ナイキ 最強のDX戦略
(画像=JesseBettencourt/peopleimages.com/stock.adobe.com)

(本記事は、白土 孝氏の著書『ナイキ 最強のDX戦略』=祥伝社、2022年4月28日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

スティーブ・ジョブズとナイキ

意外に思われるかもしれませんが、コロナ危機で真価を発揮したナイキのデジタル戦略は、アップルのスティーブ・ジョブズと深い関わりがあります。2006年、ナイキのCEOに指名されたマーク・パーカーは、アップルとの特別なパートナーシップを締結し、「ナイキプラス・アイポッド・スポーツキット」の製品ラインを発表しました。これは「より快適なランニングエクスペリエンスを創出する」ことを目的としたもので、「ナイキプラス・アイポッド」に対応したシューズのインソールにアイポッド・ナノと通信するモーションセンサーを埋め込んだのです。この仕組みにより、ランニングのペースや走行距離、カロリー消費量などをデバイス上で知ることができるようになりました。アイポッド・ナノはランニングをしながら音楽を聴くことができますから、当時の両社のプレスリリースでは「スポーツと音楽のふたつの世界の新しい融合を実現するパートナーシップ」という表現が採用されています。

ジョブズはリリースのなかでこう語っています。
「アップルはナイキと協力し、音楽とスポーツを新たな次元に引き上げるべく努力しています。これはそのひとつの成果で、ワークアウト中のあらゆる段階においてコーチやトレーニングパートナーによってモチベーションを高められるものになったと確信しています」

マーク・パーカーとスティーブ・ジョブズは、この製品をニューヨークで発表しますが、このイベントにはツール・ド・フランスで7度優勝したランス・アームストロングと、女子マラソンの世界記録保持者、ポーラ・ラドクリフが出席し、ナイキとアップルの連携を祝福しました。パーカーは、この製品について次のように語りました。

「ナイキプラス・アイポッド・スポーツキットは、デザインとイノベーションを通じて最高の消費者製品体験を創造したいと願う、ふたつのグローバル・ブランドのパートナーシップによって生まれました。今回の製品はその最初の成果であり、ナイキプラス・アイポッドは人々の走り方を根本的に変えることになるでしょう」

ナイキ 最強のDX戦略
(画像=『ナイキ 最強のDX戦略』より)

このときアイポッド・ナノに対応したシューズは「ナイキ エア ズーム モアレ プラス」のみでしたが、その後より多くのシューズにこの機能を対応させるとしていました。ちなみに翌年発売された革命的な製品「アイフォーン」には対応せず、アイフォーンでナイキプラス・アイポッド・スポーツキットが利用できるのは2009年発売のアイフォーン3GS以降となります。ただデジタル技術の進化は速く、2009年の第五世代アイポッド・ナノには早くもモーションセンサーが組み込まれ、シューズと通信する必要はなくなり、アイポッド・ナノのナイキプラスアプリのみで運動量を計測できるようになりました。現在ではナイキプラス・アイポッド・スポーツキットは生産されていませんが、この初期のアプリが後のナイキの「NRC(ナイキランクラブ)アプリ」に発展したという意味でとても象徴的なものでした。

注目すべきポイントは、当時のアップルとナイキの提携が非常に強力で特別なものであったことです。なぜならこの最初のデジタルデバイスとシューズの「結婚」(マリアージュ)というプロジェクトでは、デジタルデバイスの設計製造をアップルに依存し、出来上がった製品をナイキとアップルの双方で販売したという非常に稀有(けう)な協業が成立したからです。そればかりではありません。この提携を強力にするために、ジョブズは当時アップルのCOO(最高執行責任者)だったティム・クック(現在のアップルのCEO)をナイキの取締役会に加えることに同意し、これによってナイキにとってデジタル変革の方向性を知悉(ちしつ)する最高の参謀を得たのです。

2000年代中期に、スポーツアクティビティにおける運動データの捕捉への消費者のニーズが強くなり、利便性の高さから腕時計型のウェアラブル端末がランナーの間で流行し始めます。2009年にGPS機器の大手ガーミン社は「フォアランナー」というモデル名で多くのスマートウォッチを発売するとともに、腕時計へのGPS搭載の開発にも取り掛かっていました。アップルにはまだこの分野の製品がなく、危機感を抱いたナイキは2011年に「ナイキプラススポーツウォッチGPS」を発売します。これはアイフォーンに頼ることなく、単独で動作し、シューズに入れるナイキプラスセンサーを採用することでランナーのステップデータを腕時計に表示、さらにGPSを介してランニングコースを確認することができる機能を有していました。

ちなみにランニングに特化したこのデバイスは、GPS技術を誇る「トムトム社」との共同開発によって製品化され、2012年になると、手首に装着して運動情報を得る「フュエルバンド」というウェアラブルデバイスを独自開発し、アイフォーンと連携させる商品も発売しています。ナイキとしては、スポーツ分野における最先端のデジタルデバイスで他社の後塵(こうじん)を拝することだけは何としても避けたかったのですが、アップルはこの時点では腕時計型のウェアラブル端末の発売の計画がなく、ナイキは自前でウェアラブルデバイスを開発せざるを得なかったのです。

しかし「フュエルバンド」は発売から2年後の2014年に生産終了が発表され、2015年にはナイキは「ナイキプラススポーツウォッチGPS」を含むウェアラブル機器の製造販売を全面的に中止しました。この決定はウェアラブル端末分野でガーミン社に対抗することがナイキ単独では難しいと判断したこともありますが、ようやく2015年にアップルが初のウェアラブル端末「アップルウォッチ」を発売すると発表したことが最大の理由でした。アップルがスマートウォッチを発売するとなれば、ナイキはもはや自前で端末を作る必要はありません。ハードウェアはアップルに任せて、モバイルアプリというソフトウェアに専心する初期の協業の姿が最良のソリューションです。2015年にジョブズはすでに故人となっていましたが、その後継者はナイキの取締役会に名前を連ねるティム・クックで、期せずして「アップルウォッチ」は彼がCEOに就任して初の新製品となりました。

ナイキ 最強のDX戦略
白土 孝
1954年生まれ。靴の量販店を全国展開する株式会社チヨダで、取締役としてマーケティングやIRを担当。2013年からカジュアル衣料チェーン、株式会社マックハウスの代表取締役社長を務めた。
2019年に同社退任後、コンサルティングサイト「LINK496」を設立。チヨダ在職中の2000年にECサイトを立ち上げるなど、ITリテラシーの高さと実績を生かし、事業者のデジタル経営をサポートしている。
またチヨダでは自ら店頭に立ちナイキのシューズを販売するとともに、ナイキという企業の経営戦略を研究。訳書に『スウッシュ――ナイキ「裏社史」』(小社刊)がある。

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