フランス生まれのアーティスト、マルセル・デュシャン。代表作は、男性用小便器を使った作品《泉》。「観念としての芸術」を追い求めたデュシャンは、その斬新さでパブロ・ピカソやアンリ・マティスらの巨匠と並ぶ20世紀美術に大きな影響を与えた重要人物の一人と言われ、高く評価されている。そんなデュシャンの代表作6選の解説やデュシャンをより理解できる書籍などを紹介。

目次

  1. ▍マルセル・デュシャンとは?
  2. ▍デュシャンの主な代表作6選
  3. ▍その他の作品
  4. ▍日本での主な展覧会
  5. ▍デュシャンをもっと知る書籍
  6. ▍まとめ

▍マルセル・デュシャンとは?

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp/1887年〜1968年)は、フランス・ノルマンディー地方出身の芸術家。7人兄弟の3男として生まれ、兄のガストンとレーモンはそれぞれジャック・ヴィヨン、レーモン・デュシャン=ヴィヨンの名前で美術家として知られている。そんな兄弟の影響で14歳の頃から絵画に取り組み始める。初めは印象派に影響を受けた絵を描いていたが、30代半ば以降は絵画制作をやめてしまった。それから既製品を作品へと昇華する「レディ・メイド」に取り組み、ニューヨーク・ダダ(※)やコンセプチュアル・アートを発展させる先駆者として名を残す。また、デュシャンはチェスの名手としても知られている。

マルセル・デュシャンとは
(画像=マルセル・デュシャンとは)

※ニューヨーク・ダダとは・・・

「ダダ」とは、1910年代半ばに起こったヨーロッパやアメリカで起こった芸術運動「ダダイスム」のこと。第一次世界大戦に対する抵抗やニヒリズム(人間の存在意義や世界に本質的な価値がないとする哲学)の考えが根底にあり、既成の価値観や常識に対する否定や攻撃、破壊などの思想が特徴。伝統的な美術様式に沿った美学をダダイスムは無視するところがあり、「反芸術」とも捉えられる。ニューヨーク・ダダは、アメリカの写真家アルフレッド・スティーグリッツのギャラリー「291」が拠点となっていた。

▍デュシャンの主な代表作6選

デュシャンは一つのジャンルや技法、それまでの常識に囚われることなく、自分の芸術に対しての考え方である「観念としての芸術」を表現するため追求していったアーティストだ。そんなデュシャンの主な代表作6選を時系列で見ていこう。

ー初期ー

高校を卒業後、デュシャンは1904〜1905年にアカデミー・ジュリアンで絵画を学ぶ。デュシャンのキャリア初期は、後期印象派やパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックによって創始された「キュビスム」、20世紀初頭にフランスで起こった野獣派と呼ばれる絵画運動「フォービスム」に影響された作風で制作していた。

《階段を降りる裸体No.2》
初期作品群の中でも、特に有名なのは《階段を降りる裸体No.2》である。これは連続した人物のイメージを重ね合わせ、これまでのキュビスムにはなかった「動き」と「時間」を表現しようとしたもので、イギリスの写真家エドワード・マイブリッジの《Woman Walking Downstairs》に影響を受けている。

《階段を降りる裸体No.2》(1912年)
(画像=《階段を降りる裸体No.2》(1912年))

出典:https://www.wikiart.org/

《Woman Walking Downstairs》(1887年)
(画像=《Woman Walking Downstairs》(1887年))

出典:https://ja.wikipedia.org/

デュシャンは、同じく「動き」を表現する絵画運動のグループ「未来派」の影響も受けたとされているが、厳密に描き始めた時期はデュシャンの方が先だったため、この表現の被りは偶然とされている。1912年にパリの美術展「アンデパンダン展」で展示された際は、当時のキュビスト達から「未来派すぎる」と批判を受けた。デュシャンが油絵を描いていたのは1912年頃までで、それ以降は絵画作品の制作を放棄。以降、違うアプローチで表現活動をしていくことになる。

ー渡米以降ー

1915年に渡米し、55年にアメリカの国籍を取得。デュシャンは渡米当初、英語が話せなかったが、フランス語教師をして金銭を稼いでいるうちに話せるようになったそう。コレクターのキャサリン・ドライヤーや写真家のマン・レイとも親交を深め、ニューヨーク・ダダの中心人物として制作活動をする。

この時期、後のパトロンとなるルイス&ウォルター・アレンズバーグ夫妻に出会い、デュシャンの主要な作品は夫妻が購入。フィラデルフィア美術館が所蔵するデュシャンの作品は、夫妻からの寄贈によるものが多い。

