段で味わえる。「やっぱりハンバーグ」(200g(2個)1,000円)もビーフ100%で肉汁たっぷりだ。
▽「やっぱりハンバーグ」ビーフ100%で肉汁たっぷり
そんな中で客の半分以上が選ぶという看板メニューが「やっぱりステーキ(ミスジ)」(100g 1,000円)。1頭から3キロしか取れない肩甲骨周りの希少部位。赤身だが程よい脂があり、しっかりと肉のうまみが味わえる。しかも全てのメニューにサラダ、白米、七穀米、玉子スープが付いていて、食べ放題となっている。
▽「やっぱりステーキ(ミスジ)」一頭から3キロしか取れない肩甲骨周りの希少部位
「やっぱりステーキ」と聞いて客が思い浮かべるのが「いきなり!ステーキ」。
「『いきなり!ステーキと一緒の会社?』『パクリ?』とよく言われます」(「やっぱりステーキ」比嘉真彦)
「いきなり!ステーキ」と言えば2013年に誕生し、一時は一世を風靡したステーキチェーン。しかしこの数年、牛肉の高騰もあり、ステーキ業界全体が低迷。「いきなり!ステーキ」をはじめとする多くのステーキチェーンは軒並み店舗を減らしている。
しかし、「いきなり!ステーキ」のパクリとも揶揄される「やっぱりステーキ」はコロナ禍でも店舗数を拡大。この3年で1.5倍に増やし一人勝ち状態となっているのだ。
客を惹きつけるおいしさの秘密は、なんと言っても素材へのこだわり。主力商品のミスジは業界に先駆け「やっぱりステーキ」が使い始めた。ただしこの肉には難点があった。ミスジはその名の通り筋が多い部位。これを一つ一つ手作業で取り除かなければ柔らかな食感にならない。ステーキとして使えるのは6割程度だと言う。取り除いたスジも無駄にはせず、「牛すじカレー」(750円)や「牛すじ煮込み」(290円)などに使っている。
道具にもこだわりがある。使っているのは鉄板ではなく特製プレート。
「富士山の溶岩石で焼いていて、遠赤外線効果でふっくらと焼き上がるのが特徴です。保温性も高いです」(吉祥寺店・生盛真吾店長)
客席のテーブルの上には多くの瓶が並んでいる。胡椒に、にんにく醤油、「極」はコリアンダーやオレガノなど15種類のスパイスやハーブをブレンドしたオリジナルのステーキ専用調味料。珍しい調味料も多めに用意し、選べるようにしている。
ステーキを日常食にしたい~希少部位で低価格を実現!
「やっぱりステーキ」の創業の地は沖縄。街の中ではたくさんのステーキハウスがしのぎを削っている。沖縄県は人口あたりのステーキ店が最も多いステーキ王国。その沖縄で「やっぱりステーキ」は24店舗と店舗数で堂々第1位となっている。
昼間は家族連れを中心にあらゆる世代が来ている沖縄の「やっぱりステーキ」だが、深夜も大盛況で、そのほとんどがハシゴ客。飲んだ後はステーキでシメる。これが沖縄の文化なのだ。
「『シメはやっぱりステーキ』ということで店名になりました」と言うのは、運営するディーズプランニング社長・義元大蔵(48)。義元が「やっぱりステーキ」を開業したのは2015年のこと。その時から変わることのない基本戦略がある。
「ステーキを日常食にしたいです。目の前にあったらパッと入れて毎日でも食べられる気楽な食事にしたい。やっぱりステーキの競合はラーメン屋さんです」(義元)
▽「ステーキを日常食にしたいです。」と語る義元さん
だから1,000円という値段にはこだわり、そのためコストを徹底的に削減している。
人件費を抑えるために採用したのが、焼き上げを溶岩石で客に任せるシステムだ。「一律でレアで提供して、お客様が自分の好みで焼き上げ、客席でステーキが完成するようなイメージ」だと言う。冷めにくい溶岩プレートだから、客はレアからウェルダンまで自分好みの焼き加減で調整できる。このやり方なら調理スタッフは1人で可能。人件費を抑えながら客も満足という一石二鳥のシステムだ。
▽レアからウェルダンまで自分好みの焼き加減で調整できる溶岩プレート
義元が自分で見て歩き、コストを抑えているのが家賃。一般的に飲食店が家賃にかけられるのは売り上げの10%と言われているが「売り上げに対しての5%が家賃の基準」だと言う。そのため、大通りから外れた路地裏の物件や、周囲には店のない立地の安い物件を選んでいる。しかもほとんどは「居抜き物件なので初期投資を抑えられる」。「居抜き」とはカウンターなどの設備や家具が残った状態で借りられる物件だ。
