東京と沖縄の二拠点生活を行う田中律子さんが注力するサンゴ保護活動への思いとは

今回のゲストは田中律子(たなかりつこ)さんです。東京と沖縄の二拠点生活をされており、タレント活動の他、サンゴの保全活動にも注力しています。1984年、12歳で芸能界デビュー後、ドラマや歌などさまざまな経験をされてきた田中さんに、今までのキャリアと今後の展望について教えていただきました。

12歳でデビューし、ハードな毎日を必死に駆け抜けた

東京と沖縄の二拠点生活を行う田中律子さんが注力するサンゴ保護活動への思いとは

住谷:今回のゲストは田中律子さんです。まず芸能界に入ったきっかけから教えてください。

田中:中学に入学する前の春休みにスカウトされたのがきっかけです。1984年、12歳でデビューしたのですが、最初は私自身、引っ込み思案でめちゃくちゃ恥ずかしがり屋だったし、芸能人になりたいとは思ってもいなかったんです。両親も最初は反対していましたが、叔母が昔ヘアメイクをしていたこともあり、いいチャンスだし、アルバイトや部活みたいな感じでやればいいと言われてやることになりました。

高校受験のタイミングで辞めようかと思ったら歌手デビューの話が決まったり、高校卒業でもう辞めようかなと思うと、またちょっといい話が来たりして、どうしたらいいもんかなと思いながら続けていました。

歌手デビューは人生の中で一番大変でした。事務所に専用車がなかったので、衣装を大きなバッグに入れて、その他に学校のバッグも持って、午前中だけ授業に出てからそのまま早退。門の前でマネージャーと待ち合わせして、電車に乗って、新宿のデパートの屋上で歌ったりしていました。そんな毎日を送りながら、3か月に1枚シングルを出していましたね。

学校の勉強も覚えなきゃいけないのに、歌詞も振り付けも覚える必要があります。しかもシングルが発売されるとデパートとかラジオ局回りとかして、それが終わったら、次のレコーディング。5年ほどやっていましたが、最初の3年はずっと3か月に1回シングルを出して、1年に1回はアルバムを出して、その合間にライブもやっていたのでとてもハードでした。

ホームから会場まで走って、トイレで衣装に着替えて歌うとか、すごくタイトなスケジュールでした。当時は“親衛隊“と呼ばれる、ハチマキを巻きつけたファンクラブの男の子たちと一緒に電車でよく移動もしましたね。「次は川崎に行くよー!」みたいな(笑)

住谷:目立ちますね(笑)。挫折や苦労した経験とかはありましたか?

田中:そりゃありますよ。何度辞めようと思ったか。10代はいつ辞めてもいいやと思っていたんですけど、20代になってから、「やっぱり私はもうこの仕事しかできない」と思い始めました。だってバイトもしたことがなければ、世間を何も知らないまま高校時代を経て、20代になりましたから。悩んだり挫折しても、振り返る時間もないまま走ったという感じです。

20代の頃からはバラエティの司会をやるようになりました。私は本当はドラマをやりたかったのですが、司会のお仕事をいただくということは、その方が私に向いていたのかなと思います。でも、当時すごくお世話になっていたドラマのプロデューサーから、「司会を選ぶならもう女優できないぞ」ってバチンと言われて、泣きました。司会の仕事はもう決まっていて、両方はできなかったから決断するしかなかったんですよね。

それから、26歳で結婚しました。事務所の社長には妊娠したので引退する旨を伝えていたのですが、そのときに司会をやっていた番組のプロデューサーから「待ってるから帰ってこいよ」と言っていただいて。そのひと言で芸能界に残ることを決意しました。

自分の好きなように生きるために、離婚と二拠点生活を決意

東京と沖縄の二拠点生活を行う田中律子さんが注力するサンゴ保護活動への思いとは

住谷:育児しながら仕事するのは大変だったと思いますが、どう両立させていったんでしょうか?

