(本記事は、クレイグ・アダムス氏(著)、池田真弥子(翻訳)の『賢い人の秘密 天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた「6つの知恵」』=文響社、2022年12月8日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
学校が教えなかった思考法
思考や議論の方法を定義する概念について、現代ほど、よく理解、説明されている時代はない。アリストテレスの死後も、人類は思考についての手掛かりを集め、磨いてきたため、今では山のように積み上がっている。
ところが、現代に至ってもなお、それらをアレクサンドロス大王より積極的に活用し、明確に使い分けているとは言えない。
大王は、紀元前4世紀の人物だ。しかも、当時はまだ14歳の少年だった。
基本的な概念が今も変わらず存在し、かつてないほど洗練されているとしたら、なぜ議論や討論の通貨として流通しないのだろう?個人の自由や繊細な思考を促進し、思考の幅を広げる燃料にならないのだろう?
答えは、教育にある。厳密に言えば、教育できていない部分にある。
教育は、社会の特効薬だと思われている。生産性を高めてくれる経済の救世主、心の扉を開くクリエイティビティの運び屋、社会問題を解決する手段、ときには、実利は少ないけれど本質的に善なるもの、という見方をされることさえある。
こういう教育を達成しようと志しながら、西洋社会の学校は、すっかり方向性を見失ってしまっている。教育の価値を熱く語ることはできても、教育とは何か、定義するのは難しい。
人々からは懸念の声が上がっている。カリキュラムには何を、どういう理由で取り入れるべきか。財政支援の拡充、公民教育、試験の縮小や変更を訴える意見もあれば、グラマースクールやチャータースクール、プライベートスクールについては、再生か廃止かが議論されている。他にも数え切れないほどの提言がある。
しかし、最も重要な問いが投げかけられることはめったにない。そして、答えようにも確信がない。教師にとって、心臓に悪い質問だ。「どうしてこの勉強をするのですか?」
経営学や経済学の担当ならば、少なくとも雇用のチャンスにつながる、と答えることができるかもしれない。しかし、他の教科はどうだろう?生徒から、なぜ数学を、スペイン語を、地理を学ぶのかと質問されたら?エンジニアや翻訳者、地理学者になるつもりなどない生徒たちに、何と答えよう。
答えは次の通り。教科学習の恩恵とは、最後に残る知識ではない。知識を生み出した思考法だ。
ビジネスでも政治でも家庭でも、「何をすべきか」「それはなぜか」ということを議論する。そのほとんどが、学校で教えられる教科に収まるものではない。純粋に「科学的」「数学的」「文学的」な問題に直面することなどめったにないからだ。むしろ、思考法を混ぜ合わせたような問題の方が多い。
学校と違い、人生は教科ごとに分割できるものではない。人生の複雑な問題を、あらゆる角度から理解するためには、タイプの違う思考法をいくつも使い分けるしかない。
真の思考教育とは、無用の知識を丸ごと覚えさせるものではない。さまざまな思考法や問題解決策を蓄え、人生に適用できるよう手ほどきするものだ。
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