(本記事は、タイラー・コーエン氏の著書『BIG BUSINESS(ビッグビジネス) 巨大企業はなぜ嫌われるのか』=NTT出版、2020年8月4日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
大企業を人間と同一視する発想
いよいよ、最大の問いに切り込もう。企業が非常に有益な存在で、企業批判の多くが誇張されていて、企業の腐敗度がそこで働く個人と変わらないのなら、どうして企業はこれほど嫌われるのか。
その原因は、人間の性質そのものにある。問題は、私たちが企業に評価をくだす際、個人を評価するのと同じ基準を適用しがちだという点にある。
本章では、なぜ私たちが企業を人間のように扱うのかを論じたい。それがいかに私たちの判断を歪めているか、企業がいかに私たちのそうした思考様式を助長し、あるいは促しているか、そして、大衆文化やエンターテインメントがそのような発想をいかに定着させているかを見ていく。
2012年のアメリカ大統領選に共和党から出馬したミット・ロムニー(バラク・オバマに敗北)は数々の失言が問題にされたが、「企業は人間だ。私の友人だ」という言葉はとりわけ重大な失言だった。ドナルド・トランプの数々の発言に比べれば、大した問題ではないと思うかもしれない。しかし、当時、この発言は大きな波紋を呼んだ。
人間と人間以外のものを同一視するかのような発言は、倫理観が破綻していることの動かぬ証拠だと考えられた。ロムニーはあまりに冷血で、あまりに裕福な暮らしに浸っているせいで、道徳観を見失っているように見えた。
文脈を考えれば、ロムニーの主張は完全に筋が通っていた。本来は、やり玉に挙げられる類いのものではなかったのだ。この発言は、税制改革、とりわけ法人税に関する議論でなされたものだった。ロムニーが言いたかったのは、企業に税金を課せば、やがてなんらかの形で人間にツケが回るということだった。みずからが設立した投資会社のベイン・キャピタルとかわいい孫たちの間に違いがない、などとは言っていない。
ある集会でこの発言をしたとき、聴衆から「そんなわけないだろ!」とヤジが飛んだ。すると、ロムニーはこう言い返した。「いや、そうだ。会社が稼いだ金は、すべて最後は個人の手に渡る。その金がほかのどこへ行くと思っているんだ?」
別に間違ったことは言っていない。奇妙なのは、この発言が激しい批判を浴びる一方で、程度はともかく、ほぼすべての人が企業を人間のように考えていることだ。というより、企業批判派こそ、そのような主張を繰り返している。
私たちはみな、理屈ではホモサピエンスと有限責任会社の違いくらい理解している。極端な話、大好きなおばあちゃんと種子・農薬大手モンサントの区別がつかない人などいない。ところが、企業に関する情報を咀嚼する際、無意識に企業を人間扱いしてしまう。人間と同じ基準で企業を称賛したり批判したりし、あたかも人間に忠誠を誓うように、企業への忠誠を貫いたりする。
「企業が政治を意のままに動かしている」という結論に人々が飛びつく理由の一端も、ここにある。私たちは、人間だけでなく企業に対しても、裏切られたとか、見捨てられたと感じる。私たちはよくも悪くも、人間に対する考え方や感じ方を企業への評価に持ち込んでいるのだ。
私たちは、頭と心のなかで企業を人間に置き換える傾向がある。企業を擬人化して、意識をもった生身の独立した存在とみなし、人間に対するのと同じ道徳基準で評価するのだ。
2016年、保険大手のメットライフは、企業キャラクターとしてスヌーピーを使うのをやめた。しかし、それまで長年にわたってスヌーピーを用い続けてきたことから明らかなように、メットライフは自社を人間のように(というより、この場合は人気のある愛すべき犬のように)思ってもらいたいと考えていた。
スヌーピーは、シリーズ漫画「ピーナッツ」の実質的な主人公だ。本来の主人公は飼い主の男の子チャーリー・ブラウンなのだが、このビーグル犬は、愛らしくて、哲学的なところがあり、やさしく、さっぱりした性格で、言葉少なく神秘的というイメージがある。多くの人は、スヌーピーを見ると、自分の子ども時代を思い出す。日々の生活を共にし、自分の分身と位置づけていたペットを連想するのだ。
