(本記事は、ニコラ・ボーメール氏の著書『酒 日本に独特なもの』=晃洋書房、2022年5月20日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
時代遅れの飲み物か?
日本にしかない酒というものを現代に適応させることは,はなはだしく難しい。酒の消費の減退や多くの酒蔵の閉鎖が示しているのは,産地においても製品においても,グローバリゼーションという変化が強いられているのに,酒をめぐる世界は全体としては変化しきれていないということである。この失敗は次の問いを提起している。酒は時代遅れの飲み物で,消滅すべき古い世界の名残りであるのか。この問いかけは,過去50年間の日本の消費者および日本人の習慣の変化を見ることで導き出される。酒は,消費者や飲酒習慣の変化に適応することができず,古ぼけたイメージを持ち続けている。消費の地理的分布を見ると,酒は中心の地位にある飲み物ではなくなっている。飲み方の流行は,大都市から発して地方へ向かう。現実に酒を今でもまだ宴会以外で飲んでいるのは,主に裏日本である。
酒が海外で持たれているであろうイメージを観察すると,国内のイメージとは全く別のものである。国内では暗いイメージが認められるが,一方で海外では生き生きとしたイメージを持たれている。海外では酒はまだほとんど知られていないとはいえ,西洋諸国では好意的なイメージと,常に好奇心が満たされることを味方につけている。このような動きに関連し呼応して,日本では伝統的価値に回帰する消費者が多くの分野でおり,このような人たちは酒にゆっくりと戻っている。彼らは自分たちの食事の変化に酒を合わせたり,またワインの飲み方に倣ってみたり料理とのマリアージュに酒を合わせる人もいる。つまりこの点で,酒は「日本のワイン」となりつつあり,国際的な首脳会議における会食のメニューの中に組み込まれている1)。酒をこのように適応させることで専門家は自分の仕事の仕方を考え直さざるを得なくなっている。
現代性の新たな局面
現代性とは,常に先をゆくものである。現代性を明確に表すことは難しく,それを捕らえたと思った時にはすり抜けてさらに先に行っていて,現代はそこから後ろにいる我われを振り返る。この過程は,時の流れを通してみればある程度把握し易い。しかし,新しい現代性あるいはポスト・モダンが構築されつつある中で,議論と表現の中心に地域という論点が復活しているだけに,空間の観点から見ると捉えるのが難しい。「歴史の終わり2)」および「地域の終わり」は大量消費の時代の論理であり,これに対して地域と歴史への立ち返りが応答している。工業国・先進国・都市化国においては,この課題が中心的な課題である。
地域と強く結びつき,景観およびテロワールへと広がる象徴主義は,農産物加工品製造においてはとりわけ認められやすい。国民的象徴や地域の特性と表現されることができるので,地理的な特徴がはっきりしている食品は,現代人にとって「分断と災厄を越え,一体性を保ち継続性を作りだすために天から与えられた資源」となっている。この資源によって,現代人はさまざまなアイデンティティと空間性を調整することができるのである。日本でも,農民文化の古くからある多くの国々のように,食品が土地に根づいたものに回帰することが,酒にとっては奥深い原動力に基づいた未来への道筋である。すなわち,純粋な自然に抱く神聖な気持ちや感受性と地域のアイデンティティの重要さとの間の強い繋がりが基になっているのである。
酒は明治時代にはその時代に適合する近代化に成功したが,現在は消費者の新しい行動の現代性に適応し損なっている。生産体制は,大手企業の支配および工業規格に基づく品質基準という特徴があり,均質的な消費様式を全国に広めると言う目的をもつに至っている。この点では酒は,ビールに対して全体として負けている。ところが,生産の仕方は全般的には均一化している中で,さまざまな地方が独自性をしだいに強調しつつある。今日,日本の酒の消費のうち文化として消費しているのは15~20%であり,この酒の飲まれ方は別格の地位を占めている。これからも,酒はその地位を守ろうと努めなければならないだろう。
レベルの変化への適応が必要である
酒が時代遅れであるとしても,それは生産体制および法制度が時代遅れなのである。工業化と統制体制の信奉者が信じているものとは反対に,品質の決定要因として「テロワールに追い風が吹いている」世の中では,それに適応することがぜったいに必要である。この点で,酒は古い時代の現代性,すなわち大量生産大量消費に適応し過ぎている。というのは,立法は古めかしい生産規準に基づいているうえ,必ずしも厳格ではない。酒の本質と定義に関する議論が未だに決着していないこともまた時代遅れである。ワイン,ビールと同等のものあるいはカクテル・ベースであるのに,立法は,発酵を終えた後における醸造アルコールの添加の可否の間で迷っている。この迷いによって,アルコール添加の濫用もアルコール添加に対する失望も生まれており,輸出にあたって明確に識別可能な製品として勧めることを難しくしている。
しかし酒には大きな潜在的可能性がある。酒には,歴史,地域,風景,技術があり,明確に特徴のある風味をもつテロワールの酒を製造したいという者がいれば,それが可能である。しかし,そのためにはこの道を選ぶ者を護ることが欠かせなくなる。その道の良し悪しを決めるのは消費者であり,消費者が確信をもって選択できる手段を与えることが必要である。外国産の酒の競争相手がやって来つつあるので,石川県の原産地呼称の現在進行中の実験は,他の呼称にもできる限り速く拡大されるべきである。
したがって品質の決定要因としての,酒の生産地域とその識別,地域の特定が,日本の消費者を取り戻すためと同じく国際化のためにも,今後の論点となる。これらによって,自らを守るのと同じく,海外に向けて酒とはどんなものかが明確にわかるイメージ(すでに日本のイメージはあり,これからは生産地のイメージ)を提供することができる。このためには,日本は酒の価値を信じて,小規模酒造会社に任せっ放しにしないようにしなければならない。風景と表象されるイメージを通して,美味しいものを飲みたいという欲望と経済面の現実,地方と世界をあまり多くの衝突なく結び付けることが可能となり,今後の課題は次のようにまとめることができる。特徴を失うことなく世界に挑戦すること,日本酒に対して好意的なイメージをもつ海外の消費者に明確でわかり易い製品を提案し彼らを掴むことが,今後の数年の間の酒の再生の鍵である。
注
1) 例えば,2008(平成20)年のG8北海道洞湖サミットの夕食会で,酒が銘醸ワインと並んでメニューに載った。これは,例えば明治時代や大正時代の皇室では,最も洗練されたこととは外国産ワインだけを提案することだったことと比べると,目覚ましい変化である。かつて酒は,特定の料理しか引き立たせないものだった。この点については,1916(大正5)年の大正天皇の誕生日に供されたメニューを見よ。PITTE J. R. (2006) Géographie culturelle, Paris, Fayard, p. 966より引用。
2)FUKUYAMA F. (1992) The End of History and the Last Man, Free Press(フランシス・フクヤマ著,渡部昇一・佐々木毅訳『歴史の終わり――歴史の「終点」に立つ最後の人間』,三笠書房,2020)(著者はFukuyama F., Canal D. A. (trad.), La Fin de l'histoire et le dernier homme, Paris Flammarion, 2008を使用)。
歩いて,見て,聞いた酒造りと飲み方
ニコラ・ボーメール(Nicolas Baumert)
寺尾 仁(てらお ひとし)
岡崎 まり子(おかざき まりこ)
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