話題作『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)の著者が、“車と旅”の海外版について語る新連載エッセイ。
“楽園を探す海外放浪夫婦が、中古の軽自動車を買って北海道から南アフリカへ。
警察官の賄賂を断ってジャングルに連れ込まれ、国境の地雷地帯で怯え、貧民街に迷い込み、独裁国家、未承認国、悪の枢軸国、誰も知らないような小さな国々へ。
南アフリカ・ケープ半島の突端「喜望峰」で折り返して日本に戻ってくる予定が……。”
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目次
【第7話】一刻も早くスタッドレスタイヤを手にいれなければ…
シベリアをドライブしていたら、冬になってしまった。まだ10月の中旬、雪虫も見ていないというのに。遺憾である。
幹線道路の雪は除雪車が取り除いたが、住宅街は自然のまま。多くの駐車場は雪に埋もれていた。どう贔屓目に見ても夏タイヤの出る幕は過ぎたようで、一刻も早くスタッドレスタイヤを手にいれなければならぬ。
さもなくば、
一、 雪に埋もれて、発見されるのは来年の春になるだろう。あるいは、
二、 スリップして崖から落ちる。発見されるのは来年の春になるだろう。もしくは、
三、 車をロシアに置いて、飛行機で帰国。カッコ悪いから来年の春まで隠れていよう
わが家の運命はこの3つに絞られる。どれも勘弁していただきたい。
ロシアに軽自動車のタイヤなんて売っているの?
来年の春を制するのは、ひとえにスタッドレスタイヤにかかっているのだが、はたしてロシアに軽自動車のタイヤなんて売っているのだろうか? モンゴルで初雪を拝んだときから気になっていた。
日本を旅立って1万2000km。これまで目にした車といえば、名もしれぬ普通サイズの外車。日本車は、30年以上前に流行ったマークII、クレスタ、チェイサーの三兄弟。懐かしいソアラにプレリュード。お馴染みの佐川急便に西濃運輸、残念ながら赤帽はお目にかかっていなかった。
データを分析して考えるに、走ってもいない車のタイヤを売っているとは思えないから、軽自動車のタイヤは手に入らない。ということになるが、データや先入観に囚われてはいけない。不利なときは、現実から目をそらした方が有利だ。男性用のブラジャーが売れる時代なのだから、常識を疑おう。世の中には雪のシベリアを横断するというのに、冬タイヤを持たない非常識な人もいるのだ。
ノボシビルスク市で、タイヤ屋さんを探した。
所狭しと、ありとあらゆるサイズのタイヤが並ぶタイヤ屋さん
ノボシビルスク市の人口は、160万人。シベリアの首都と呼ばれている大都会だ。
生活必需品はもちろんのこと、ご禁制の品から需要のないもの(たとえば、軽自動車のタイヤ)まで、ありとあらゆるものが手に入るに違いない。多少高くても文句は言いません。売っていただけるのなら、なんでも言うことを聞きます。遠慮なくご用命くださいと、街で一番大きいタイヤ屋さんの門を叩いた。
店内は、所狭しとありとあらゆるサイズのタイヤが陳列されていた。おそらくは世界中のタイヤが、我こそはと集まったのだろう。ならば、軽自動車のタイヤだってある。しかし油断は禁物だ。海外は横着者の店員が多い。よく探しもしないで、そんなものはないねーと追い払うことがある。店員のやる気と能力を最大限に引き出せるよう、下手に出ることにした。
入り口正面のカウンターに、男性店員が立っていた。深々と頭を下げて、「ズトラストビーチェ(こんにちは)」とあいさつをする。飛び込み営業マンの、邪気を隠した天使のような笑顔で。
「これがほしいのですが」と、うやうやしくタイヤサイズを書いたメモを渡した。
店員の名前はセルゲイ、30代半ば。面白みのない紺色のポロシャツを着た中肉中背。実直そうに見えた。筆者の渡したメモを片手にパソコンに向い、型番を打ち込んだ。画面の上から下まで視線を動かせて、ひとこと言った。
「ありません」
ライオンとトラの子ども「ライガー」までいる街、ノボシビルスク
げぼっ、やっぱりないのか! 一瞬にして泣きたくなったけれど、そんなことはおくびにも出さないのが、アウェーでの交渉術である。諦めるのはまだ早い。調べたフリをしただけで、横着者かもしれない。
セルゲイさん、そんなはずはないと思いますよ。ごく普通のタイヤなんですから。もう一度調べてください。必ずありますから。
若干おどおどしながら辿々しい英語でお願いするのがポイントだ。とすると、しょうがないなあと呟きながら重い腰を上げ、「えーと、どれどれ、あ、本当だ、在庫、ありました」となるのである、
……というほど世の中は甘くはなかった。
「調べ直したけど、うちにはないですね。というか、こんな小さなタイヤはロシアにないと思います。見たことないから」
あっさりと地獄に突き落とされた。……がしかし、「取り寄せましょうか?」と言うではないか。
えっ、そんなことできるの? さすが大都会、そういえば、ライオンとトラの子ども「ライガー」はこの町にお住まいだと聞きました。ないはずのものまであるノボシビルスクです。
