神山慈太(かみやましげた)さんは音楽一家に生まれ育ち、18歳でクラブミュージックの制作を始めました。21歳からはDJとしても活躍し、23歳で初の海外レーベルから作品をリリース。現在はロンドンで暮らしながら新たな曲の制作に励む神山さんに、音楽への思いや今後の展望を伺いました。 |
家族の影響で音楽に目覚める
幼少期から音楽に囲まれて育った僕は、家族の影響を受けて自然と音楽に親しんでいました。中学生の頃、ベースをやっていた兄の影響で僕も演奏の楽しさに目覚めました。家にエレキギターとアコースティックギターが置いてあったので、新しく買わなくても触れることができる環境があったのです。
高校時代は陸上競技に打ち込み、リレー競技でインターハイにも出場しました。卒業後の進路を決める際には「音楽に関わる仕事をやってみたい」と思い、音楽の専門学校への進学を決意しました。
専門学校に進学したものの、業界についての知識は乏しく、将来への不安を抱えていました。しかし、先生方の「音楽を聞きまくれ」という言葉に従い、CDショップに通ってさまざまなジャンルの音楽に触れるなかで、ダンスミュージックに出会ったのです。
ダンスミュージックにハマった僕は、聴くだけでは満足できず、自分でも作曲にチャレンジしたいと考えるようになりました。そこから先生方のアドバイスを受けながら、少しずつ曲作りに取り組んでいったのです。
海外のレーベルから作品をリリース
音楽制作の世界に飛び込んだ僕は、まず1曲を完全にコピーすることから始めました。フルコピーを通して、ダンスミュージックの構成や強弱の付け方など、音楽制作の基礎を知ることができました。
僕が作るダンスミュージックのジャンルはイベントの数が少なく、大阪で唯一やっていたクラブに通っていたら、アルバイトとして働けることになりました。そこで、オーナーに自分の作品を聴いてもらったところ、「DJをしてみないか?」と声をかけていただきました。
DJの経験は、曲制作にも活かすことができます。家で聴いていた曲が、クラブの大音量で聴くとまったく違って聴こえたり、お客さんの反応も予想外だったりと、リアルな現場感を肌で感じることができました。
それでもDJとして活躍する道よりも、僕は曲の制作が一番好きでした。自分が目指すレーベルにデモ音源を渡すチャンスもありましたが、初めは反応がありませんでした。
それでも諦めずにいた数年後に、改良を重ねた音源と以前一緒に撮影した写真を添えて再度送ったところ、ついに返事が届きました。僕の音楽が海外レーベルからリリースされる日が、ようやく訪れたのです。
ロンドンの文化を吸収してアウトプットを増やしていく
コロナ禍以前は、イーストロンドン地区にあるSoulvent Recordsから専属契約の話や、アルバム制作の打診を受けていました。現在はワーキングホリデービザを取得し、ロンドンに住んでいます。
ロンドンは日本とクラブ文化がまったく異なり、DJのレベルもかなり高いです。音楽が好きな人が多く、DJが毎回知らない曲を書いたりリリースしている文化が、とても自由だと感じます。自分も現場に行くだけで刺激があって、1年で音楽のインプットがものすごくできた感覚があります。
コロナ禍の影響でDJの機会は減りましたが、その分曲作りに専念することができました。ロンドンでのインプットを活かし新たな作品づくりに励んでいて、リリースが決まっている曲もあります。今後は、本場で得た刺激を原動力に、より多くの人々に自分の音楽を届けられるよう、アウトプットの数を増やしていきたいと思います。