ナイキ 最強のDX戦略
(画像=Nattakorn/stock.adobe.com)

(本記事は、白土 孝氏の著書『ナイキ 最強のDX戦略』=祥伝社、2022年4月28日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

コロナ危機下の驚異的なデジタル浸透

6月の決算発表でドナホーは、コロナ危機に臨のぞんでナイキは「デジタルエコシステムを使って消費者とのつながりをより強固にした」ことを強調しました。これは日本ではあまりピンときませんが、米国や欧州の消費者にとってはどういうことを意味するのかすぐにわかります。店舗閉鎖が続いた第4四半期のコロナ危機の間、ナイキはアプリを通して消費者に一貫してメッセージとベネフィットを送り続けたからです。

ナイキはブラウザベースのECサイト「ナイキドットコム」のほかに、スマートフォンアプリとして、EC用アプリである「ナイキアプリ」をはじめ、「ナイキランクラブアプリ(NRC)」、「ナイキトレーニングクラブアプリ(NTC)」、そしてスニーカーヘッズたちに限定スニーカーを提供するアプリ「スニーカーズ(SNKRS)」を展開しています。これらのアプリは、コロナ危機下においては家のなかにいる消費者とスマートフォンでつながれる非常に強力なツールですが、まず中心になったのはナイキトレーニングクラブアプリでした。ナイキは、このアプリを通してすべてのアスリート(一般のスポーツ愛好家含む)をサポートするために、さまざまな形式のトレーニングクラス、コーチング、モチベーション付け、栄養指導、トレーニングのコンテンツを無償で提供しました。

ナイキ 最強のDX戦略
(画像=『ナイキ 最強のDX戦略』より)

3月21日のプレスリリースで、ナイキは「楽観主義と勇気はスポーツの世界を定義するふたつの特徴」と述べ、最も困難な時期に人々がスポーツを日常的に行う方法をサポートし、さらにそれを促進するために、サブスク(定期課金)だったNTCプレミアムのプログラムを無料にすると発表しました。これによってスタジオでのストリーミング動画によるワークアウト、体重を減少させるプログレッシブ・トレーニング、また専門家であるエリートナイキマスタートレーナーからのアドバイスが無料で利用できるようになります。ちなみにこの時点でのNTCアプリ内には、15分から60分の範囲の185を超えるワークアウトのライブラリがあり、これらは体重のみのセッション、ヨガのクラス、対象を絞ったトレーニングプログラム(腹筋、腕、臀筋(でんきん)など)、すべてのフィットネスレベルのトレーニングコンテンツがありました。もちろんトレーニングやランニング用シューズのオススメはこのアプリ内で利用者に告知されますが、ECに直結するものではありません。

しかし無料にするからには、このアプリからナイキメンバーを獲得するという、まさにデジタルカンパニーらしい目標を設定します。そこで、このサービスを幅広く知ってもらうために「プレイ・インサイド、プレイ・フォー・ザ・ワールド」という動画をインスタグラムやユーチューブ、ツイッターなどのSNS上にアップし、パンデミックのなかでスポーツを通して消費者に勇気を与えるメッセージを発信しました。

メッセージはこうです。
「世界中の何百万人の人々の前でプレイすることを夢見たことがあるなら、今こそチャンスです。屋内でプレイし、世界へ向けてプレイしてください」

このパンデミックを逆手に取ったソーシャルメディアメッセージは、ナイキの広告代理店として有名なワイデン・アンド・ケネディー社によって作られました。

この動画がアップされるとリリースから1時間以内に、クリスティアーノ・ロナウド、タイガー・ウッズ、カーリー・ロイドがシェアしたほか、マイケル・ジョーダン、セレーナ・ウィリアムズなどもこれに続き動画を共有しました。いずれもナイキの有名契約アスリートたちです。そして世界中の多くのアスリートや一般の人たちが、タイトルをタグ付けして自分のワークアウトについての様々な動画を投稿し、大きな広がりを見せることになります。まさにSNS活用のお手本ともいうべきこの過程こそナイキの狙いで、「消費者との強いつながり」を作り、莫大な数のアプリのダウンロード数とナイキ会員の増大を実現していきます。

