(本記事は、ニコラ・ボーメール氏の著書『酒 日本に独特なもの』=晃洋書房、2022年5月20日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
慣習を定め直すことの必要性
酒が売れなくなり,日本人は酒に対する嗜好を失いつつつある。見方によって危機や適応と見なされていることは必ずしも必然ではなく,ある程度の数の消費者に希望をもたらす新しい慣習によって生じた揺らぎがそのことを証明している。酒が消費における現在の流行に適応できず,時代錯誤であることは,適応できない作法そのものを定め直すならば,立ち直る可能性がある。
経済的な解決策が不十分
過剰生産の問題に対し,酒造業者はまず初めに,古典的な解決策で応えた。酒が売れないので,価格の下落を防ぐためにも,酒造業者はごく自然に,年間生産量を減らし,蒸留酒や熟成酒に取り組んで供給量を減らすことから始めた。酒は今日では一年ほどしか熟成されないが,酒の熟成期間を工夫して伸ばし,価値を高めて価格に反映させることができ得る。酒はワインのように熟成して美味しくなる酒ではないため,これはより難しい選択である。ビールのように,酒はボトルの中で時間が経つと風味の大部分が飛んでしまう。アルコール度数が高いにもかかわらず,味覚の点では,酒はうまく熟成しない。美味しく熟成させるための解決策は,樽の中で熟成させることで,それは古酒をつくるために行われている。気がかりな点は,生産量の一部を長い期間動かせないこと,および今のところこのような種類のアルコール飲料の愛好家が少ないことである。
酒造業者は同様に,できる限り商品を多様化させることを試みている。多くの蔵が行なっていた,みりんや甘酒といった伝統的な製品とは別に,いくつかの酒造会社は現在,消費者の間の流行に合わせて,焼酎や酒をベースにしたリキュール,あるいはワイン,ウイスキーなどの他のアルコール飲料の製造に乗り出している。多様化は,飲み物以外の漬物のような商品や,酒粕を使ったスキンケア用品にも波及している。
調達と流通の問題に立ち向かうために,他社と連携する酒造業者もある。これによって米,ラベル,瓶を卸で買うこと,一つの共通のブランドの名でしか販売しないことが可能になる。酒造業者同士の結合および酒造業者と他の農産加工品の生産者との結合が注目されている。2006(平成18)年に設立された,醤油の生産者と新潟県,愛知県,香川県の10場ほどの酒蔵をまとめるジャパン・フード&リカー・アライアンス株式会社がその例に挙げられる。
結局,最終的な解決策は中間業者を最大限減らすことである。この解決策はまず初めに,酒造業者の側で原料米と麹を自ら製造するという,調達段階へ向かう動きに表れる。原料米を酒蔵で作るという方法は,それが魅力的に見えるとしても,見た目よりももっと複雑なものである。なぜなら,この解決策によって,酒造業者は農家も兼ね,十分な広さの土地を買い,仕事の暦を完全に変えてしまわなければならないからである。したがって,酒造業者は原料米と酒の二つのサイクルを結び付ける必要がある。ぶどうの収穫直後に醸造が行われるワインとは対照的に,酒を醸造できる期間は長い。逆説的だが,麹と結び付けることで大手のブランドの方がこの慣習を取り入れやすい。一部の小さな酒造会社も品質の観点から(彼らはすべての材料と製法をコントロールしている)原料米の自社栽培に取り組み,“地元産の酒”と呼ばれるものを提供している。次に,流通段階については,特にインターネット販売などの直接販売を拡大させて中間業者を減らすことが可能である。それぞれ商品に対してマージンを取る中間業者が多いことはさまざまな分野における日本市場の特徴である。インターネットは小さな革命を実現しつつあり,少ない費用で熱心な贔屓がつき,地元以外の地域や海外への販路を広げることを可能にしている。
しかしながら,経済的な解決方法がすべてを片付けてくれるわけではない。この30年の変化から見て,全体的に経済的解決方法は失敗しているからだ。まず供給の多様化や価格を下げることが製品の画一化を招いており,それが消費者の酒への関心を薄れさせている理由の一つである。次に,原料米を酒蔵が作るという解決策は魅力的だとしても,単に経済的な観点よりも,もっと大きな問題意識のなかに位置付けられなければならない。今日のアルコール飲料の市場で明確な居場所を見つけることに苦労しており,酒に大きな問題を投げかけているのは主に酒のアイデンティティの面だということである。したがって,あらゆる解決策を講じる前に,酒とは何かについて考えることが必要だ。
前提条件――酒の定義の曖昧さに終わりを告げる