メットライフは、新聞広告やテレビCMで30年にわたりスヌーピーを用い、イベントではスヌーピーが描かれた飛行船を飛ばしてきた。同社によると、スヌーピーをキャラクターに採用したのは1985年。「保険会社が冷たくてよそよそしいイメージをもたれている時代に、もっとフレンドリーで親しみやすい存在と思われたい」というのが理由だった。
では、なぜスヌーピーの使用をやめたのか。まず、キャラクターとして古くなったという事情がある。新しく採用されたのは、ブルーとグリーンでアルファベットの「M」の字を描いた企業ロゴだ。これは「パートナーシップM」と呼ばれている。ブルーとグリーンが混ざり合ってつくり出す多彩な色は、同社の顧客の多様性を表現しているという。適切な形で顧客に愛着をもってもらうには、スヌーピーは時代遅れとみなされたのだ。
一方、新しいキャッチコピーは、いっそう自社を人間的に見せようとしているように思える。そのキャッチコピーとは、「よりよい明日へ、ともに進もう」だ。「ぜひメットライフを。損はさせません」という古いキャッチコピーは、いまの時代にはやや直接的で冷たく感じられるのだろう。
メットライフは大規模な顧客意識調査を実施し、スヌーピーでは十分にリーダーシップ、責任感、そして今日の生活の慌ただしさを表現できないという結論に達した。スヌーピーは、保険を連想させづらいようにも思えた。それに、いまでは世界で1000を超すブランドがなんらかの形で「ピーナッツ」のキャラクターをマーケティングに用いている。メットライフとスヌーピーという組み合わせは、もはや特別なものに見えなくなっていた。
ニューヨーク・タイムズ紙に、クリスティン・ハウザーとサプナ・マヘシュワリがこの件について優れた記事を書いている。その記事のなかに、メットライフのグローバル最高マーケティング責任者を務めるエスター・リーのコメントが引用されている。「最近の企業は昔よりも親しみやすい印象をもたれるようになったと、リー氏は言う。消費者が企業に対して委縮しなくなったというのである。リー氏はこう述べている。『多くの企業が文字どおり顧客の一人ひとりに手を差し伸べるようになった。ツイッターで個々の顧客とやり取りする企業もある』」
要するに、企業は顧客に自社を人間のような存在だと思わせる能力を高めてきた。だから、メットライフは、フレンドリーな雰囲気をまとうためにビーグル犬に頼る必要がなくなったのだ。
進化の過程を通じて、人間が生きてきた環境では、個人が経験する大きな問題の多くは、ほかの個人の意思によって引き起こされてきた。人に最も恩恵をもたらし、最も害を及ぼすのは、明確な意図をもつ個人により構成される小集団だった。人間は、社会的地位を強く意識しながら集団の一員として生きるように進化してきた。子孫を残すことに成功し、幸せを手にするためには、適切な社会的連携を築くことが重要な意味をもってきた。私たちはよくも悪くも、そうした小集団が自分に対して取る行動や自分に対していだく意図を気にせずにいられない。
一方、私たちは、抽象的なシステムや規則の意味について考えたり、規則の間接的な影響により生活がどのように改善もしくは悪化するかに思いを巡らしたりすることは得意でない。
そこで、人はものごとを擬人化して考える。意識的にせよ無意識にせよ、企業を人間のようにみなし、人間と同様の基準で企業を評価せずにいられないのも、それが原因だ。
このような発想をすることは、ある程度は仕方がない。しかし、そのせいで判断を誤る場合があることは頭に入れておくべきだ。比喩を文字どおりに解釈しすぎたり、それにより感情を乱されすぎたりすることには、大きな危険がついて回る。ところが、現実には、人間との同一視を一切せずに企業について考えることは難しい。少なくとも、人間の小集団と重ね合わせずに企業を見られる人は多くない。
企業を憎むのは親を憎むのに似ている?
