古酒巡礼: 失われた時が育てたワインたち
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(本記事は、秋津 壽翁氏の著書『古酒巡礼: 失われた時が育てたワインたち』=あさ出版パートナーズ、2021年7月7日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

空前の肉ブームである。はやりは「ひとり焼き肉」と「赤身肉」と「熟成肉」だ。

熟成肉ブームは田園調布に開店した京都の「中勢以」という肉屋から火がついたように思われる。昔から「肉は腐りかけがうまい」といわれ、ジビエは捕ってもすぐに食べずに吊るしておき、「おなかを押して肛門から汁が出る」くらいが食べごろといわれている。牛肉はブロックのまま1~5℃、湿度60~80%の専用冷蔵庫に保管し、10から40日熟成させると、表面が褐色になり、白いカビが生えてくる。腐敗臭は出ずにナッツの香りがしてきたら完成だ。タンパク質が自己分解されアミノ酸に変化するので、うまみのアミノ酸が5、6倍になるという。最近では豚肉の熟成肉も出始めている。なんとあの牛丼の吉野家でも、2014年から2週間寝かせた熟成肉を使っているそうだ。

さらに、3、4年前から熟成させた魚が登場、熟成寿司が話題になっている。もともとマグロの赤身はさばきたてではなく、数日寝かした方がよいという寿司屋も多かった。

私も10日ほど寝かして、鉄味と酸味が出始めた赤身が好きだった。白身の王様、鯛もさばきたては歯ごたえばかりでうまみがないので、2、3日おくとよいといわれていた。

しかし、このたびの熟成寿司ブームはレヴェルが違う。ネタに応じて10から40日も熟成させるのだ!

中でも二子玉川の「㐂邑(きむら)」は、3代目の木村康司さんが熟成にこだわり、ミシュラン二つ星にまで上り詰めたお店である。カツオ5日、イワシ10日、シロイカ10日、キンメ15日、イサキ20日、カジキマグロに至ってはなんと2カ月近く熟成させるのである。木村さんは「ネタに合わせて酢飯を何種類か使い分ける店が多いが、私は一番おいしい酢飯を決めて、それに合うようにネタを熟成させている。まずは酢飯ありきだ」と話す。

熟成中の魚を毎日チェックし、磨き、トリミングし、保管条件を微調整するのは営業終了後の22時から。仕事が一巡するのは深夜3時前で、家に帰りシャワーを浴び、3時間だけ寝て築地市場に行く、という生活が続いているそうだ。熟成寿司を始めてよかったことは? と聞くと、「魚河岸が休みでも、台風でシケが続いても、ネタに困らないことかな」と笑うが、そのための苦労たるや、おいそれとまねのできるものではない。

熟成寿司には熟成古酒、ということで私が選んだのは、1980年代のノン・ヴィンテージ・シャンパーニュのAndré Lenique Cuvée Emilie である。抜栓時にわずかな音。泡は結構残るが、大粒ですぐに消えてしまう。褐色が強い金色で、香りはきんかん、ライチー、グレープフルーツ。ひと口目がなんとも甘い。エチケットを見直すと、ちゃんと「BRUT」と書かれている。少し甘みが強すぎて寿司に合わせづらかったが、30分後には柔らかい酸が戻ってきて、酢飯の風味に添い始めた。特にイカワタのルイベに絶妙のカウンターだ。スルメイカのワタを甘塩にし、1週間脱水したのち、2週間のうちに何段階かかけて塩抜きをして、冷凍保存した珍品である。これもルイベと呼ぶそうだ。

続いてのワインは50年熟成のムルソーだ。Grand Vindes Hospices de Beaune Meursault Cuvée LoppinM.G.Lafite & Cie Bruxelles 1966は、ボーヌ施療院の屋根が美しい色刷りの古きよきオスピス・エチケット。ネックラベルはかわいい天使がヴィンテージを抱えている。コルクはボロボロで真ん中だけが抜けて、あっという間にちくわになってしまった。例によってレスキュー道具一式を取り出して事なきを得たが……。色調は濁りなくクリアで、緑のニュアンスが入った金色、香りは古いみかん箱のよう。しかし、すぐにクロモジやヒノキのような香りのよい樹木系に変わった。味はえぐみがなくナッティで、生くるみのようなややドライな舌触り。この状態での酢飯との相性は抜群。

30分後には、マンゴスチンの果実とヤクルトのようなマロラクティック発酵由来の香りが柔らかい酸とともに開いてきた。2週間熟成し、とろりと大化けしたサンマのほのかな酸を引き立ててくれる。45日物のカジキマグロはタルタルステーキを思わせる味覚ベクトルであり、次回は熟成ピノ・ノワールを合わせてみたいと思った。

〈2018.1〉

古酒巡礼: 失われた時が育てたワインたち
(画像=『古酒巡礼: 失われた時が育てたワインたち』より)
古酒巡礼: 失われた時が育てたワインたち
秋津 壽翁
1954年、和歌山生まれ。医学の分野に進む前に大阪大学工学部発酵工学科で醸造学を修め、その後に医学部に進んだ。醸造学時代にワインにはまり、やがて「古酒」という異次元の世界にのめり込んで今日に至っている。TVのレギュラーとして「主治医が見つかる診療所」などに出演、「健康には赤ワイン! 」「動脈硬化にはポリフェノール! 」と叫んでいる。

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