(本記事は、白土 孝氏の著書『ナイキ 最強のDX戦略』=祥伝社、2022年4月28日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
偽物スニーカーの闇
中華人民共和国福建(ふっけん)省に莆田(プーティアン)市という地方都市があります。
ここは、かつてナイキやアディダスなどのスポーツシューズが生産されていた地方都市ですが、今では「偽物スニーカーの街」として有名です。中国国内はもとより、日本も含め世界のフリマアプリやオークションサイト、ECサイトなどで販売される「偽物」は、ほとんどがこの莆田市で生産されたものだと言われ、一説にはブランドスニーカーの「偽物」全体の95%が莆田市に由来するという推計もあります。
ユーチューバーの白龍(はくりゅう)氏の動画(白龍SNEAKERS)では、偽物スニーカーの70%がクオリティーの低いもので、当然のことですが、これが最も生産量が多く売り手の利益率も高いとコメントされています。彼によれば、ナイキの偽物スニーカーで真贋(しんがん)の区別が難しいコピー品は残りの3割で、それらは写真や設計図、あるいは現物を参考に作られたものだそうです。偽物の品質については中国の某旅行サイトでも莆田靴の紹介として堂々と言及されていて、グレードは「スタンダード級」、「A級」、「リアル級」、「コンパニ級」、「スーパーAリアル級」に分かれていると記され、価格は本物の4分の1から3分の1程度。プロの鑑定士でなければ真贋の区別はつかないとまで書かれています。
莆田市ではナイキだけでなく、アディダスやコンバースなどあらゆる人気スニーカーの偽物が作られていて、この街では完全な産業として成立していると言われています。これにはナイキをはじめとした欧米ブランドの歴史的な生産地の変遷が関係しています。もともとナイキのスニーカー生産は日本で始まりましたが、70年代の半ばには賃金の高騰から産地を韓国や台湾に移動しました。やがて韓国や台湾の賃金が上昇し始めると、韓国系シューズ企業が青島(チンタオ)など中国北部に、台湾系シューズ企業は海峡を隔(へだ)てた福建や広州に工場を移転し、ナイキシューズの生産を担いました。
ナイキは一貫して低賃金国を求めて産地を移動させ、1990年代には、生産が中国とインドネシアで生産量の6割を占めていた時期もあります。現在では対中貿易摩擦の影響でベトナムへの産地移動が加速し、生産量はベトナムがトップに立っています。莆田市は台湾系シューズ企業が進出したおかげで、1986年に1億1000万元だったスニーカーの総生産額が、10年後の1996年には42億9000万元となり、なんと40倍の成長を遂げました。
しかしこの頃になると、中国の経済成長に伴って人件費が大きく上昇し始めます。ちなみに2001年のベトナムの最低賃金が月額約24ドルに対して、莆田市の最低賃金は月額54ドルで倍以上となっています。ナイキがその対応として行った調達先の変更によって、莆田市の多くのシューズ工場が見捨てられました。そして見捨てられた工場が生活の糧(かて)を求めて偽物製造を始めたのです。何しろ20年にもわたってナイキやアディダスを製造してきた地域ですから、シューズ製造の技術者は多く、熟練労働者も潤沢(じゅんたく)です。また裾野の広い靴製造を支える原材料や部材、箱やタグの製造まで多くのサプライヤーがこの地域に密集しています。偽造業者の手口は、正規のOEM(他社ブランド製品の受託製造)工場の従業員に賄賂(わいろ)を渡し、設計図面や撮影写真、サンプルを持ち出させ、場合によっては正規品が市場に出回る前に偽物を製造します。
福建省ではここだけでなく、晋江(ジンジヤン)市でも偽物を製造していたと言われています。しかし幸いにも莆田市と違って、晋江市は中国国内ブランドの「アンタ」や「361ディグリーズ」などの製造を担い、偽物の製造から手を引きました。莆田市と晋江市はナイキ製造から獲得した高い技術と熟練労働者を抱えたふたつの靴生産地ですが、晋江市は表の道を歩み、莆田市は闇の道を歩むことになったのです。
ドイツの消費者団体が2015年にインドネシアで実施した調査によれば、同国の靴工場のシューズ1足の販売価格(小売価格)に占める利益率は4%、人件費は2%と言われています。このデータをナイキに当てはめれば、例えばエアジョーダン13の中国での小売価格1399元(2万5587円)の場合、OEMの靴工場の出荷価格はおよそ280元(5121円)と推定されます。この場合の工場の利益は56元(1024円)、労働者の賃金は28元(512円)です。しかし莆田市のエアジョーダン13の偽物なら280元(5121円)の小売価格を設定でき、工場の利益も100元(1829円)となり圧倒的に利益率が高くなります。この利益率は工場にとって、とても魅力的です。
莆田市政府は2014年から大規模な偽造防止活動組織を作っていますが、偽物がいかに押収されたとしても中国社会独特の「宗族(そうぞく)(父系の同族集団)」と「賄賂」で運営されるこの偽物産業は、根絶やしにはできないでしょう。たとえ社会的に問題のある仕事であったとしても「宗族」の利益になることは一族あげて守るのが伝統的な中国社会と言われ、そうした社会風土が産業にも反映されているのです。最近では、莆田市の偽物があまりに有名になったことで、同市の偽物ナイキシューズは生産地を「メイド・イン・ベトナム」と表示する手の込んだフェイクまで始めていると言われています。
米国のケーブルテレビHBOの取材で莆田市が取り上げられたことがありますが、そのなかで、同市は次のように描写されています。
