創業からこれまでの事業変遷と貴社の強み
—— 貴社の創業から現在に至るまでの事業の変遷について教えていただけますか?
株式会社大同工業所 代表取締役・大桐 伸介氏(以下、社名・氏名略):弊社の創業は、1946年6月に祖父が板金加工業として始めたのが最初です。当時は電気冷蔵庫が普及していなかったため、氷冷蔵庫を作っていました。木枠で作った箱に断熱材として金属を貼り付けるという形で、冷蔵庫を製造して事業展開していました。その後、電気冷蔵庫が普及し始めると、弊社も肉屋や魚屋のショーケースを手がけるようになりました。
ただ、大手企業が定型のショーケースを作るようになると、弊社のような一点ものを作るニーズが減少してしまいました。そこで、まだ市場としては発展途上だった医療分野に進出することにしました。
—— なるほど、医療分野への進出が転機だったんですね。
大桐:そうです、医療機関とのつながりができたのは、私の父の代でした。当初は海外製の血液研究用の冷凍機器の修理を請け負っていましたが、次第に医療機関から「こういうものが作れませんか?」という声がかかるようになり、そのニーズに応える形で製品開発を始めました。
実は、私が生まれる時に、私の血液をすべて交換しなければならないかもしれないという事態がありました。母の血液が胎盤を通じて私に流れなくなった時に、アレルギー反応が出るリスクが高まるという状況でした。そこで、交換輸血が必要になる可能性があり、当時の血液センターなどとやり取りしていた経緯があります。こうした背景もあり、父は血液事業の重要性を強く感じていたようです。
—— その経験が、現在の事業にどうつながっているのでしょうか?
大桐:弊社はその後、血液保管のための冷蔵庫を作り始めました。1980年代には、医療分野での血液保管機器が弊社の主力製品になりました。1990年代後半には、引火性の液体を保存する「防爆冷蔵庫」も手掛けるようになり、化学プラントや医薬品、自動車、半導体産業で使用される冷蔵庫も開発しました。現在、弊社の大きな柱となっているのは、この医療機関向けの血液保管機器と、化学メーカー向けの防爆冷蔵庫です。
—— 非常に多岐にわたる製品を展開されていますね。御社の強みとは何でしょうか?
大桐:弊社の強みは、自社ブランドとしての製品を全国、そして世界に展開していることです。父は以前から「大阪だけでなく、全国、さらには世界に製品を売りたい」と言っていました。その夢を実現するため、私は東南アジアや中央アジアへも血液保管機器を販売し始めました。私たちは、医療機関のニーズをしっかりと汲み取り、確実に応えることで事業を拡大してきたと自負しています。
—— 貴社の社名についてもお聞きしてよろしいでしょうか?大同工業所という名前には、何か由来があるのでしょうか?
大桐:はい、社名の由来については私も冗談半分で聞いたことがあるのですが、創業当時、木材の断熱材に金属を貼っていましたが、断熱材が木からウレタンに代わったから「木を取った」という話があります。また、画数が良いという理由でこの名前になったという説もありますね(笑)。
承継の経緯と当時の心意気
—— 事業承継の経緯と、その当時のお気持ちについてお聞かせください。
大桐:私はもともと三菱化学でプラントエンジニアとして働いていました。正直、最初は実家に戻るつもりはあまりありませんでした。ただ、父の体調があまり良くなくて、そろそろ戻らなければいけないのかな、という選択に迫られたのがきっかけです。それで、三菱化学を3年ほどで辞めて、今の大同工業所に戻ってきました。
—— なるほど。戻られた時、会社はどのような状態でしたか?
大桐:戻った時の従業員数はだいたい20名ほどで、町工場に毛が生えたくらいの規模でした。組織自体は完全にトップダウンで、社長である父がほぼすべての指示を出していた状態です。また、私が感じたのは、従業員が自社の製品や技術にあまり誇りを持っていないということでした。せっかく良い製品を作っているのに、会社に対して誇りを持っていないような雰囲気があったんです。だから、まずは従業員が自分の仕事に誇りを持てるようにしたいと思いました。
—— 大企業から20名規模の会社に戻るというのは、かなりギャップがあったのではないでしょうか?