さらに4月5日には、ナイキは「リビングルームカップ」をオンライン上で開催します。これはアプリユーザーと世界最高のアスリートが競(きそ)えるという夢のようなプログラムで、ナイキはリリースのなかでこう述べています。

「世界中のアスリートが、屋内でスポーツを毎日の習慣にするという勇気ある楽観主義を選択しています。もちろん、競争はスポーツの世界の特徴でもあり、自分のベストと競争するだけでなく、他の人との友好的な競争も必要です。4月5日にデビューするデジタルワークアウトシリーズであるリビングルームカップは、毎週のフィットネスチャレンジを通じてナイキのプロアスリートと競争するための新しいスペースを提供します」

「リビングルームカップ」で最も話題を呼んだのが、ワークアウトチャレンジでソーシャルメディアユーザーをクリスティアーノ・ロナウドと対戦させるという「デジタルワークアウトシリーズ」イベントです。これは4月5日にインスタグラムを通じてロナウドによってキックオフされましたが、ロナウドは、わずか45秒で142回のレップ(腹筋運動の回数)の動画をインスタグラムに投稿しました。そして彼はファンとフォロワーを招待し、1週間でこの記録に挑戦するよう呼びかけました。イベントには数千人が参加し、その後このインスタグラムの投稿は1週間で1000万回以上閲覧(えつらん)される驚くべき成果を収めました。プレイヤーは#playinsideと#thelivingroomcupを使用してインスタグラム内で結果を共有でき、莫大な数のトランザクションを生み出しました。ナイキはこのイベントをシリーズ化し、自宅で孤立している人々が有名なアスリートに挑戦するゲームを通して「前向きに生きる」というメッセージを送り続けました。

ナイキのトレーニングクラブアプリには、毎週のチャレンジに備えゲーム参加者たちを特訓するトレーニングメニューまでアップされました。こうした手法を広告業界ではゲーミフィケーション(ゲーム化)と呼びますが、これは人間の脳内に備わっている報酬系と呼ばれる神経系を刺激するもので、ゲームに参加することでそのブランドとの関係性を深めるとともに、そのブランドに触れる時間が長くなり大きな費用対効果を生む宣伝手法と言われています。経済誌「フォーブズ」の記事によれば、米国のホワイトキャッスルというファストフードチェーンが実施したゲーム報酬としてのクーポンは、発行全体の36%が使用されるという高い効果を生んだと言われています。

ナイキとワイデン・アンド・ケネディー社はこのSNSキャンペーンの仕掛けの後、一連のメッセージキャンペーン動画「ユー・キャント・ストップ・アス(誰も私たちを止めることはできない)」をローンチします。これはアスリートたちの「挫折からの復活」をテーマとしていて、多くの消費者にコロナ危機からの復活を信じてポジティブであろう、というメッセージを送りました。特に5月にリリースされた、NBAのスター選手、レブロン・ジェームズやセレーナ・ウィリアムズ、タイガー・ウッズが登場する「ネバー・トゥー・ファー・ダウン(必ず遠からず復活する)」という動画は、現在までにユーチューブで1億2000万回も再生されています。

ナイキ 最強のDX戦略
白土 孝
1954年生まれ。靴の量販店を全国展開する株式会社チヨダで、取締役としてマーケティングやIRを担当。2013年からカジュアル衣料チェーン、株式会社マックハウスの代表取締役社長を務めた。
2019年に同社退任後、コンサルティングサイト「LINK496」を設立。チヨダ在職中の2000年にECサイトを立ち上げるなど、ITリテラシーの高さと実績を生かし、事業者のデジタル経営をサポートしている。
またチヨダでは自ら店頭に立ちナイキのシューズを販売するとともに、ナイキという企業の経営戦略を研究。訳書に『スウッシュ――ナイキ「裏社史」』(小社刊)がある。

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