主に産業革命以降、途方もない影響力をもっているように見える近代的企業が登場すると、多くの人はなんらかの形でそれを擬人化して理解しようとした。人は、新しい状況や説明のつかないもの、潜在的な脅威に接すると、無意識に擬人化をおこなうものなのだ。
人は、すべての現象が誰かの計画と意図に基づいているかのような説明を心地よく感じる。ものごとの背景に計画や陰謀があると思いたがるのは、そのためだ。逆に、個人の計画や意図の影響を受けにくい市場秩序について理解するのは難しい。人間の行動によるものではあっても、人間が計画したものではない微妙な結果をなかなか理解できないのだ。この点は、ノーベル経済学賞受賞者のフリードリヒ・A ・ハイエクが指摘したとおりだ。
人々が陰謀論が好む背景には、さまざまな出来事や人間以外の力を擬人化したがる習性がある。たとえば、暗殺事件がすべて組織的な陰謀ではなく、正気を失った個人による突発的な事件の場合もあるのだと、人々に理解させることは簡単でない。あらゆるクーデターの背後でCIAが糸を引いているわけではないこと、そして、アメリカがイラクの原油すべてを持ち出しているわけではないことを納得させるのも難しい。
大きな事件が起きたとき、わかりやすい悪者をやり玉に挙げ、すべてがその悪者による陰謀だと決めつける人は多い。たいてい、そうした悪者は万能で強大な存在として描かれる。陰謀論を信じるのは、知識の乏しい人や教育レベルの低い人だけではない。教育レベルが高い人も陰謀論と無縁ではない。教育が陰謀論的な発想を助長する場合すらある。知識が豊富な人ほど、もっともらしい陰謀論を紡ぎ出す能力が高いのだ。
同様に、教育レベルの高い人が企業に関して正しい認識をもっているとは限らない。企業がさまざまな道徳を破り、経済を破滅させ、私たちを食い物にしているという、説得力ありげなストーリーをつくり上げたり、それとは逆に、企業を過度に礼賛したりするケースが少なくない。そうした非現実的な思い込み、とりわけ企業を悪者扱いする陰謀論に信憑性を感じる人が多いのは、みずからもしばしばひどい目に遭った経験があるからだ。たいていの人が手痛い経験をしているため、企業全般への批判が説得力をもつのだ。
もしかすると、人々は企業の力なしでは生きていけないからこそ、企業を憎み、批判し、嘲笑し、怒りをいだき、その地位を下げたがる面もあるのかもしれない。人々は企業に苛立たしい思いをすることが多いため、そのような態度を取りたくなるように思える。
私がこの本のアイデアを経済学者のブライアン・カプランに話すと、カプランは大げさな驚きの声を上げた。「でも……人々が企業に感謝しないなんて、嘘でしょ? ぼくたちの必要なものは、みんな企業が提供してくれているじゃないか! みんな企業のおかげじゃないか!」
もちろん、これはあくまでも冗談だ。人々がしばしば企業に厳しい視線を向けていることは、カプランもよく知っている。そして、人々が企業を批判するのは、企業が私たちのために、そして私たちに対して、あまりに多くのことをおこないすぎるからだ。
何かに似ていると思わないだろうか。カプランはこう言った。「企業を憎むのは、親を憎むのに似ている」
鋭い指摘だ。親はたいてい、わが子のために多くのことをする。ところが、そうした親の行動がもたらす結果に対して、子どもは少なくとも全面的には満足していない場合が非常に多い。アメリカではとくにその傾向が強い。親との関係では、子どもは大人になるまでほかの選択肢をなかなか選べない。それに対し、企業との関係では、ほとんどの人は企業に委ねる領域を増やすことを選んできた。しかし、企業は利己主義的な存在で、自社の利害に沿うときしか私たちの望みを考慮しない。
恐ろしい状況だと思うかもしれない。それでも、大半の人は企業の影響をますます強く受けるようになっている。人々は企業の創造性や安定感を評価し、勤務先の会社を通じて自己実現ができる可能性があることにも満足している。そして、混乱だらけの人生で、企業の商品を一服の清涼剤のように感じている。
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