田中:実家が近かったので、お母さんに手伝ってもらいながら仕事と両立させました。30代は、真剣にお受験ママをしていました。女の子だったから受験で困らないように、幼稚園から大学まである学校に入れようと思って幼稚園受験をしたんです。仕事面では、これをやりたいとか、自分の時間としてちゃんと休みを取りたいとか、徐々にお仕事をチョイスできるようになりましたね。

そして、40代に転機がありました。離婚もあったし、沖縄への思いもあったし、私の人生の中でのターニングポイントでした。離婚したのは娘に申し訳なかったですが、私の中でずっと悩んでいたことだったので、遅かれ早かれ離婚していたと思います。

イヤなことに蓋をしたまま生きるよりは、人生1回、自分の好きなように生きた方がいいと思ったし、娘からも「ママもういいよ」と言われたので離婚を決意しました。

そして私は大好きな沖縄に家を買い、二拠点生活を開始しました。沖縄に住むのがずっと夢だったんです。中学のときに仕事で沖縄の西表島に行ったときに初めてダイビングをしたのですが、サンゴ礁はすごいし、魚はきれいだし、「竜宮城って本当にあるんじゃないか」と思ったぐらい衝撃的でした。

それ以来、いつか沖縄に住みたいと思い続けていました。沖縄に遊びに行くたびに、島の人が「おかえり」って言ってくれるんです。私の心のふるさとだなと思って、40歳を過ぎてやっと沖縄との生活が両立できました。

注力しているのは沖縄のサンゴの現状やサンゴ礁の大切さを伝える活動を通して大好きな海を守ること

東京と沖縄の二拠点生活を行う田中律子さんが注力するサンゴ保護活動への思いとは

住谷:サンゴ保全の活動を始めたきっかけは何ですか?

田中:サンゴ保全の活動は、「大好きな海を守りたい」と思って沖縄に住む前から続けています。きっかけとしては、1998年にエルニーニョが世界的に起きて、沖縄のサンゴの大部分が死んでしまったのを目の当たりにしたことです。ダイビング仲間や船のキャプテンと何とかしようと話し合って細々と活動をしていたところ、周りに徐々に協力をしてくれる人が増え、NPO法人『アクアプラネット』を立ち上げることになりました。

アクアプラネットでは、沖縄のサンゴの現状や、サンゴ礁がなぜ大事なのかを伝えたり、寄付金を集める活動を行っています。具体的には、海の中でサンゴ礁がなくなってしまったところに、サンゴを移植という形で、田んぼみたいに植えて育てているんです。

『ファインディング・ニモ』でもサンゴ礁に小魚たちが生息していますよね。海洋生物の約1/4、90,000種類の魚たちがサンゴ礁の中で生きているんですが、サンゴって海の0.1%しかないんです。サンゴ礁がなくなったらその9万種が生きるところがなくなって、そうするとその魚を食べる中くらいの魚が食べるものがなくなり、中くらいの魚を食べる大きな魚もまた食べるものがなくなり、食物連鎖が崩れてしまうんです。

昨年(2022年)の夏はフロリダで海水温が38度になってしまい、魚たちにとって大変な状況になりました。たったの1℃水温が上昇するだけで魚は生きていけないんです。海の中が大変なことになっているこの状況を、アクアプラネットでも伝えています。今はサンゴの絵本も制作中です。

住谷:私たちでも何か貢献できることはあるのでしょうか?

田中:使っていない部屋の電気は消すとか、基本的なことをやることです。あと私たちがいつも伝えているのが“ワンハンド・ビーチクリーン”です。いっぱい集めなくてもいいから、ビーチにゴミが落ちていたら、片手分のゴミを拾って、それをゴミ箱に捨てるという活動を推奨しています。

沖縄にもゴミがたくさん流れてきますが、マイクロプラスチックというプラスチックゴミになって海洋生態系に影響するんです。だからゴミの分別も大切だし、あとは家で使ってるお水も最後は海に流れていくので、あんまり柔軟剤を使いすぎないようにとか、ちょっとしたことでいいと思います。

住谷:田中さんはご自身のビジョンを実現されていますが、やりたいことができずにモヤモヤしている人もいると思います。そんな方に向けて最後に一言いただけますか。

田中:自分のやりたいことが見つけられずに悩んでいる方は多いと思いますが、1日10分でいいので、朝起きたときか夜寝る前に、目を閉じて瞑想すると頭の中がとてもスッキリします。今、何を考えているのか、何をやるべきかがどんどん明確になっていきます。

鼻から吸って鼻から吐いて、呼吸をすることで身体の中のエネルギーが満ち溢れていくんだって意識を持ちながらやってみてください。これはすごく大切なことで、海外の社長さんもやっている人が多いです。

呼吸って普段は意識していないから、どんどん浅くなって、浅くなると血流が回らなくなるから、思考がぐちゃぐちゃになってしまいます。だから深く息をしてあげるだけでとってもいい時間になりますよ。

※本トークセッションの内容を動画でご覧になりたい場合は下記で視聴できます。

■田中律子さん
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