「なぜエース社員は離職してしまうのか」人材育成の現場で毎年聞かれる悩みです。本連載では、エース社員の退職を防ぐための実践的なアプローチについて、退職トラブルに悩む企業へのコンサルティングを行う佐野創太氏に解説してもらいます。 |
前回はエース社員の燃え尽き症候群の予兆と、それを防ぐための「上司のブレーキ」について解説しました。今回は、多くの管理職が抱える「エース社員が優秀なひとりのプレイヤーのままで終わってしまう」という悩みの解決策を模索します。(編集:日本人材ニュース編集部)
※登場する人物名や社名はフィクションです。実在の人物や団体は無関係です。

これまでの記事はこちら▼
【第1回】なぜエース社員はSOSを出せないほど苦悩するのか
【第2回】なぜ“元エース社員のマネジャー”ほどエース社員を退職させてしまうのか
【第3回】無自覚なエース社員は辞めていく―相談できる職場のつくり方~エース社員の退職を防ぐ1on1実践論
【第4回】エース社員は5段階で燃え尽きる―持続的な活躍をつくる「上司のブレーキ」とは
なぜ優秀なエース社員ほど「管理職の道」を歩めないのか
「彼女は本当に優秀なんです。でも、いつまでたっても”プレイヤー”のままで…」
前回に続き、従業員300人規模の中堅IT企業の事例です。営業部で5年連続売上トップの佐藤さん(34歳・女性)の上司である山田部長からの相談でした。
佐藤さんは燃え尽き症候群から復職した後、健全な働き方ができるようになりました。しかし、山田部長には新たな悩みが生まれていました。
「相変わらず、全てを自分でやろうとするんです。確かに以前より無理はしなくなりました。でも、その代わりに『できる範囲を選んで引き受ける』という対処になっています。これでは、より洗練された”個人プレイヤー”になるだけです」
私がキャリア相談者として1200人以上の相談に乗ってきた経験から言えるのは、ここに「見えない壁」があるということです。その壁とは、思考法の違いです。
エース社員はなぜ管理職への道を歩みづらいのでしょうか?それは彼らが「足し算思考」の罠にはまっているからです。