Yuko、取り寄せてくれるって。助かった〜、これで旅を続けられる!……と喜んだのも束の間、
「ひと月くらいかかりますけど」
再び、地獄に突き落とされた。というのも、2週間後にロシアのビザが切れるのである。
ねぇセルゲイ、このお店が最後の希望なんです
ひと月は待てない。絶対に無理です。ビザが切れてしまうのです。不法滞在になったらお先真っ暗だ、と思ったらもう日が暮れていた。
「ほかのお店にあるってことはないですかね?」
「ないですね。問屋に在庫がないから」
「では、取り寄せはどこから?」
「日本から輸入します」
セルゲイ、返事にそつがなかった。案外、守りが堅いのである。でもね、実際問題、ないじゃ済まされないのです。スタッドレスタイヤが手に入らないと、ボクら、ツンドラの大地に埋もれてしまいます。このお店が最後の希望なんです。常識なんか捨てて、あらゆる手立てを考えましょうよ。打開策が浮かぶまで、残業! とは言えないじゃないですか、そんな図々しいこと。
ひたすら困った顔して固まっていたわけなんですが、そんな哀愁に満ちた佇まいがセルゲイを動かしました。あるんですね、ロシア人にも“情けは人のためならず”系のツボ。
「わかりました。ちょっと調べてみましょう」
インターネットの「売ります、買います」サイトで、軽自動車のタイヤを検索。これがなかなか見つからなくて苦労しているのが目に余るけど、ごめんなさい、お手伝いしたいけど、ロシア語は読めないのです。やがてモニターを見ながら電話をかけてなにやら書き留め、「この人が売ってくれるって」とメモを渡してくれた。
見つけたの!? セルゲイ、ありがとう。固く両手を握りしめてお礼をしたとき、手が汗ばんでて気持ち悪かったでしょう、許してください。
それではさようなら、お世話になりました、と手を振ったときは若干涙ぐんでてさぞかし気持ち悪かったでしょう、許してください。
Yuko、急いでこの人に会いに行こう!
車のなかでセルゲイのメモを開いて驚いた。まさかのキリル文字。ひと文字も読めないのだった。
英語を話せない謎の男性と待ち合わせ
キリル文字は、底意地が悪い。
英語のアルファベットを真似ているあたりが、ずるくてならない。発音できそうなフリをするものだから、「N」に似た「и」を「ん」と発音してみたり、「h」をひっくり返したような「ч」をハ行としたり、「R」っぽい「я」は巻き舌風に。「ж」とか「Њ」は見なかったことにして飛ばす。
さまざまな工夫をしながら読んでいるというのに、「Д」でトドメを刺してくる((゚Д゚))。しかもセルゲイのメモは、草書体。無駄に達筆だ。
そんな暗号文をGoogleマップを頼りに読み解くYukoはキリル文字より賢くて、あっちに向かって! と右方向を指さしたのが、夕方の18時。
途中、予約していた宿に「チェックインが遅れます」とメールをして、ロシアでは絶対に売れない軽自動車のタイヤを売っている謎の男性に電話。待ち合わせ場所を教えてもらったのが、仇となった。完全に迷子になってしまった。
謎の男性は英語を話せないのである。それでよく会話ができるなと思うのだが、Yukoの説明を聞いても意味不明なので割愛。シベリアの大地を彷徨い続けて、待ち合わせ場所だと思われる地点に着いたのが、21時。3時間も経っていた。
街灯ひとつない真っ暗な空き地
そこは、街灯ひとつない真っ暗な空き地だった。
ヘッドライトに浮かぶのは、壊れた冷蔵庫とか穴の空いたソファとか、錆びついたコンテナ。人の気配はゼロ。麻薬とか武器を売ったり買ったりするのにほどよい雰囲気で、前科者とか業界関係者以外立ち入り禁止かもしれない。少なくとも、人さまが待ち合わせする場所には見えなかった。
騙されたってことはないよね?
怯えていたら、やってきたのである。マフィアに毛が生えたような人相の悪い、かつまた無駄に体格のいいおっさんが、ドカジャンを着て。
視線があったら、なにガンとばしてんねんって言ってきそうな目玉を見ないようにして、遅れてごめんなさいアイムソーリーと謝りながら9,000ルーブル(17,548円)を渡した。そのまま現金を持ち逃げされても追いかけないこと! と肝に銘じて。
ところが意外にも素直にタイヤをくれたのである。コンテナを開けて、これだよ、持ってけ!って。しかも、タイヤの交換をしたいなら、あっち行ってこっちだぞって、工場まで教えてくれて。
思わぬご親切に、ありがとう、ありがとうとくどくどとお礼をして握手をした手は、緊張で汗じっとり。目に涙を浮かべていたから、さぞかし気持ち悪かったでしょう。ごめんなさい。
タイヤの交換を終えたら、22時になってしまった。急いで予約していた民泊まで走り、ドアの呼び鈴を押したけれど誰も出てくれない23時。遅すぎて、キャンセルされてしまったのである。
なんてぇこった、宿なしだ。
車中泊できる場所を探して街をぐるぐる走ったけれど、真夜中で誰も歩いていない。誰か助けて! あの待ち合わせ場所しか思いつかない、深夜0時。
次回は、中央アジアの独裁国家カザフスタンに入ります。警察官に賄賂を要求されて……。(第8話に続く)
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