大桐:そうですね、前職の三菱化学では組織的な教育体制や管理がしっかりしていましたが、大同工業所に戻った時はそのギャップが大きかったですね。さらに、私が戻った2007年にはすぐにリーマンショックが起こり、売上は現在の3分の1、約3億円まで落ち込みました。営業も案件がなく、工場で製品を作っても売れない。そんな状況で、従業員と「今日は何をしようか」と話し合いながら手順書を作成するような日々でした。
—— そんな厳しい状況下で戻られたんですね。お父様から言われたのではなく、ご自身の判断で戻ることを決められたのでしょうか?
大桐:そうですね、父から直接「戻ってこい」と言われたわけではなく、私自身が実家の状況を見て決めました。当時、三菱化学でのプロジェクトが一区切りついたところで、「この状況では実家の方が私を必要としているだろう」と思い、戻ることにしました。
—— なるほど。戻られた時、どのような役職で会社に入られたのでしょうか?
大桐:入社時は取締役という肩書きで戻りましたが、実務的には製造現場、営業、保守、品質管理など、経理以外はほぼすべてを担当していました。
—— そして、社長に就任されたのは2020年ですね?
大桐:はい、2020年に社長に就任しました。それまでの十数年間は、現場を支えながら経営に関わっていました。
—— その代替わりのタイミングについて詳しくお聞かせいただけますか?
大桐:2019年に父が叙勲を受けたんです。その時、父は「もうこれで十分満足だ」と言っていて、代替わりの話が現実味を帯びました。2020年の新年に父と一緒にお酒を飲んでいた時、「そろそろお前に譲るか」という軽い感じで話が進んだんです。ただ、私が入社した時から「3年後には譲る」と言われていたので、それが10年以上続いていました。ですから、その時もまた同じような話だと思っていましたが、今回は本気でした。
—— 実際に譲られた時の感情はいかがでしたか?
大桐:父が元気なうちに引き継げて良かったと思っています。忙しく働いている方が急に退くと、すぐに体調を崩すこともありますからね。父も元気にしてくれているので、それが何よりです。
ぶつかった壁やその乗り越え方
—— 今までの経験の中で、ぶつかった壁や、それをどのように乗り越えてきたかについて教えてください。
大桐:先ほども少し触れましたが、社内の組織面に関して、最初は私自身があまり信頼されていないな、と感じていた時期がありました。特に、私が三菱化学から戻ってきた時は「大企業から戻ってきたから偉いんだろう」というような見方をされていた気がします。
—— その時は、どのように信頼を築いていかれたのですか?
大桐:前職で指導してくださった方から、「仕事は信頼の積み重ねだ」と教わったことがありました。かっこいい仕事をしたいなら、まずはベーシックな仕事をしっかりこなして、周りから信頼されることが大事だと。その教えを元に、自分もまずは足元の仕事をしっかりやることを心がけました。
戻った時は、従業員にとって私のことを信頼していなかったように感じますが、徐々に信頼を得るために、従業員が自分の仕事に誇りを持てるような環境作りを始めました。その一環として、大阪府の「ものづくり優良企業」に応募し、認められたことが一つの大きな転機でした。これをきっかけに、従業員たちも「うちの会社の仕事はちゃんと評価されているんだ」と感じてくれたようです。
また、従業員の教育にも力を入れました。中小企業の集合研修に参加してもらい、他社の社員と一緒に学ぶ機会を設けました。くわえて、海外事業の拡大も従業員に自信を持たせる要因になりました。私が父の意志を継いで東南アジアへの展開を進める中で、製品が海外でも受け入れられることが、従業員たちにとっても大きな自信となりましたね。
—— 海外展開では、どのような壁に直面されましたか?
大桐:当社の血液保管機器は医療機器に分類されるため、各国で医療機器の認証を取得する必要がありました。タイ、マレーシア、インドネシアなどで展開を始めましたが、やはり価格面では中国製品との競争が激しく、またヨーロッパ製品が多くの市場で既に採用されているため、なかなか苦戦しました。
—— その問題にどう対処されたのですか?
大桐:そこでJICAの中小企業海外展開支援を活用しました。単に製品を納めるだけでなく、現地の血液保管や輸送の仕組みを改善するプロジェクトを一緒に進めるという形で信頼を築きました。最初の試みはミャンマーで行い、現地政府と連携して当社の製品を導入しましたが、残念ながらクーデターが発生してしまい、ビジネスが一時停止することになりました。しかし、このモデルはウズベキスタンでも展開しており、ウズベキスタン政府と一緒に現地の血液保管の改善に取り組んでいます。
—— プロジェクトを一緒に進めることで、どのような変化がありましたか?
