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天才を一つの仕事に集中させるには?
天才は、リスを追いかけるラブラドール・レトリバーに似ている。いいアイデアが目の前をフルスピードでかすめたら、あとを追わずにいられない。別の面白そうな考えが目についたら、今度は向きを変えてそっちを追いかけだす。
面白いアイデアに気を取られるのは、ひとつのことに集中するよりも簡単で心が躍る。
ラブラドール・レトリバーも、しょっちゅう何かに夢中になったり興奮したりしている。飼い主の横をおとなしく歩くより、リスを追いかけるほうが本能をかき立てられるのだろう。
天才を率いるリーダーにとって、完璧主義ほど悩ましい敵はない。完璧なアイデアを追い求めると、天才がそれに気を取られて、生産的なことをいっさいしなくなるかもしれない。
今よりいいアイデアが現れるチャンスはつねにある。リスを追いかけると生産性が下がってしまうのだ。
いいアイデアを見つけて市場に出すまで集中し続けるのは忍耐がいる。これは、天才の得意なこととは言えない。天才がメンバーを連れてリス狩りを始めたら、チームは本来の目標にたどり着けないだろう。
ビジョンの焦点を絞る
一九三〇年、フレクスナーの提案する科学機関のビジョンを受け入れたバンバーガー兄妹は、彼を所長に任命して、高等研究所の立ち上げを任せることにした。
フレクスナーは、高等研究所がすべてにおいてトップに立つのは無理だとわかっていた。そこで、わずかな分野で世界一になろうと、最初は数学に集中することにした。
そうしてスカウトしたヴェブレン、アインシュタイン、ヘルマン・ワイルは、いずれも世界最高の科学者だった。リソースを集中して限られた領域の超一流を求め、実際に手に入れたのだ。
このような集中的なアプローチは、イノベーションの創出に欠かせない。進歩は知識の最先端で生まれるからだ。既知の領域のその先へ行くには、ビジョンの焦点を絞らなければならない。
フレクスナーは高等研究所の中核ミッションに忠実だった。高等研究所を科学の発展に特化したオアシスにし、ほかの高等教育機関のように学生を受け入れたり学位を授与したりはしない、というミッションだ。
ときには、ふつうの大学らしさを望む一部の教授から反発を受けることもあったが、それにも屈せずビジョンを守り通した。
授業や学生の指導は研究者の時間を奪い、本来の仕事への集中を削ぐというのがフレクスナーの考えだった。「組織という観点から見れば、おそらくわが所は想像しうるかぎり最も簡素で、最も正統から外れている」とフレクスナーは書いている。
そうした人里離れた僧院のような環境で、高等研究所の天才たちは思う存分、研究に打ち込めた。集中を妨げるものはほとんどなかった。
彼らの没頭ぶりを見て、イギリスから来た学者の妻がフレクスナーに尋ねたという。「ここではみなさん、夜中の二時までお仕事なさるのですか?」
焦点を絞ると、密度が詰まって強くなる。まるで釘のように。私はかつて部下の科学者に、目の前にある木製のテーブルを金槌で打ち抜けるかと尋ねたことがある。
「いえ、できないです」とその部下は答えた。「先が尖っていませんから。へこみなら作れるでしょうが、打ち抜くのは無理ですよ」
「じゃあ、釘があれば、金槌でテーブルを打ち抜ける?」
「もちろん」部下は笑った。「まちがいないです」
それから私は、彼が抱えていた問題に話を移した。その問題はいくつもの要素が絡んでいるから、どうがんばっても一度には解決できないだろうと伝えたのだ。「ひとつだけ選んで、釘をテーブルに打ち込むといいよ」と私はアドバイスした。
リスを追いかけるのは楽しい
のちにフレクスナーは焦点を見失い、本業をたびたび逸脱するようになった。中国の希少本の有名コレクションであるゲスト・コレクションが売り出されたときも、資金をかき集めて購入しようとした。高等研究所には中国研究の専門家などおらず、その分野を開拓する予定もなかったのにだ。
フレクスナーは、それがめったにないチャンスであること、二〇世紀は中国への関心が高まるはずであることを理事に訴えた。
果たして彼の読みは一五年後、毛沢東率いる中国が共産主義に移行して現実になるが、その後も同所で中国研究の学者が育つことはなく、フレクスナーは所の基金の少なくない一部を、明らかに的の外れたものに浪費することとなった。
コレクションの購入費は莫大だった。当時の研究所は資金が乏しかったので、フレクスナーは購入費を捻出する代償として、女性や若手の研究者と交わした昇給の約束を破らざるをえなかった。
有名な希少本コレクションの購入を取り仕切るのは、さぞかし胸の躍る仕事だっただろう。だがそれは長い目で見て、組織にほとんど利益をもたらさなかった。
リスを追うことの問題は、それがとても楽しいことだ。初めのうちは、今していることよりもずっと楽しく思える。新しく魅力的でもある。逸脱を追うほうが、目の前のプロジェクトと格闘するよりもたいてい楽なのだ。
何をしないかを決める
フレクスナーがロックフェラー財団に勤めていたころ、財団の会長が助成金の配分の仕方を見直し、組織を立ち上げるような大きな支援を少しだけするのではなく、小さな支援をたくさんする方向に舵を切ろうとした。
ところがフレクスナーは、後者の仕方では財団のミッションがぼやけるので、支援する意味があまりないと反論した。その主張は確かに正しかった。
初期のロックフェラー財団は、シカゴ大学やロックフェラー大学など、ノーベル賞受賞者を何人も輩出する大学の設立を支援していた。そのあとでは、なまじの支援では生産的に見えなかっただろう。
新たなプロジェクトを始めるとき、リーダーがとくに考えなくてはならないのは、「何を最初にするか」ではなく、「何をしないか」を決めることだ。
多くの科学者は自分のアイデアに恋をしている。彼らにアイデアをあきらめさせるには、離婚調停を仕切る弁護士並みの胆力が必要とされる。
集中は犠牲を伴う。ひとつのことに集中すると、別のことに集中できない。あらゆる意思決定には機会費用[訳注:ある選択をしたせいで得られなかった利益のこと]がつきものなのだ。アップルのデザインを統括するジョナサン・アイブはこう言っている。「集中とはノーと言うことです。骨の髄からものすごいと思えるアイデアがあって、朝起きた瞬間から頭を離れないとしても、別のことに集中しているなら、それはあきらめるしかないのです」
天才は自分の数式の美しさに見惚れてもいいが、リーダーは特定のアイデアの美しさに惚れ込まないほうがいい。その美しさは幻影かもしれないからだ。現実にする方法を思いつけないなら、それは追求する価値がないのかもしれない。
「発明(インベンション)と革新(イノベーション)は違います」と、ジョンズ・ホプキンズ大学で教える特許弁護士のローレンス・ヒュージックは私に言った。「発明は新しいものだけど、革新は価値を生む新しいものなんです」
天才を発明よりも革新に集中させる、それがリーダーの仕事なのである。