例えば吉祥寺店は、以前は洋風居酒屋だったが、構造を生かしながら工事費用を抑えてステーキ店に変えた。立ち飲みに使われていた場所はウェイティングスペースに。客はここで雨も凌げ、日差しが強くなる夏もひと息つける。
しかし、家賃が安いだけではダメ。店が流行る場所かどうか、義元は独自の視点をもっている。例えば吉祥寺店の立地は住宅街の真っ只中だが、「歩いている人が大通りよりゆっくりなんです、表通りで人が多すぎると歩くスピードが速くなる。スピードが速くなると周りの店に目がいかなくなるんです」。吉祥寺店は裏通り。観察してみると、ゆっくり歩いている人が多く、店にも目がいくと義元は判断したのだ。
独自戦略と切り札のミスジで客を集め、今や全国87店舗まで拡大した「やっぱりステーキ」。1年目は1億円だった売り上げは7年で約50倍に伸びた。 「『今日は疲れているな、でもステーキを食べて元気を出して仕事頑張ろう』とお客の心を満たす。そういう店になってほしいと思います」(義元)
渡米し皿洗いからマネージャーに~40歳で悲願の独立を果たす
1975年、義元はサラリーマンの父と薬剤師の母のもとで沖縄・那覇市に生まれた。高校に進むと、大学進学よりもやってみたいことができた。
たまたまレンタルビデオで見た映画「トップガン」に憧れて、高校卒業後の1993年、なんの当てもないままアメリカ・ロサンゼルスに渡る。とりあえず語学学校に通いながら皿洗いのアルバイトに励む日々。生活は厳しく10キロも痩せた。
しかし、義元は持ち前の積極性で状況を変えていく。ウエイターになると客の好みを覚えてチップを弾んでもらい、最後はマネージャーに昇格。しっかり売り上げも伸ばした。
「アメリカで独立するのも夢じゃない」と思った矢先、2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが勃発。これが義元の運命を変える。
「すごく鮮烈だった。戦争が身近で起こるんだと思い、パッと決めて日本に帰りました」(義元)
帰国した義元は地元・沖縄でさまざまな事業を手がける大手企業に就職。アメリカでの経験を活かし、飲食業のコンサルタントとして働いた。
「あの時は変な意味で自分がズレ過ぎていて、頭の中がアメリカ人になっていました。ちょっと従業員ができないと『クビ』と。よく『あいつは最悪』と言われていました」(義元)
アメリカナイズされた感性で、仕事ができない人は育てるのではなくクビに。そんな調子だから次第に孤立していく。それでもやり方は変えず、業績を上げることに徹し、広告代理店、アパレル、物流などグループ会社のさまざまな仕事で結果を出し続けた。
40歳となり、義元はずっと温めてきた構想を実行に移す。
「沖縄ではステーキがメジャーと言っても、当時はハレの日に食べる物。値段は2,000円~3,000円では高いなと。1,000円札1枚でステーキをたくさん食べられるというのを実現したかった」(義元)
目指したのは1,000円で食べられるステーキ店。そのためには家賃の安い物件が必要だったが、これぞという掘り出しものが出てきたのだ。
それはわずか3坪にカウンター6席だけの小さな店。しかも席の後ろを人が通っていく。飲食ビルの通路の一角を、破格の家賃で借りることができたのだ。
「みんなそれ見て『なんじゃこれは』と。『こんな所では失敗する』と言われました」(義元)
6坪の店で月商280万円~人を育てる重要性を実感
だが義元の狙いは当たった。ステーキが1,000円、しかも変な場所で食べられると話題になり、口コミで人気が広がった。
カウンター6席だけの店で月に280万円を売り上げた。半年後には2号店を出し、こちらはさらにブレイク。24席の店だったが、1日900人近くが押し寄せた。
義元自身も毎日20時間、店に立ち、死に物狂いで働き続けた。しかし当時、一緒に働いていた従業員は言う。
「最初の頃は『みんなで店を作り上げよう』という感じはなかったです。接客にしても社長1人でお客と話して、私たちは裏で片付けている感じ」(「やっぱりステーキ」与座理美子)
そんな義元を変える出来事があった。ある日の深夜、客が途切れたタイミングを見て店の脇に停めた車で1時間だけ仮眠をとることにした。ところが目が覚めたのは朝の7時半。すでに閉店時間も過ぎていた。その時の従業員の言葉が義元の心を大きく揺らす。