大桐:単なる供給者から、現地のパートナーという立場に変わることで、信頼関係が格段に深まりました。ウズベキスタンでは「こんなに我々の血液事業のことを考えてくれるなら、あなたの製品を使いたい」と言われるようになりました。これが大きな成果だと思っています。
—— 素晴らしいですね。信頼を基にしたビジネス展開の成功例ですね。
大桐:はい、信頼は海外でも重要だと実感しています。そして、従業員もそういった海外展開を通じて、会社や自分たちの仕事に対する誇りを持てるようになったと思います。
今後の新規事業や既存事業の拡大プラン
—— 今後の事業拡大についてお聞かせください。新規事業や既存事業の拡大について、どのようなお考えをお持ちですか?
大桐:まず血液保管事業に関しては、日本の人口減少に伴い、国内市場は縮小していくと考えています。そのため、人口が増加し経済発展が期待できる東南アジアや中央アジアへ、マーケットを広げていくことを進めていきたいです。ちょうど昨日、ウズベキスタンから人材を特定技能枠で採用しました。今後はウズベキスタンでしっかりとしたメンテナンス体制を築いていくつもりです。
—— ウズベキスタン市場の展開が鍵になりそうですね。
大桐:はい。ウズベキスタンは中央アジアへの玄関口で、ここから周辺国へ展開するのが容易になります。特に関税の問題がなく、中央アジア全体への市場拡大が期待できるのが強みです。また、父の代で2016年に水処理試験機の事業を引き継いだこともあり、現在は血液保管、防爆冷温機器、水処理試験機の3本柱で事業を展開しています。
—— 既存事業の拡大に加え、新規事業の取り組みもあるのでしょうか?
大桐:特に防爆関連の事業では、私の弟がエンジニアとして社内にいて、現在、防爆試験事業を拡大しようとしています。これは物を売るのではなく、サービスを提供する形です。具体的には、お客様からの依頼で防爆試験を受託し、当社で試験を行い、その結果を提供するというビジネスモデルです。これにより、物売り中心だった事業に新たな収益の柱を加えることを目指しています。
—— サービス提供型の事業も進めていくのですね。経営面での課題や目標はありますか?
大桐:防爆機器は主に産業界向けなので、景気の影響を受けやすい部分があります。一方で、医療機器の血液保管機器は景気に左右されにくい。ですから、両方の事業をうまくバランスさせ、安定した売上基盤を確保することが目標です。
—— 事業の安定性を確保するための多角的な展開が重要なのですね。
大桐:はい、そう思います。また、私が子供の頃、祖父が「商売は牛のよだれのごとく細く長く続けるべきだ」とよく言っていました。この言葉は最近のSDGsに通じる考え方だと思います。儲けすぎず、損もしすぎない、持続可能な形で商売を続けていくことが大事だと感じています。細く長く続けることが、最終的にはお客様や仕入れ先からの信頼を築くことにつながると思っています。
—— お祖父様の教えが現在の経営にも生かされているのですね。
大桐:はい、そうです。商売において信頼を得ることが何より大切だと実感しています。
メディアユーザーへ一言
—— では、最後に読者に向けて、一言メッセージをいただけますでしょうか?
大桐:当社は従業員が約30人ほどの小さな会社ですが、海外展開を積極的に進めています。資金力に余裕があるわけではありませんので、公的資金を非常に有効に活用しています。利益が出た際も、節税を控えて法人税をしっかりと支払い、その分を国の施策として補助金や公的資金を活用することで、次のビジネス展開につなげています。
利益の半分は税金で持っていかれますが、その代わり、補助金を利用して次の投資に充てるという形を取っています。私自身、「節税にこだわらず、払うものはしっかり払う。そして、その分を次の事業に回す」という考え方で経営しています。こうして、安定したキャッシュフローを作り出し、次の展開に備えています。これからも、国の施策を活用しながら、新たな挑戦を続けていきたいと考えています。
—— 本日はお時間いただきありがとうございました。
- 氏名
- 大桐 伸介(おおぎり しんすけ)
- 社名
- 株式会社大同工業所
- 役職
- 代表取締役