《自転車の車輪》
ニューヨークでアトリエを構えたデュシャンは、既製品に少し手を加えたものをオブジェとして提示する「レディ・メイド」の発表を始める。スツールの上に車輪を乗せた《自転車の車輪》がレディ・メイドの最初の作品だとされている。

《自転車の車輪》(1913年)
(画像=《自転車の車輪》(1913年))

出典:https://www.wikiart.org/

《泉》
デュシャンは視覚的な美しさよりも、鑑賞者の思考に語りかける「観念としての芸術」を掘り下げていく。実際にデュシャンは、クールベ以降(ギュスターヴ・クールベ/フランスの写実主義の画家)のアートシーンを「網膜的」、つまり目の快楽だけで描かれていると批判している。

そんなデュシャンが現代美術におけるコンセプチュアル・アートの創始者と言われるようになったきっかけが《泉》(または《噴水》とも呼ばれる)である。これは、既製品の便器に「R.Mutt(リチャード・マット)」の署名と年号「1917」が入っただけのもので、当時大きな物議を醸した。この作品の真意は、日常生活から既成の便器を切り離して作品として展示することで“便器”としての機能を無くし、オブジェへと変化させているところにある。つまりこれは、視覚で楽しむ芸術ではなく、哲学で楽しむ「観念としての芸術」である。

《泉》(1917年)
(画像=《泉》(1917年))

出典:https://www.wikiart.org/

この作品は、1917年にデュシャンが実行委員長を務めていた「ニューヨーク・アンデパンダン展」で展示される予定だった。しかし、同展は手数料を払えば無審査で誰でも出品できる展覧会だったのにも関わらず、協会は《泉》の展示を拒否(デュシャンは匿名で《泉》を出品していた)。カタログにも掲載されず、最終的にオリジナルの《泉》は行方不明となってしまった。

このことに激怒したデュシャンは、自分の作品であることは伏せたまま抗議文を提出し、委員長を辞任。この一連の出来事は「リチャード・マット事件」と呼ばれている。後にデュシャンは、「展示が拒否されたのではなく、作品は会場の仕切り壁の背後に置かれていて、自分も作品がどこにあるか分からなかった」とインタビューで答えている。ちなみに、現在世界各地の美術館で所蔵されている《泉》は、デュシャンが1950〜60年代にかけて委託で制作したレプリカの作品。

《L.H.O.O.Q.》
レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》を複製した安価な絵葉書に、鉛筆で口ひげや顎ひげを書き加えてタイトルをつけたレディ・メイド作品。タイトルの「L.H.O.O.Q.」をフランス語で発音すると「エラショオオキュ」となり、日本語で「彼女はお尻が熱い」つまり「性的に興奮した女性」という意味となる。この作品は、2017年10月のサザビーズオークションで63万2500ユーロ(当時約8,460万円)で落札された。

《L.H.O.O.Q.》(1919年)
(画像=《L.H.O.O.Q.》(1919年))

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《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》
通称《大ガラス》と呼ばれている《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》は、1915年から1923年の8年に渡って制作されたものの、未完のまま放棄されてしまった作品。2枚のガラス板と鉛の箔、ヒューズ線、埃などの素材を使って制作されている。

《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(1915-1923年)
(画像=《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(1915-1923年))

出典:https://www.wikiart.org/

上のパネルは「花嫁」、下のパネルを「9人の独身者」として、それぞれが出会う様子を表現している。透視図法(遠近法のこと)、職人的技術、数学や建築的要素などが合わさり、そのデザインや構想、意味などの全体を理解するのは非常に複雑な作品である。ガラスのひびは、1926年にブルックリン美術館で展示された後の移動中に入ってしまったものをデュシャン自身が修復している。

ー晩年ー

《1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ》
通称《遺作》と呼ばれている《1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ》は、1944年〜66年の間にアトリエでひっそりと制作されていたインスタレーション作品。扉の覗き穴のみから、裸の女性が横たわった作品を見ることができる。

《大ガラス》以降、デュシャンは芸術家としての活動よりも残りの生涯はチェス競技に没頭していたと信じられていたため、この作品が発見された時は非常に驚かれた。デュシャンが残した「フィラデルフィア美術館に寄贈する」という旨の遺言の通りに、デュシャンの死後から1年後の1969年に公開された。ちなみに、デュシャンは「死ぬのはいつも他人ばかり」という名言を残したことでも知られている。

遺作
(画像=遺作)

出典:https://www.artpedia.asia/

《1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ》(1944-1966年
(画像=《1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ》(1944-1966年)

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▍その他の作品

映画『アネミック・シネマ』

『アネミック・シネマ』は、1926年に写真家のマン・レイが協力して制作した実験映画。デュシャンが「ロトレリーフ」と呼んだ回転する映像が映し出され、ダダとシュルレアリスム(※)の初期映画のひとつとされている。デュシャンは「ローズ・セラヴィ」という別人格を持っており、この映画はローズ・セラヴィ名義で制作した。また、マン・レイは1920年代に女装写真シリーズにおいてローズ・セラヴィを撮影しており、1921年にはデュシャンと共に『ニューヨーク・ダダ』誌も刊行した。

