高齢化が進む日本の中で、企業における後継ぎ社長の役割が重要視されている。本企画では、これからの日本経済を支えていく後継社長に、どのように変革を起こし、成長を遂げていくのかを伺い、未来の経済発展へのヒントを探っていく。

三陽工業株式会社
(画像=三陽工業株式会社)
井上 直之(いのうえ なおゆき)――代表取締役
1977年11月12日生まれ。佐賀大学を卒業後、5年間別会社にてサラリーマン経験を積む。その後三陽工業株式会社へ入社し、2007年に取締役に就任。2010年には、株式会社アイコムを設立。その後、2011年には代表取締役専務、2018年に同社代表取締役に就任し、現職に至る。
三陽工業は兵庫県明石市に本社を構え、製造業と製造派遣事業を行っているものづくりの会社です。「日本の製造現場を元気にする」をビジョンに掲げ、業界の非常識に挑戦しています。製造業では、金属の研磨を主軸に11の自社工場を展開。製造派遣業においては、三陽工業ならではの働き方を追求した部署「生産推進グループ」を立ち上げ全国の製造現場に派遣しています。「ものづくり×製造派遣」による相乗効果が三陽工業の強みです。

目次

  1. 創業からこれまでの事業変遷
  2. 代替わりの経緯・背景
  3. ぶつかった壁と乗り越え方
  4. 今後の経営・事業の展望
  5. 全国の経営者へ

創業からこれまでの事業変遷

ーー創業から現在までの事業変遷について教えていただけますか?

三陽工業株式会社 代表取締役社長・井上 直之 氏(以下、社名・氏名略) 三陽工業の設立は1980年で、現在で45期目を迎えています。初代の社長は私の父親で、会長には祖父が就いていました。法人化当初、父親は28歳、祖父は60歳前後でした。もともと祖父は溶接職人で、日本全国を回って仕事をしており、最終的にたどり着いたのが神戸市の兵庫区で、川崎重工の造船所が近くにある場所でした。

そこから、祖父は川崎重工の造船の仕事をしていましたが、造船業界は周期的に不況を迎えることがあり、その影響で仕事が少なくなった際、西明石が忙しいという話を聞き、川崎重工の明石工場に移り、機械加工の仕事を始めました。 その後、仕事量が増えていき、祖父は現場のオペレーションから徐々にマネジメントへと移行していきました。そして、私の父親が高校を卒業する際、祖父から「手伝え」と言われ、父は大学進学をせずに家業を手伝うことになりました。そして1980年に法人化し、三陽工業が誕生しました。 創業当初から川崎重工との取引がメインでしたが、機械加工だけでなく、組み立てや物流も手掛けていました。「川崎重工のニーズに迅速に応える」ことをモットーに、明石工場以外にも川崎重工関連のサプライヤーや子会社からの依頼も受け、支援を行っていました。

リーマンショックが起こるまでは、年間の売上高は12〜14億円程でしたが、その100%が川崎重工および関連企業からのものでした。しかし、リーマンショックの影響を受け、一年で売上が約4割減少し、7〜8億円に落ち込みますこれが私の事業に対するスタートラインでした。

代替わりの経緯・背景

ーー代替わりについてお伺いしたいのですが、リーマンショック後に社長に就任されたとのことですね。その経緯と当時の社内の状況について教えていただけますか?

井上 私が入社した時点で感じていたのは、事業承継者としてのスタートはマイナスからだということです。他の人よりも動き、考えなければならないと。入社時、私は外の会社である程度の経験を積んでいたこともあり、引き出しはあるという自負がありました。しかし、最初の2年間は何も言わない、意見を出さないと決めました。たとえ父親や上司が違う意見を言っても、まずはそれを受け入れようと考えたんです。自分の考えを押し通すのではなく、従順な一兵隊としてスタートすることが重要だと感じていました。

ーーなるほど、リーダーとしての自分を作り上げていく過程で、特にリーマンショック後は大変だったのではないでしょうか?

