吉川公二さんは合同会社アーベントの代表者で、広報とPRの専門家です。ダイレクトマーケティングの専門企業『株式会社フェリシモ』では、15年間にわたり広報とPRの責任ポジションを担い、企業のIPO(新規上場)や、神戸での各種イベントの催行などを広報側面からサポートしてきました。吉川さんの広報とPRに対する深い理解と経験を、本コラムで余すことなく語っていただきました。
定年後にシニア起業の道を選択
私が1984年にフェリシモ(当時の社名はハイセンス)に入社した際、広報セクションはまだ存在していませんでした。入社から2年後にオリンパスの広報経験者である奥村さんと出会い、広報の仕事をゼロから学びました。広報セクションがなかったので自発的に広報業務を始め、これが後の広報部の基盤となりました。
広報業務では、総合的な情報発信、マスコミ対応が主な業務でした。その他にも、社名変更や社長交代、大阪から神戸への会社移転など、さまざまなプロジェクトを手掛けました。また、上場後に発生した不祥事や炎上にも対応し、危機管理の面で多くの経験を積みました。
定年退職後は継続雇用ではなく、自分で起業する道を選びました。シニアの法人設立起業は5%以下と言われていますが、広報やPRをテーマに、B2Bの分野で起業を果たしました。中小企業の大半は広報部門がないため、広報業務の立ち上げやアドバイスを通じて、多くの企業に貢献しています。
またフェリシモの社長から、神戸の仲間と共に立ち上げた会社への参加のお誘いをいただき、ありがたいことに仕事が途切れることなく続けられる環境が整っていました。
広報の面白さは「正解と終わりがないこと」
長年にわたり会社員として働いた後、独立してひとりで事業を展開しています。起業を選んだ理由は、定年後に自分で何かがやりたくなったからです。実は49歳の時に初めて自宅を購入し、35年間の住宅ローンを組みました。このローンは84歳まで続くため、これからも働き続ける必要があり、それが働くモチベーションにもなっています。
私が出版した本にも書いていますが、広報の魅力は「正解と終わりがないこと」です。「何が正しいか」がないため、自分たちが行っていることを信じて続けるしかありません。逆に言えば、何をやっても問題ないということです。社内でも社外でも、「私は広報担当です」と言えば、人と会って話を聞くことができます。
自分で得た情報をニュースにできることもひとつの魅力です。そのためには、クリエイティビティ(創造力)とイマジネーション(想像力)が必要です。また、行動をすることで人脈も広がっていきます。逆に言えば、人脈が広がらなければ事業は縮小する可能性があるため、どのように人々とのつながりをつくっていくかが成功の鍵となります。
私はビールが好きなので、ほぼ毎日飲みに行ってそこで深い関係を築いたり、真面目な話をしたりしてきました。そのつながりを通じて、多くの人からサポートを得ることができました。豊富な人脈は、震災時の支援活動や起業後の活動にも役立っています。人脈を築く秘訣は、誰に対しても態度を変えず、目上の人にも目下の人にも同じように接することです。
広報から「居場所づくり」へ
会社員時代のチームワークとは対照的に、今は基本的にひとりで事業を進めています。自分が好きなことに専念できる一方で、新たな挑戦にも柔軟に対応できます。起業してからも絶えず働き続けているのは、頭と体を動かし続けることが、アフター5の美味しいビールにつながると考えているからです。
ウェルビーイングの観点から、昼間働いて区切りをつけて楽しむことが、心と身体の豊かさにつながっていると感じています。もちろん、休みの日の昼間からビールを飲むのも良いですが、私には仕事を続けることがフィットしています。
起業当初に決めたことは、「広報業務の面白さと大切さを伝えながら、広報に携わる人の有機的な和を広げる」ことでした。企業の中でも、たとえば“広告”と“広報”の違いが認識されていないなどの課題があります。広報業務は危機管理と密接に関係しており、リスクマネジメントやクライシスコミュニケーションをこなしていく必要があります。
私の名前が「公二」で、「公」という字はパブリックを表します。広報とライター業の次に、第3の柱として“パブリックハウス”を掲げていきます。パブ、居酒屋、居場所という意味を込めて、居場所づくりをもっと具体的に進めていきたいと思います。地域の大人と子どもをつなぐ活動『TOKYOCOFFEE』の主宰者になりましたので、今後こうした出会いの場所も演出していきます。