「『自分たちでできるので、社長は休んでいてください』という言葉をかけました。従業員の私たちがいるので頼ってくれという気持ちだった」(与座)
義元はどう変わったのか。その答えが新規オープンに向けたアルバイト研修で見えた。
本番を想定し、接客の確認が行われたが、接客のアルバイトは初めてという新人が戸惑っていた。「大丈夫」と声をかける義元。働く人を大事にし、向き合うようになったのだ。
▽新規オープンに向けたアルバイト研修
「昔は従業員を物としか見ていなかった。働く人は駒だと。人は物じゃないですよね。それが分かって少し変わったんじゃないですか」(義元)
ところが3年前、義元の人生にまた変わり目が。突然、ガンを宣告されたのだ。その時の気持ちとその後の変化について、義元はスタジオでこう語っている。
「上り調子で売り上げも上がっている時だったので、ショックでした。時間の使い方が一番、変わったかもしれません。10年後より目の前を見ないと意味がない。『将来、どうしたいですか?』と聞かれても、目の前しか見ていない。生きるスピードが1日、1カ月ではなく、秒に変わりました」
FC加盟店が次々と増加~ついに海外にも出店
この日、義元は愛媛・今治市に出向いた。「フランチャイズで店を出したいという要望があったので、物件を見に来ました」と言う。
「やっぱりステーキ」は全国に87店舗あるが、その7割はフランチャイズ。フランチャイズの募集は行っていないのだが、「是非やらせて」と言うオーナーが後を絶たない。
FC店オーナーの田村基樹さんは「実際、沖縄に食べに行ったら、ステーキのやわらかさに感動して、『これはすごい』と思って義元社長に会いに行きました」と言う。
さらに、大阪のFC店オーナー、角広之さんは言う。
「今でも忘れません、初めて『やっぱりステーキ』に行った時の衝撃を。どうしたらこんなにクオリティー高く運営できるのか、クエスチョンマークだらけでした。覚悟を決めて、丸坊主にして義元社長に会いに行きました」
「やっぱりステーキ」のフランチャイズには海外店も。ネパール第3の都市、チトワン郡バラトプル。ここにまもなく新店舗ネパールチトワン店がオープンする。
▽「やっぱりステーキ」の海外フランチャイズ、ネパールチトワン店
店のオーナーは日本の「やっぱりステーキ」で立ち上げの時から働いていたネパール人のポウデルキシュナ・マニさんだ。
「やっぱりステーキはネパールに合うと思ったんです。一度、食べてみたらお客さんは絶対リピーターなります」(マニさん)
熱意を認め義元は加盟を承認。これが海外初出店となる。富士山の溶岩プレートなどさまざまな道具を日本から提供し、店舗のデザイン制作も協力した。
ただ、ネパール店のマークは日本とは微妙に違っている。ネパールで出すのは牛肉ではなくヤギ肉のステーキだ。ネパール人の8割はヒンドゥー教徒で、牛は神聖な生き物とされ、食べない。そこで溶岩プレートで焼くスタイルのままに、メニューの食材をアレンジした。
「肉を食べるなら、ネパールの『やっぱりステーキ』だと言われるようになりたいと思っています」(マニさん)
~村上龍の編集後記~
1号店は2015年、沖縄・那覇で3坪6席で。赤身肉のステーキ200gを1,000円で提供。大ヒットして月商280万円を売上。2号店は20坪24席、週6日朝11時から翌朝まで営業。1日37回転という記録を。現在は沖縄県内に24店舗、県外に63店舗、東京店は51号で直営。
なぜこれほど受けたのか。安くておいしいからだ。ステーキの店でそれはむずかしい。「やっぱりステーキ」は革命的だ。寿司で回転寿司がやったことをやった。義元さんに「あなたは革命家です」と言ったが、わからなかったようだ。
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<出演者略歴>
義元大蔵(よしもと・だいぞう)
1975年、沖縄県那覇市生まれ。1993年、那覇高校卒業後、渡米し、語学学校、短期大学に進む。2002年、帰国、飲食コンサルタント業に従事。2015年、独立、「やっぱりステーキ」1号店出店。
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