連載】中東の小国からスタートアップ国家へ、イスラエル激動の2010年代バナー
(画像=連載】中東の小国からスタートアップ国家へ、イスラエル激動の2010年代バナー)

イスラエルは建国からわずか4年後の1952年、日本との外交関係を結んだ。日本は東アジアで初めてイスラエルと外交関係を結んだ国となり、両国の外交樹立から今年で70周年を迎えたが、両国は長い間極めて限定的で希薄な関係が続いていた。しかし、外交・ビジネス関係を大幅に改善することを目的に、両政府が協同する動きを見せた2014年頃から潮目が変わってきた。2014年以降の両国関係の急速な接近は、国家安全保障とサイバーセキュリティに関する一連のハイレベルな対話から、初の二国間投資協定に至るまで、両国が多くの重要な政治・経済協定を締結したことなどの歴史的な出来事により明確であるといえるだろう。本記事では、かつては限定的だった二国間関係が、同盟パートナーとしての特徴をより強めたものに変化していく動きと、その背景を振り返る。

国交樹立後もアラブ諸国と足並みを揃えた日本

1952年5月15日、東京にイスラエル公使館が開設(※1)され、イスラエルと日本の外交関係は始まった。両国は、民主主義的価値観、貿易政策への姿勢、補完的関係の期待できるビジネスや産業環境、米国との緊密な同盟関係といった多くの共通点を有しているが、歴史的に日本では、アラブ諸国との貿易関係がイスラエルとのそれよりも常に重視されてきた。資源を持たない故の悲しいところではあるが、実際に1990年代まで、日本はアラブ諸国のイスラエルボイコットへの参加要求を最も強く受け入れた先進国であった。その結果、イスラエルの歴史のほとんどにおいて、日本との経済関係は制限されてきたのである。

政府のテコ入れで関係強化した2010年代

しかし2015年初頭の原油価格の下落や、日本の内政状況の変化により、両国は特に技術系スタートアップや防衛の分野で研究・経済・文化面での関係強化を図っている。近年は両国間において、技術面での貿易や、スタートアップとベンチャーキャピタルとの提携も活発だ。日本からイスラエル企業への投資額は2021年、前年の約2.9倍となる過去最高の29億4500万米ドル(約4000億円)に達した。海外からイスラエルへの投資額全体のうち、なんと15.8%を日本からの投資が占め、投資件数も85件と前年の63件から増加。また2015年までに35社、2016年11月には50もの日本企業がイスラエルに子会社を持っている。日本からイスラエルへは13億米ドル(約1750億円)相当の自動車、機械、電気機器、化学製品などが輸出されている。故安倍晋三元首相は、2015年に1回、2018年に2回イスラエルを訪問。2014年5月には、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が日本を訪問し、精力的に両国の関係発展に尽力した。2017年には「投資の自由化、促進及び保護に関する日本国とイスラエル国との間の協定(略称:日・イスラエル投資協定)」が発効されている。

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学術的・文化的な関係の発展

両国の大学では、活発な研究交流を行うための特別な取り組みが行われている。2012年5月には、エルサレムのヘブライ大学で国交樹立60周年記念シンポジウムが開催され、地域交流、二国間交流、文化交流の問題が議論された。また同時にイスラエル日本研究協会が発足している。日本とイスラエルは、外交関係樹立70周年となる2022年5月に両国外務大臣(林芳正外務大臣とラピード・イスラエル国首相代理兼外務大臣)の共同ビデオメッセージを発表し、その中で両政府がワーキング・ホリデー協定交渉の実質合意に達したことを発表した。

東日本大震災においては、外国政府として初めて医療支援チームを派遣したのがイスラエルだったことを記憶している人もいるだろう。イスラエル医療支援チームは、震災の約2週間後の3月27日に来日し、クリニックを開設した。クリニックでの診療以外にも、妊婦や赤ちゃんの往診、周辺の避難所の巡回なども行い、隊員たちは医療活動を通じて子どもを含む被災者とも積極的に交流を行った。

COVID-19のパンデミックにより、一年遅れて2021年7月開催となった東京2020オリンピックの開会式では、1972年のミュンヘンオリンピックにおけるテロ事件のイスラエル人犠牲者11人を黙祷で偲んだ。オリンピックの開会式での追悼は約半世紀ぶりのことであり、犠牲者の親族やイスラエルのナフタリ・ベネット首相はじめ、イスラエル国民とユダヤ人たちを喜ばせた。

杉原千畝の再評価

第2次世界大戦中「命のビザ」の発給によって、占領下のヨーロッパから6,000人以上のユダヤ人難民の脱出を手助けし、ホロコーストから救ったことで知られる外交官「杉原千畝(ちうね、センポとも)」氏。「東洋のシンドラー」として国内外で幾度となく映像作品化され、1985年には、大戦中にユダヤ人を救出した人にイスラエルから贈られる「諸国民の中の正義の人賞」を受賞した。2010年代になり杉原の功績がイスラエルで再評価され、没後30年となる2016年にはネタニヤ市のストリートに、2021年にはエルサレムの広場に杉原の名が冠された。

杉原ストリート開通の際には多くのメディアが取材に駆け付けた
(画像=杉原ストリート開通の際には多くのメディアが取材に駆け付けた)

出典:杉原ヱシン, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

※1:1963年に大使館レベルに格上げされ、現在に至る。