この記事は2022年9月8日に「テレ東プラス」で公開された「自分で動ける希望を生み出す「魔法の車いす」の秘密!:読んで分かる『カンブリア宮殿』」を一部編集し、転載したものです。
動かない足がなぜか動く~常識破りの「足こぎ車いす」
2022年6月に東京・新宿区「戸山サンライズ」で開かれた足こぎ車椅子「コギー」の試乗会。参加者は全員、足こぎ車椅子初体験だ。
ふだんは電動車椅子を使っている丸田愛子さん。筋肉が弱っていく筋ジストロフィーを患い、14年以上、車椅子生活を続けている。病気の進行とともにできないことが増え、最近は1人で立ち上がるのも難しくなった。そんな自分でも漕げるのかと半信半疑で参加。だが、ほとんど動かせなくなった足をペダルにしっかり装着すると、自分の力で動かせた。
▽東京・新宿区「戸山サンライズ」で開かれた足こぎ車椅子「コギー」の試乗会
続いて試すのは、先天性の障がいで体のバランスが取りづらい豊田健太さん。「もともと足が悪く、足が上がらないので、できるわけがないと思っています」と言っていたが、乗ってみるとやはり動かせた。最初の一歩を踏み出すことができれば、この車椅子は自分の力で漕げるのだ。
「コギー」は半身麻痺など、足が不自由になった人のリハビリ用に開発された。不自由な足で漕げる秘密は、人間が持っている本能の1つ「歩行反射」を使っているから。それは生まれて間もない赤ちゃんに見られる。赤ちゃんの片足を床につけると、まだ歩けないのに、もう片方の足も前に出す。この本能こそが歩行反射だ。
▽人間が持っている本能の一つ「歩行反射」を使っている
「コギー」は歩行反射が出やすいように設計されていて、右足でペダルを踏んだ刺激が、反射として左足に伝わる。脳からの指令ではなく、反射で漕ぐことができるのだ。
この日、試乗会に参加した4人は全員が前に漕ぎ出し、喜びを溢れさせた。
「コギー」を使うのは障がいのある人だけではない。愛媛・四国中央市にある、社会福祉法人「くりのみ会」には、足腰の弱った高齢者たちがやってくる。車椅子の人やなんとか歩いてくる人など、程度はさまざまだ。
この日、開かれたのがコギーによる12メートル競走などの運動会。どの人も元気一杯、楽しそうにペダルを漕いでいる。
▽コギーによる運動会、どの人も元気一杯、楽しそうにペダルを漕いでいる
この施設では10年前から「コギー」を導入。少しずつ買い足して今や70台も所有している。高齢者の筋力維持に加え、怪我や病気で足腰が弱った人のリハビリで大きな成果を上げている。
東澤和子さんは3年前に腰の骨を折る大怪我を負い、「このまま寝たきりになるのでは」と、しばらく落ち込んだ。しかし、そんな不安をコギーが吹き飛ばしてくれた。
▽「このまま寝たきりになるのでは」そんな不安をコギーが吹き飛ばしてくれた
儲からないけど諦めない~常識と戦う「コギー」の伝道師
「コギー」の普及に人生をかけるTESS社長・鈴木堅之(48)。2008年の創業で、以来13年間にわたってベンチャー企業のトップを務めるが、経営的には「儲かってないですね。儲かる仕事としてはやってない。そう言ったら株主の方に怒られますが、歩行困難な方や介護で頑張っている家族の方が、少しでも思い描いたところに近づける仕事ができればいいですね」と言う。
▽「少しでも思い描いたところに近づける仕事ができればいいですね」と語る鈴木さん
本社は仙台市。スタッフは鈴木を含めてたったの4人という小さな会社だ。
なかなか「コギー」が売れない一因はその値段にあると言う。病院などで使われている一般的な車椅子は15万円前後が相場。一方、鈴木が販売する「コギー」(M)はその倍以上、32万9,000円する。これまで13年間で売れたのはおよそ1万台。厳しい経営がずっと続いている。
もちろん、売れるのを黙って待っているわけではない。営業活動も積極的に行っている。
この日、仙台から訪ねたのは東京・青梅市の高齢者専門病院、青梅慶友病院。病院のスタッフは「コギー」に触れるのは初めてだ。世の中になかった物だからパンフレットで説明しても伝わらない。乗ってもらうのが一番早い。
好感触は得られるのだが、いざ購入となるとハードルは高いと言う。
「安全第一なので、自分で動ける人にはスタッフが付く必要があります。自分が動くことによる危険性もあるので……」(作業療法士・田中将人さん)
「実際に買うとなると『高いな』という印象はあります」(理学療法士・吉際俊明さん)
「コギー」はアメリカでは医療機器の認定を受けたが、日本ではあくまでリハビリ用。それもあってなかなか理解されにくい。
「『足が動かない人の足が動く』というのは、専門家になればなるほどより『あり得ない』と思われるので、伝わりづらいんです」(鈴木)
「コギー」を広めようとすることはまさに世間の常識との闘いでもあるのだ。