後にデュシャンは、度々ローズ・セラヴィのサインで作品集の出版や作品を発表。1930年代に入ると、デュシャンはシュルレアリスト達とコラボレーション活動をしていたことで知られているが、シュルレアリスム・グループへの参加はしていない。

《Rrose Sélavy》(1921年)マン・レイが撮影したポートレイト
(画像=《Rrose Sélavy》(1921年)マン・レイが撮影したポートレイト)

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※シュルレアリスムとは・・・

フランス語の「シュル=超」に「レアリスム=写実主義、現実主義」を組み合せた言葉で、日本語では「超現実主義」と呼ばれる芸術運動のひとつ。「シュール」という言語表現の元になり、代表的な作家としてサルバドール・ダリが挙げられる。

《グリーンボックス》

1911年〜20年の間に書き溜めた94点のメモを集めたもので、《大ガラス》を制作する過程で残された詳細のメモやスケッチ、写真などが残されていて、哲学的で難解な《大ガラス》の図像を補填するような作品。それぞれのメモはまとめて綴じられずにバラバラの状態になっており、それらを並べていくと、デュシャンが主張する作品制作における「思考のプロセス」も芸術作品の一部であることが表現されている。

《グリーンボックス》(1934年)
(画像=《グリーンボックス》(1934年))

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《トランクの箱》

革製のトランクに《大ガラス》などのデュシャンの主要作品のミニチュア・レプリカや写真を納めた作品。持ち運びができるため、「ポータブル美術館」と表現されている。

《トランクの箱》(1941年)
(画像=《トランクの箱》(1941年))

出典:https://www.artpedia.asia/

▍日本での主な展覧会

「マルセル・デュシャンと日本美術」

「マルセル・デュシャンと日本美術」
(画像=「マルセル・デュシャンと日本美術」)

出典:https://casabrutus.com/

日本での代表的な個展に挙げられるのが、2018年10月2日〜12月9日に開催された東京国立博物館とフィラデルフィア美術館の交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」。本展は「デュシャン 人と作品」と「デュシャンの向こうに日本がみえる。」の2部に構成されていて、デュシャンが15歳の時に描いた《ブランヴィルの教会》など初期の作品や写真、関連資料など貴重なコレクションが展示された。(公式)

《ブランヴィルの教会》(1902年)
(画像=《ブランヴィルの教会》(1902年))

出典:https://www.wikiart.org/

▍デュシャンをもっと知る書籍

デュシャンの作品は哲学的な芸術作品のため、一目見ただけでは分かりづらく、難解な部分も多い。そこでデュシャンへの理解をより深めることができる2冊の書籍を紹介。

『マルセル・デュシャン』

多摩美術大学名誉教授だった美術評論家の東野芳明の著書。東野芳明は、1978〜80年にかけて、デュシャン本人の許可のもと《大ガラス》のレプリカを東京大学と共同で制作した人物として知られており、1990年には『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』も出版している。

東野芳明著(1977年/美術出版社)
(画像=東野芳明著(1977年/美術出版社))

出典:https://www.amazon.co.jp/

『マルセル・デュシャンとは何か?』

2017年にデュシャンの研究で吉田秀和賞を受賞した、京都工芸繊維大学教授の平芳幸浩よる著書。タイトルの通りに、デュシャンを分かりやすく解説したデュシャン入門書の決定版。他にも『日本現代美術とマルセル・デュシャン』(2021年)を出版している。

平芳幸浩著(2018年/河出書房新社)
(画像=平芳幸浩著(2018年/河出書房新社))

出典:https://www.amazon.co.jp/

▍まとめ

常に新しいものを生み出そうとしていたデュシャンは、初期のキュビスムの絵画もそれまでのキュビスムの流れにそのまま乗るのではなく、最新の表現を提示。絵画制作を放棄してからは、「観念としての芸術」をより深く追求した作家人生を送り、現代のコンセプチュアル・アートの先駆けとなる《泉》や《大ガラス》などの作品を発表。

それらの活動を通して、芸術作品とは作品そのものだけで完結するのではなく、作品を制作する過程で生まれる思考のプロセスもその一部であることを訴え続けた。マルセル・デュシャンは、視覚的な刺激を受容の他に、考えることによって生まれる「アートの楽しさ」を現代まで教えてくれるアーティストである。

マルセル・デュシャン
(画像=マルセル・デュシャン)

出典:https://www.franceculture.fr/

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文:ANDART編集部