「この都市は『幽霊都市』と呼ばれています。日中は信じられないほど静かで、活気づくのは毎晩9時以降。夜になると人々が集まり、互いに話をし、商品を取りに行く準備が整うと交通渋滞が発生します。『偽物の靴市場』は、莆田市の地域経済の目に見えない柱となっています。地方政府による取り締まりの努力にもかかわらず、市場が消えることはなく、その製品は中国の隅々にまで流通し販売されています」
莆田市にある店舗にはアディダス、ナイキ、ニューバランスなどの有名ブランドがずらりと並んでいますが、よく見ると文字が少し違っていたり、ロゴがずれていたり、正規品との違いが見てとれます。オンラインが販売の中心となるので専門の写真スタジオもあり、オンラインストアにアップロードする写真を撮影する業務を行っています。またこの市場には新規参入者のためのスクールまであり、オンラインショップの運営方法、写真の編集方法、否定的なコメントや悪い評価への対処方法などを教えているそうです。
莆田市政府は、偽物工場の摘発や閉鎖では偽物を根絶(こんぜつ)できないと判断し、逆に2015年には方針を変更して、地元工場をサポートすることを決定。莆田市のシューズの品質は他の外国ブランドと負けないものがあるとまでコメントしました。さらに政府は地元ブランドを支援するために1億元(1450万ドル)の財政支援まで提供しています。しかし、個人がネットを使って月間10万ドル以上の売り上げを確保できるこの闇のビジネスは消えません。
2019年から2020年にかけて米国のトランプ前大統領が仕掛けた対中貿易制裁によって、偽物スニーカーの米国向け取引が大打撃を受けました。またパンデミックによって引き起こされた世界経済の減速で莆田市の多くの偽物販売業者は国内市場に軸足を移しました。2020年11月に、上海当局は1億2000万元(1825万ドル)の偽造スニーカーを摘発しましたが、それらはすべて莆田市のものだとされています。しかしウェイボーのようなSNSでは、莆田市の偽物スニーカーに対してほとんどのコメントが好意的で、偽物の多くが本物のシューズよりも優れているというコメントさえあったと言います。実際、ウェイボーが実施したアンケートでユーザーに偽物スニーカーを購入したか質問すると、大多数が「購入した」と答えています。これには重要な背景があって、それは中国の若者たちがナイキやアディダスのシューズが自国で極めて安価な原価で製造されていることを知っていることです。彼らはブランドが提示している価格は不当だと感じているのです。
莆田市は本物に酷似した高品質の偽物スニーカーを生産しています。これらは材料も本物と類似したものを使い、シューレースや鳩目(はとめ)(レースを通す穴)、商品タグ、箱などの副資材も完璧にコピーしますから、コストもそれなりに高くなり、販売価格は100ドルを超えてしまいます。
ではなぜ、そのように高額な偽物が生産されるのか。それは例えばナイキの「エアジョーダン11コンコルド」がリセール(再販)サイトにおいて、どういう価格で売られているかを見ればすぐに答えが出てきます。このスニーカーは非常に人気が高く、「ストックX」や「スタジアムグッズ」といった米国のリセールサイトでは7万円台で販売されているのです。一方、莆田市の偽物だと1万3000円程度。本物と見分けがつかないほど精巧なものであるとすれば、莆田市スニーカーは充分に競争力があります。こうしたプレミアム価格スニーカーの偽物には高い需要があり、闇のルートで全世界に広がっているのです。
ナイキは2021年1月に、ナイキとコンバースの偽物スニーカーをオンライン販売しているとして589のサイトをニューヨーク地方裁判所に提訴しました。訴訟書類は130ページにも及び、そのなかで676のソーシャルメディアアカウントと100を超える所在不明の企業や人物を偽造もしくは偽造品の販売に関わっている疑いがあるとして告発しました。
ナイキによれば「知的財産権を侵害している589のウェブサイトは、現在または過去12カ月以内に、米国の消費者にナイキまたはコンバースの偽物製品を宣伝、販売していて、被告が中国、サウジアラビア、バーレーン、およびその他の外国に拠点を置く42の別々のネットワークを介して偽造スキームを運用している」としています。また、これらのウェブサイトのなかには、販売されている製品の信憑性が疑わしいもの、または明らかに虚偽の説明がなされているものであるほか「無許可の本物」が販売されているものもあるとしています。驚くべきことですが、これはナイキ自(みずか)ら受託生産工場が商品を横流ししていることを認めていることになります。さらにウェブサイトのなかには堂々とレプリカバージョンであることを認めていて、「レプリカ」という言葉で偽物を販売しているものもあります。偽物スニーカーの闇はどこまでも深いと言えます。
エルメスやルイ・ヴィトン(革製品)、ロレックス(時計)など高級ブランドのコピー品が中国で売られていることは昔から有名です。そうした風土の温床には、根本的に人々の間で知的財産権の概念が希薄なことにあります。産業の高度化とともに、今やその風土の影響はブランド商品にとどまらずIT関連の特許や軍事関連技術にまで及んでいます。しかしナイキにまつわる偽物スニーカーの蔓延(まんえん)は単純に知的財産権に対する意識の低さが要因というだけでなく、その偽物がとんでもない利益を生み出す魅力的なビジネスであることに起因するのです。
2019年に同社退任後、コンサルティングサイト「LINK496」を設立。チヨダ在職中の2000年にECサイトを立ち上げるなど、ITリテラシーの高さと実績を生かし、事業者のデジタル経営をサポートしている。
またチヨダでは自ら店頭に立ちナイキのシューズを販売するとともに、ナイキという企業の経営戦略を研究。訳書に『スウッシュ――ナイキ「裏社史」』(小社刊)がある。
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