鈴木がこの日、「コギー」を携えてやってきたのは東京・千代田区の家電量販店「ビックカメラ」有楽町店。これまでは福祉関係の専門店中心だったが、今年、「ビックカメラ」5店舗での販売にこぎつけた。
「今までは一般の方の目に触れる場所がない状況だったのですが、これで『友達や両親に使えるかも』と思っていただける。皆さんに知っていただける場があれば流れが変わるかもしれない」(鈴木)
「コギー」の利用者の中には奇跡のような回復を見せた人もいる。「ドラベ症候群」という難病で重度の知的障害を持つ兵庫・宝塚市の林聖憲さん。高校生の時に「30歳前後で歩けなくなる」と宣告され、実際には20歳を超えると、歩くのが難しくなった。
「ちょっとそこまで歩いて連れていこうとしても、すぐ座り込んでしまい立ち上がらせるのも大変。悪循環で、歩かないと足が弱るので困っていました」(母・優子さん)
そんな時に出会ったのが「コギー」。「これなら漕げる」とリハビリを続けた結果、28歳の今、1キロマラソンを完走できるまでになった。今の目標は10キロ完走だ。
「『コギー』をきっかけにして何かに『チャレンジしたい』という人がいる。それがモチベーションですし、私の場合、暮らしや人生そのものが『コギー』になっている」(鈴木)
▽「コギー」の利用者の中には奇跡のような回復を見せた人もいる
「コギー」で人生が変わった~小学校教師が営業マンに
11年前に脳出血で倒れた堀江奈穂子さんは、右半身に麻痺が残った。以来、外出を控える生活を続けていたが、3年前にコギーと出会い、自分から街へ出るように。コギーは小回りが利くので、狭い通路の店でも自由に動ける。ご主人と旅行に出かける楽しみも復活した。
▽「『コギー』によって生活がほぼ昔と同じようにできる。」と語る堀江さん
最近は1人でランチに出かけることも。この日は地元のスペイン料理店「ドス ガトス」へ。評判のパエリアを頼んでみた。1人で動けるようになっただけではない。コギーが気持ちを変えてくれたのだ。
「どうしても病気になった直後は不自由になった自分のことを恨んで、なかなか認めることができませんでしたが、『コギー』によって生活がほぼ昔と同じようにできる。おいしいものを食べられて外に出かけられて、生きていて良かったと思います」(堀江さん)
諦めかけていた人に希望を灯す鈴木の事業。しかしその道のりは苦難の連続だった。
1974年、静岡の薬剤師の家庭に生まれ、中学生の時には、貧しい農民を支援し続けた宮沢賢治の生き方に心を打たれ、賢治を生んだ岩手の大学に進学する。2001年には27歳で教師となり、山形の小学校で働き始めると、人生の転機が訪れる。
受け持ったクラスにはたまたま車椅子の男子生徒がいた。
「『ドッジボールやろう』と言って生徒たちが出ていくとひとりぼっちになってしまう。みんなが楽しく遊んでいる様子を教室で見ているので『どういう思いなんだろう』と思っていました」(鈴木)
ある日、放課後の職員室で見たテレビのニュースに鈴木は釘付けになる。写し出された映像では、今までほとんど歩けなかった女性が、ペダルのついた車椅子をスイスイ楽しそうに漕ぎ出したのだ。
「その子を乗せてみたいし、多くの人の生活が変わると思いました」(鈴木)
鈴木は開発に当たった東北大学を訪ねる。そこで出会ったのが運動機能を取り戻す医療の研究者、半田康延さん。この出会いが鈴木の運命を変える。
「『足の機能は一度失ったらそれまで』『上半身で何とか補う』という考え方しかなかったので、足を再び動かすという研究は衝撃的でした」(鈴木)
鈴木は2003年、教師を辞め、半田教授らの研究を実用化するためのベンチャー企業FESに転職。足こぎ車椅子の営業マンになった。
当時、鈴木が売り込んで歩いた車椅子のパンフレットが残っていた。それによると、重さは80キロで価格は1台300万円だった。
主に病院や介護施設に売り込んだのだが、そもそも「足が動かない人」のための「足で漕ぐ車椅子」はまったく理解されず、ほとんどが門前払い。たまに話を聞いてもらえても、「この重さと価格では」と、商談は進まなかった。
「1番ひどいのだと、『詐欺か?車いすなのに足で動かせるのか?』と。『そうやって人をだましているんだ』と言われたことがあります」(鈴木)
倒産、震災で存続の危機~それでも諦めない不屈の男
結局、1台も売れないまま4年が過ぎ、大学ベンチャーはあっけなく倒産する。だが、鈴木は諦めなかった。
「あんなに大きくて重いものでも、乗った方には喜ばれる。それで家族も元気になる。『待っている人はいる』と当時、思っていました」(鈴木)
鈴木は教師を辞めた時の退職金やコツコツ貯めてきた貯金をはたき、自ら足こぎ車椅子のメーカー、TESSを立ち上げる。真っ先に取り組んだのが重さの改良だった。
