東洋ドライルーブ株式会社
(画像=東洋ドライルーブ株式会社)
飯野 光彦(いいの みつひこ)――代表取締役社長
1953年生まれ、東京都世田谷区出身。1978年4月に東洋ドライルーブ株式会社入社。専務取締役を経て1992年8月に代表取締役社長に就任。父である先代から引き継いだ同社の経営を軌道に乗せ、2008年2月に同社をジャスダック証券取引所(現 東証スタンダード市場)に上場させた。 東京商工会議所や法人会、地域団体などでも幅広く活躍している。モットーは「漸々修学」で、会社も人生も日常生活も精進を重ね根気よく向上していくこと。
1962年(昭和37年)、時代に先駆け、固体被膜潤滑剤の専門会社として発足。「ドライルーブ(=固体被膜潤滑剤)」の研究開発から製品製造・コーティング加工・販売までを自社で一貫して行っている、斯界で比類の少ない事業会社。ドライルーブという様々な材料や素材が持つ潜在機能の研究を通じてコーティング被膜技術を究め、機器作動時の各種ロスを削減する製品群を市場に送り出し、人々の安全で豊かな生活を支えることを使命としている。工場は国内に5か所(愛知、神奈川、群馬、静岡、大分)、海外は3カ国(中国、タイ、ベトナム)に進出。

目次

  1. 創業からの事業変遷と貴社の強み
  2. 先代から事業承継した経緯とその後の事業転換
  3. ぶつかった壁やその乗り越え方
  4. 今後の新規事業や既存事業の拡大プラン
  5. ステークホルダーへのメッセージ

創業からの事業変遷と貴社の強み

——創業から現在までの事業の変遷と、御社の強みについてお聞かせください。

東洋ドライルーブ株式会社 代表取締役・飯野 光彦氏(以下、社名・氏名略) 東洋ドライルーブ株式会社の創業は1962年です。創業者は私の父で、彼はもともと化学の出身でした。父はある会社に勤めていて、そこで海外の化学会社との取引をしていましたが、その会社が経営難に陥り、単身でアメリカに渡りました。

そこで、まだ日本にはない「ドライルーブ」という商品に魅力を感じ、アメリカのドライルーブ社の技術を学びました。そして、日本に帰国し、輸入商社として会社を設立しました。

このドライルーブという商品は、乾燥潤滑剤で、通常使うオイルやグリースが使えない、または使いたくない場所での潤滑を可能にします。オイルやグリースは寒いところでは固く、暑いところでは柔らかくなるため、地域によって使い分ける必要があります。しかし、ドライルーブはそのような制約を受けません。例えばカメラでは、オイルやグリースが適さない場合が多く、我々の製品が有効です。

——ドライルーブの特性が、どのように日本市場で受け入れられたのか、詳しく教えてください。

飯野 アメリカのドライルーブ社は、ボーイング社や軍事産業、宇宙産業などを顧客としていましたが、日本ではこれらの産業が少なかったため、様々な産業界にPRを行いました。最初に採用されたのがカメラ業界で、レンズ周りの潤滑に使用されました。従来のグリースでは品質の安定が難しかったため、私たちの製品が選ばれたのです。

——カメラ業界での成功が御社のスタートとなったのですね。その後の展開について教えてください。

飯野 そうです。カメラ業界での成功を皮切りに、オーディオ業界などにも進出しました。日本の産業は軽量で迅速な動きを求められるため、アメリカの製品をそのまま使うことは難しく、日本での開発を進めました。アメリカ側から技術を買い、国産化を進めたのが私たちの強みです。

東洋ドライルーブ株式会社
(画像=東洋ドライルーブ株式会社)

先代から事業承継した経緯とその後の事業転換

——お父様から会社を引き継いだ際の経緯についてお聞かせください。

飯野 父が53歳の時に大病を患い、会社に出てくることはできても、仕事をすることは難しい状態になりました。私はその時25歳で、会社に入ったばかりでした。ですので、創業者である父と一緒に仕事をした経験がないんです。これが、少し普通の会社とは違う点かもしれませんね。

——なるほど、引き継ぎがない状態でのスタートは大変ですね。どのようにして会社を運営されたのですか?

飯野 当時、会社は輸入商社としての活動がメインでした。工場も小さく、製造業に深く関わっていたわけではありませんでした。右から左に物を仕入れて売るというのが主な業務でしたので、引き継ぎがないこと自体はなんとかなりました。

しかし、技術が残らないことを課題に感じていました。そこで、3年ほど経った頃、輸入商社から製造業への転換を図ることにしました。創業者である父が内部留保していた資金を使い、思い切って製造業に転換しました。

——それは大きな決断ですね。製造業への転換はどのように進められたのですか?

飯野 製造業としては、私が創業者のような形でスタートしました。製造することに関しては素人の集まりのような状態で、そこから始めたのが第2創業のようなものでした。最初は非常に苦労しましたが、自分たちで手を動かしてものを作ることで、会社の中にノウハウが蓄積されていきました。

領域としては、熟練工がいなかったため、いきなり機械化やロボット化から始めました。ロボットを導入し、自分たちで組み立てて道具を作るなど、コストを抑えながら進めました。これが私の第2創業のスタートの5年間だったと思います。

——その後、どのように事業を展開されたのですか?

