(本記事は、加瀬 英明氏の著書『日本と台湾 なぜ、両国は運命共同体なのか』=祥伝社、2022年11月11日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
台湾の近代化に尽力した10人の日本人
許文龍(きよぶんりゆう)氏は、台湾の主要企業である奇美(きみ)実業公司の創業者で、オーナーである。台南の自宅に招かれた。
奇美は自動車から、コンピューター、パソコン、家電製品にまで使用されているABS樹脂や、液体表示装置をつくっている世界有数のメーカーである。
許氏は1928(昭和3)年に生まれたが、やはり代表的な愛日家(アイジツカ)の一人である。台湾人が大陸政権のもとで、いかに惨(みじ)めな目にあわされてきたのか、日本が台湾の近代化をはかるために、どれほど大きく貢献したことか、熱っぽく語った。
その夜は、許氏がその日に海で釣ったばかりだという魚が、調理された。夕食が終わると、もう一つの趣味だという、愛用のバイオリンを取り出して、日本の「雨降りお月さん」「朧月夜(おぼろづきよ)」「シャボン玉」を、つぎつぎと演奏してくれた。
許氏は、日本を称(たた)えてやまない。1999(平成11)年に、許氏が中心となって、台南(たいなん)で日台両国の大学教授による『後藤新平(ごとうしんぺい)と新渡戸稲造(にとべいなぞう)の業績を称える国際シンポジウム』が、地元の台南市長や、台湾の経済界の大立者が参加して、開催された。
許文龍氏は、日本が台湾の近代化に大きく貢献したことを、新しい世代の台湾人に知ってもらいたいと願い、私財を投じて、後藤新平、新渡戸稲造、八田與一、羽鳥又男(はとりまたお)、浜野弥四郎(はまのやしろう)、新井耕吉郎(あらいこうきちろう)、鳥居信平(とりいのぶへい)、松本幹一郎(まつもとかんいちろう)、磯永吉(いそえいきち)、末永仁(すえながめぐむ)の10人の銅像を製作して、それぞれ、台湾のなかのゆかりの地に、建立している。
後藤新平が台湾総督府民政局長として、敏腕を振ったことと、新渡戸稲造が後藤に誘われて、台湾の糖業を興(おこ)したことは、日本でもよく知られている。八田與一の功績については、先に挙げた『文藝春秋』の随筆の中で触れた。
羽鳥又男は先の大戦中の1942(昭和17)年から、最後の台南市長をつとめた。戦時中で資材が不足していたのにもかかわらず、オランダ時代の遺跡を修復して、守った。
浜野弥四郎は近代水道を敷設することによって、民生を大きく向上させた。台湾人から「都市の医師」と、呼ばれた。
新井耕吉郎は、台湾の紅茶産業の親といわれる。
鳥居信平は、荒地を、地下ダムと地下導水路による灌漑(かんがい)網を建設して、緑に変えた。
松本幹一郎は実業家だが、台湾の電力事業の父となった。
磯と末永は、在来種の稲を改良して、蓬莱米をつくることによって、台湾の米作を大きく向上させた。
銅像のなかには、日本時代からのものもあったが、国民党によって日本時代の記憶を消し去るために、すべて破壊されていた。
李登輝政権のもとで、民主化が大きく進められると、日本の台湾への貢献を顕彰することが、できるようになった。
それにしても、日本の新聞やテレビは、台湾の代表的な企業家によって、日本統治を称えるシンポジウムや、日本統治時代に台湾のために尽力した10人の日本人の胸像が製作されて、建立されたことを、どうして報じなかったのだろうか。なぜ、日本のマスコミがこのように日本を称賛する話題を嫌って、無視するのか、理解に苦しむ。
八田與一は、巨大な烏山頭(うさんとう)ダムと、1万6000キロにおよぶ灌漑用水路をつくったが、その生前に、烏山頭ダム建設工事に参加した技師や工員によって、八田が作業服を着た座像が、建立されていた。
銅像は第二次大戦中に、金属供出を免れるために、倉庫に隠されたが、戦後も台湾人の有志の手によって、守られた。
有志が1981年に、政府に銅像を設置する許可を申請したが、国民党政権によって却下された。しかし、二回目に申請した時に、回答がなかったので、反対されなかったものと解釈して、もとの銅像が置かれていた場所に戻した。
2007年に、民進党の陳水扁総統が、八田に対して褒章令(ほうしようしようれい)を発した。2011年に、馬英九総統も参列して、八田の慰霊祭が営まれ、「八田與一記念園区」(記念公園)がつくられて、かつての4棟あった宿舎が、復元された。
八田が住んでいた宿舎があるが、床の間、障子、襖(ふすま)がある畳敷きの日本間も再現されていて、あの時代の日本人の精神に触れることができる。
台湾の外交部(外務省)のなかにも、八田與一の銅像が安置されている。韓国が日本大使館のまん前に、在外公館の尊厳を守ることを規定したウイーン条約に違反して、慰安婦像を設置したのと、何と大きく違うことだろうか。