最初80キロあった車椅子は、この時点で軽量化されてはいたが、それでもまだ「50キロくらいあって、1人で持ち上げるのは無理」(鈴木)だった。しかし、メーカー探しは難航した。車椅子メーカーや自転車メーカーなど100件近くから断られた。
「最初のうちは『断られて当然だ』と思っていたのですが、数を重ねるうちに、『引き受けてくれるところはどこもないんじゃないか』と」(鈴木)「救いの手を差し伸べたのが千葉市の「OXエンジニアリング」。パラリンピックなどで使われる競技用車椅子をオーダーメイドで作る職人集団だ。今は亡き創業者の石井重行さんが事故で足の自由を失っていたこともあり、軽量化の設計をとりあえず引き受けてくれた。
▽軽量化設計の試作を担当した「OXエンジニアリング」技術開発部の飯星さん
試作を担当した技術開発部の飯星龍一さんは、車椅子テニスの世界ナンバーワンプレーヤー、国枝慎吾選手をはじめ、多くのパラスポーツ選手の車椅子を作ってきた職人だ。鈴木が来た10年以上前のやり取りを飯星さんは覚えていた。
「当時の試作機を持ってこられました。それを超えるのは楽勝。あとはどこまで超えられるか」
事実、飯星さんは従来の3分の1以下の重量、15キロにしてみせた。「びっくりしていました。『軽い』と」(飯星さん)。
2009年、軽量化した足こぎ車椅子を売り出すと、発売から半年で500台が売れた。
鈴木の事業はようやく軌道に乗ったかのように見えたが、その矢先に東日本大震災が起こる。鈴木の会社のあった仙台周辺を含め、東北の沿岸部一帯は甚大な被害を受けた。鈴木が売り込もうと考えていた病院や施設も購入を検討するどころではなくなったのだ。
「『さあ、これからやろう』という時だったので、これではできないと思いました。『これで終わりかな』と」(鈴木)
再び陥った倒産の危機。しかし、鈴木のとった意外な行動がピンチをチャンスに変える。
東日本大震災から2カ月後、被災地に車を走らせる鈴木の姿があった。古くからの港町で水産加工工場も多かった宮城県の閖上(ゆりあげ)地区など、被災地の避難所を回り、「コギー」の無償貸し出しを始める。避難所生活では体を動かすことが少なく、寝たきりになってしまう高齢者が増えると聞き、「これで運動を」と、「コギー」を持ち込んだのだ。
損得抜きでやった必死の行動がその後の売り上げにつながっていく。
当時、「コギー」を貸し出した仙台市健康増進センターを訪ねてみると、今も使われていた。貸し出しを受けた際、効果を実感。その後、追加で購入し、現在は7台になっていた。
「障がいの有無で違いを感じないで、一緒に活動できるので、うちは助かりました」(入江徳子さん)
同じようなことが相次ぎ、震災後に売り上げは回復。追い詰められても諦めなかった鈴木の粘りが今につながったのだ。
ロボットスーツと連携?~新たな価値を生む新戦略
神奈川・藤沢市にある脳梗塞などで歩けなくなった人達が頼る駆け込み寺「湘南ロボケアセンター」。そこで活躍しているのが、歩行機能の回復を促すロボットスーツ「HAL」だ。
▽歩行機能の回復を促すロボットスーツ「HAL」
田北玲央さんは脳性マヒがあり、体のバランスが取れない。それをなんとかしたくて1年前から週に一度通ってきている。
さらに田北さんは、「コギー」を「HAL」と併用するようになった。「コギー」なら体幹や筋肉も鍛えられる。ロボットスーツと足こぎ車椅子、どちらか一方より相乗効果が期待できると言う。
▽「自分でいろいろ動けるから楽しいみたい」と語る田北さん
「自分でいろいろ動けるから楽しいみたいで、『HAL』を目的に来ているけど『コギー』を楽しみにしている感じです」(母・樹里さん)
~村上龍の編集後記~
「足が不自由な人が乗るのが車いす」という常識がある。足で漕ぐ車いすコギー、ただ、乗る人はみな喜んでいる。
設計したのは、パラリンピックの競技用車いすも手がける、技術力を誇るメーカー。デザインも素晴らしい。車いすのF1のようだ。起業から13年が経ち、認知度も高まって国内外で1万台に達した。
しかし、圧倒的に少ないと思う。いろいろな意味でPRが足りない。「足が不自由な人が乗るのが車いす」という常識を覆す必要がある。常識を覆すのは恐ろしく大変だ。
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<出演者略歴>
鈴木堅之(すずき・けんじ)
1974年、静岡県生まれ。1996年、盛岡大学文学部を卒業。2001年、山形県の公立小学校の教員に転職。2003年、医療ベンチャーFES入社。2008年、TESS設立。
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