飯野 国内に工場を展開し、お客様から品物を預かり加工して納めるビジネスモデルだけを展開しました。メインの薬品は1カ所で集中的に作りました。粉から薬品を作り、薬品で部品をコーティングするという、2段階の仕組みを作りました。お客様から見れば、材料から最終製品まで一貫して任せられる会社として重宝され、現在は国内に4つの工場と3つの子会社があります。

——それは素晴らしいですね。先ほどカメラ業界からのスタートだったと伺いましたが、その後自動車業界にも進出されたのですかね?

飯野 カメラの仕事はすでにありましたが、当時はオートフォーカスではなく、手動で焦点を合わせるマニュアルタイプのカメラが主流でした。交換レンズが多く、カメラの売上が8割を占めていました。

自動車業界には昭和50年代の終わりに参入しました。ワイパーのゴムに塗布する製品を開発し、最初は苦労しましたが、改良を重ねて採用していただけるようになりました。

——自動車業界への進出も成功されたのですね。現在もワイパーの製品を手掛けているのですか?

飯野 当時は独壇場でしたが、今では競争相手も増えています。それでも、毎月数百万本のワイパーのゴムへのコーディング加工を受注しています。フロントガラスの形状が変わる中で、新たな課題に取り組んでいます。

ぶつかった壁やその乗り越え方

—— これまでにいろいろな壁にぶつかってきたと思いますが、具体的にはどんな問題があり、どうやって乗り越えてきたのでしょうか。

飯野 特にカメラ業界においては、オートフォーカスの普及に伴って交換レンズの需要が激減しました。当時は交換レンズの専業メーカーが次々と姿を消していく時代でした。

また、カメラの生産拠点が国内から海外に移行する中で、各メーカーが異なる国に進出していきました。N社はタイ、C社は台湾、O社は中国の深圳など、各社が異なる地域に進出したため、我々もすべての工場を追いかけることはできませんでした。

——なるほど、カメラ業界の変化が大きかったのですね。

飯野 そうです。カメラの需要が減少する中で、危機感を持ちました。どの業界でも同じことが言えますが、技術の進化によって必ず陳腐化していくものがあります。こうした変化に対応するために、次の成長産業にどのように取り組むかが重要です。

——その変化にどう対応してきたのでしょうか。

飯野 海外展開と新しい産業へのシフトが重要でした。既存の製品が陳腐化する中で、新しい市場に向けてPRを行い、必要とされる製品を開発していきました。これによって業績が下がることを防ぎ、今の成長につなげてきたのです。

——カメラの需要が減った分はどのように補ったのでしょうか。

飯野 結果としては、自動車産業が大きな役割を果たしました。車の電子化が進む中で、アクセルやスターターなどのスイッチなど、さまざまな部品に我々の製品が使われるようになりました。これにより、自動車部門の売上比率が5割を超えるまでに成長しました。

——自動車分野へのシフトが成功したのですね。

飯野 はい、車の部品に我々の製品が使われることで、安定した需要が生まれました。

今後の新規事業や既存事業の拡大プラン

——今後の新規事業や事業拡大についてお考えをお聞かせください。

飯野 現在、当社の事業は自動車とカメラが主軸で、それぞれ売上比率の50%と20%を占めています。残りは電子機器関連で、医療機器や金属メーカーなどが含まれています。今後は第3の柱をしっかりと作ることが重要だと考えています。

——第3の柱というと、具体的にはどのような分野を考えていらっしゃいますか?

飯野 医療関係は非常に魅力的です。現在も取り組んでいますが、ボリュームの増加は緩やかです。それでも、体内や生体に影響のない製品を作ることで、医療分野にしっかりと進出していきたいと考えています。また、金属関係の重量物に対する軸受など、産業機械関係にも進出したいと思っています。

——なるほど。営業活動についてもお聞かせください。

飯野 当社の営業活動は長期的な視点が必要です。お客様にアプローチしてから実際に採用されるまで、通常2〜5年かかります。現在、実りそうな案件がいくつかあります。特に金属加工や金属製品の分野で、新しい市場が開けそうです。

ステークホルダーへのメッセージ

——最後に、記事の読者へメッセージをお願いできればと思います。

飯野 これまでの話と重複するかもしれませんが、売上高が右肩上がりになっているように見えても、それだけで企業の価値を判断することはできません。長く続けている企業は、数字だけでなく中身がどんどん変わっているものです。

今の状態に満足している企業は、今後の競争に勝ち残ることは難しいでしょう。環境が変わり続ける中で、先を読むことは難しいですが、自分たちの身の丈に合った形で未来を見据えることが重要です。そうした企業が勝ち残っていくと思うので、弊社もそうありたいと思います。

——本日は貴重なお話をありがとうございました。今後のご活躍を期待しております。

氏名
飯野 光彦(いいの みつひこ)
社名
東洋ドライルーブ株式会社
役職
代表取締役社長

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