◆足し算思考(エース社員に多い) ・自分のスキルをさらに高めようとする ・「自分がやれば早い」と考える ・ もっと多くの仕事をこなそうとする ◆引き算思考(管理職に必要) ・自分の仕事を減らすことを考える ・チームの仕組みづくりに注力する ・「自分がやらなくても回る」を目指す |
エース社員は「引き算思考の1on1」で育つ
山田部長はある日、佐藤さんとの1on1でこんな会話をしました。
「佐藤さん、先月のA社プロジェクト、何時間くらいかかった?」 「そうですね…30時間くらいです。前より20時間は減らせました」 「なるほど。もし10時間になるとしたら?」 「それは無理です。品質が保てません」 「品質はそのままで、あなたの時間が10時間になる方法を考えてみませんか?佐藤さんは次の段階に進む時期に来ています。」 |
佐藤さんは一瞬、困惑した表情を見せました。これが「引き算の1on1」の始まりです。エース社員の多くが「自分の時間を減らす」という発想自体を持っていません。無理もありません。「自分の時間を増やすことで成果を出してきた」のですから。
山田部長は本気で佐藤さんを次の段階に育てるため、「業務の棚卸し」を行いました。特に完遂型のエース社員の佐藤さんには特別なアプローチが必要でした。
山田部長は業務を仕分けしながらこう話します。
「佐藤さん、今の業務を『A:あなたにしかできない業務』『B:あなたが最適だが他の人もできる業務』『C:誰でもできる業務』に分けてみよう」
最初、佐藤さんはほとんどを「A」に分類しました。よくある反応です。完遂型エースは「他の人がやると品質が下がる」と考えるからです。
ここで山田部長は「引き算の思考」を披露します。
「100点の品質が本当に必要なものばかりですか?80点で十分な業務はないでしょうか?それに、80点の業務を他の人が最初は70点でやっても、佐藤さんが教えれば次第に85点、90点になるはずです」
私はこれを「品質の相対化」と呼んでいます。エース社員の頭の中では「100点以外は失敗」という思い込みがあるんです。それを崩す質問が必要です。
この対話で佐藤さんの業務の約40%が実は「B」または「C」だと分かりました。そこで二人は簡単な「引き算計画表」を作りました。
業務名 | 現在の時間 | 目標時間 | 差分の行き先 | 必要な教育・仕組み |
---|---|---|---|---|
A社定例MTG | 5時間/週 | 2時間/週 | 田中さんに委譲 | A社の過去経緯の共有 |
週次レポート | 3時間/週 | 1時間/週 | テンプレート化 | レポートフォーマットの作成 |
「考える時間も仕事です」
山田部長は佐藤さんに告げました。エース社員は「自分がやれば早い」と即行動してしまいます。でも、この棚卸しで「1ヶ月後のチームが楽になるために今何をすべきか」を考える習慣が身につきます。
ある管理職からこんな質問を受けたことがあります。
「うちのエース社員も似たような状況です。でも委譲しようとすると『私がやります』と言って引き受けてしまう。どうしたらいいですか?」
答えはシンプルです。「評価の仕組み」を変えることなんです。
社員は評価制度から「会社の本音」を感じ取る
実は、多くの企業の評価制度自体が「足し算思考」を助長しています。「個人の成果」「努力」「獲得した案件数」…これでは「仕事を手放すと評価が下がる」と考えるのは自然なことです。
山田部長が佐藤さんに「引き算思考」のスイッチを入れた会話があります。
「次の四半期から、評価基準を変えます。これまでは『獲得した案件数』が主な指標でした。これからは『あなたが育てたメンバーが獲得した案件数』も同じ重みで評価します」
佐藤さんは驚いた顔をして「でも、それは私の成果ではないですよね?」と聞き返しました。
「いいえ、それこそが『マネジメント人材としてのあなたの成果』です」
エース社員のキャリア相談の中でよくお聞きする愚痴は「会社は口では”チーム育成”の大切さを言いながら、実際は”個人の数字”しかみてないですよ」です。確かにこれでは、エース社員も身を守るために「自分で成果を出す」ことに集中せざるを得ません。
ある人事部長から「評価制度を変えるのは大変です」と言われたことがあります。確かにそうです。評価制度を刷新した企業の人事役員は覚悟を教えてくださいました。
「評価制度を変えるということは、売り上げが一時的に下がることを認めるということ。一回しゃがむことで、大きくジャンプする。この意思決定なんです」
山田部長は佐藤さんとの1on1で、こんな質問も投げかけました。
「もし、佐藤さんが1ヶ月休暇を取ったら、何が起きますか?」
最初、佐藤さんは「すべてが止まってしまうかもしれません」と答えました。でも、この問いを掘り下げていくと「どの部分が止まるのか」「なぜ止まるのか」が具体的になり、「仕組み化すべきポイント」が見えてきます。
これを私は「不在テスト」と呼んでいます。エース社員が「自分がいないと回らない」と思っている状態は、実は組織にとっても本人にとってもリスクです。この認識が重要です。
「引き算の1on1」を3ヶ月続けた結果、佐藤さんには驚くべき変化が生まれました。

1. 後輩への業務委譲が倍増 2. 自分の作業時間が20%減少 3. 新しい業務改善提案が増加 |
そして何より、彼女自身が「チームの成果」にやりがいを感じ始めました。マネジメント人材への第一歩を確かに歩み始めています。
エース社員を管理職に育てる「引き算の1on1」実践ポイント
エース社員が管理職の道を歩むための具体的なポイントをまとめておきます。
1. 「引き算思考」への転換を促す質問を投げかける 「もし、この業務の半分の時間でやるなら?」 「あなたがいないチームでも同じ成果を出すには?」 「品質を少し下げても良い部分はどこ?」 2. 「委譲」を前向きな行為として位置づける 多くのエース社員は「任せる=投げ出す」と考えがちです。実際は「任せる=育てる」です。 3. 評価基準を明確に変える 言葉だけでなく、実際の評価で「引き算」「委譲」「チーム育成」を評価します。これが行動変容の決め手になります。 |
山田部長は言います。 「引き算の1on1は時間がかかります。でも、エース社員が抱える『個人プレイヤーの限界』は必ず訪れてしまいます。その前に、次のステージに進む準備をさせることが、上司の大事な役割だとわかりました」
会社は意識しなければ「もっと頑張れ」「もっとスキルを高めろ」というメッセージを発し続ける機械です。エース社員はそのメッセージを体現する存在です。そんな会社を代表するような存在ですから、”次の景色”を「引き算のマネジメント」で見せる。
「エース社員に依存せず、選手層の厚い組織」を作れている企業は、「エース社員が生まれる仕組み」に着手しています。
佐野創太氏のこれまでの連載はこちら▼
退職マネジメントのプロが語る退職トラブル解決法
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