酒の名称や定義の問題は,「日本酒」という一般的な呼称と,ラベルに表示されている「清酒」という言葉の間のズレにも表れており,ただ単に理論的な疑問だけを問いかけているわけではない。現在専門家は「酒とは何か」という問題に対して真には答えをもたらすことなく,論点の周りを回っているだけである。何故なら争点となるのは,近代以降さまざまな要因がもたらされている酒の定義だからだ。酒とは混じりものがない水で米を発酵させるだけの製品なのだろうか。それとも,水と米以外のものを付け加えることができるのだろうか。より一般的に言えば,酒というアイデンティティに根差した飲み物に対して逆説的だが,問題は「酒とは何か」ということなのだ。
最初の問いは,酒と酒でないものの境界という問いである。この問題は法律によってしか決着され得ないが,立法者はこの問題にほとんど関心を示していない。同様に,より根幹的な次の問いが提起される。それは日本のアルコール飲料の世界における酒の地位を問うものである。酒は,明治時代以降続いているように大衆的で日常的な飲料なのか,それとも近代化以前のように特別な飲料なのか。つまり,消費の個別化という一般的な傾向における酒の地位はどのようなものとなり得るのだろうか。この事態に別の角度から取り組むために,次のような形で問題を再構成することは可能である。すなわち,酒は,食卓でワインやビール,食前酒と対等なものなのだろうか。
酒造業者は今日,消費者の要求に応えなければならないということ,日本人はもう20世紀初頭の習慣には戻れないことはわかっている。ビールが首位を明け渡すことはないだろうから,酒は焼酎やワインを競争相手とみなさなければならない。
酒の本性に関する問いかけに対して,明確に区別できる三つの取り組みがある。第一は,日常的に消費される飲料として酒を捉え続ける取り組みである。この取り組みを行う者は,コストを削減するために,酒の製造において自由度をできる限り広げることに賛成する。彼らは味が良ければ良く,より多くの原材料を許可するよう望んでいる。彼らの念頭にあるのは,大衆的なアルコール飲料としての酒を蘇らせ,ビールに対してシェアを奪還したいという意欲だ。その製品は普通酒で,小瓶,紙パックやカップで売られている。第二は反対に,酒は祝祭の場で飲まれる特別な飲み物,および食卓で飲まれる有名産地の銘醸ワインに相当する飲み物とするという取り組みである。この取り組みを行う者は,酒を選び抜かれた飲み物というイメージを持つ高級品とすることに賛成する。これは,ガラスの瓶や樽でしか販売したくないという彼らの意志に認められる。彼らの中には,酒とは純米酒だけであり,醸造アルコールや酒の混合と添加物を排除し,できる限り真の技量を表現するものと考える者が多い。地元産の米あるいは自社産の米をできる限り使用することで独自性を探求している。第三は,日本人の味覚によくあったアルコール飲料の基礎を酒に見出す取り組みである。この取り組みを行う者から見れば,酒はリキュールやカクテルから着想を得るべきである。彼らは色や味覚を巧みに使ったり,微発泡性の酒をつくるなど,酒により若々しい,より気軽に楽しむイメージを与えようと努力している。
この三つの取り組みにはそれぞれ特有の論理がある。消費者の酒についての取り上げ方が変わったことに対して,解釈や解決策は無数にあり,酒はどの立場を取るべきかためらっている。前述の三つの傾向のいずれかに自信を持っている場合を除いて,多くの酒造会社はできるものについては試行錯誤し,すべての取り組みを少しずつ実行している。しかし,それは真に答えを見つけるのに最も有効な取り組みとは言い切れない。なぜなら,現在是非実現しなければならないのは,酒とはどうあるべきかというコンセンサスだからである。希望が持てる兆しは仕事や考え方の交わりがより活発になり増えていることだ。それは仕事が複合化している地方の組合のレベルでも,全国的なレベルでも生じていることであり,2008(平成20)年3月に東京で行われた日本各地の多くの小規模酒造会社が酒の未来や海外輸出について考えた会合が例に挙げられる。大手ブランドは今のところこのような会合にほとんど参加しておらず,それぞれに少し繋がりを持つことに留まっている。酒が直面している問題を見れば,各社の参加が必要である。ニコラ・ボアロー(Nicolas Boileau)が大変的確に述べたように「人がきちんと思い描くものは明確に発語される」,したがって要求水準の高い消費者の人気を取り戻すためには,まず初めに消費者に何を提案するかを明らかにしなければならないということに思いを至らす必要がある。これは今日未だに為されていない。
歩いて,見て,聞いた酒造りと飲み方
ニコラ・ボーメール(Nicolas Baumert)
寺尾 仁(てらお ひとし)
岡崎 まり子(おかざき まりこ)
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