井上 リーマンショックが起こった時は、会社の売上が大幅に減少し、非常に恐怖を感じました。それまで14億程あった売上が、リーマンショックの影響で7億円近くにまで落ち込んだんです。私は、「7億円の会社の社長になるために戻ってきたわけではない」という思いを持っていましたが、それまで絶対的な存在と思っていた川崎重工が絶対的な存在ではないと気づかされました。そして、これは自分で動いて変えていかなければならない、と強く感じた瞬間でした。

ーーそこから、新しい取り組みを進められたのですね。社内の反応はどうだったのでしょうか?

井上 当時の社内には、私が新しい方針を打ち出すことをよく思わない人たちもいたと思います。ただ、私は成果を出せば、反対意見も自然と消えるだろうと確信していましたし、実際に売上を伸ばすことで、徐々に社内の雰囲気も変わっていきました。ですので、社内で感じた違和感はありましたが、それほど大きな影響を受けることはなかったです。

ーー事業承継者としてのプレッシャーはありましたか?

井上 小学校3年生くらいの時から、社長の息子というレッテルを貼られていたので、自然とそのプレッシャーには慣れていました。それに、成果を出せば周囲の見る目も変わるという確信を持っていましたので、特に気にすることはなかったです。

ーーリーマンショック後に自ら決断し、変革を進められたとのことですが、どのような信念があったのでしょうか?

井上 リーマンショック後の私の原動力は、恐怖でした。リーマンショックで大打撃を受けたのを目の当たりにした時、「未来栄光絶対的に続くものはない」と気づかされ、自分で動くしかない、という強い責任感が湧いてきました。もちろん、当時は今のようなビジョンを持っていたわけではありませんが、その時の恐怖が次のステップを踏み出す原動力となりました。

ぶつかった壁と乗り越え方

ーーこれまで経営していく中で、一番大きな壁と、それを乗り越えるための工夫についてお聞かせください。

井上 最近まであまり「壁」というものを意識していなかったんですが、振り返ってみると、売上が40億を超えたあたりから感じた壁があります。それまでは、自分自身が動いて、問題があれば自分で解決することができました。しかし、売上が大きくなるにつれて、会社に仕組みができ、実際にオペレーションを担うのは私ではなく、周りの仲間になってきました。この状況で初めて、人に動いてもらうことの難しさを痛感しましたね。

ーー確かに、経営者として組織を運営していく中で、従業員に動いてもらうことは大きな課題になりますね。

井上 企業が大きくなると、経営者に求められる役割も変わってきます。それに対して周りに動いてもらって解決することの難しさを強く感じました。最初は、正直「自分でやってしまおうか」と思うこともありましたが、それでは意味がないんですよね。この壁に直面したときは、かなり衝撃を受けましたし、受け入れるのに時間がかかりました。

ーー今はどのようにこの壁を乗り越えようとしているのでしょうか?

井上 現在では、役員や部長クラスのメンバーに任せることが増えてきました。大事なポイントとして、自分が動くべき局面でも、「私は動きませんよ」と明言しています。これによって、周りに任せるというメッセージをしっかりと伝えるようにしています。

ーー口を出さずに任せるというのは難しいことではないでしょうか?

井上 目の前で間違っていることがあっても、あえて口を出さないようにするには、忍耐と我慢が重要です。経営者としての成長を促すためには、自分がやるのではなく、周りに動いてもらうことが必要だと感じています。

今後の経営・事業の展望

ーー今後の経営や事業の展望についてお聞かせください。5年先、10年先、さらにその先でも構いません。どのようなビジョンを描かれていますか?

井上 私たちのビジョンは、「日本の製造現場を元気にする」というものです。それが最終的なゴールです。そして、その実現には、製造現場が活気づき、そこで働く人々が元気であることが不可欠です。さらに、それを達成するためには、働く人々の生活が豊かでなければなりません。

しかし、製造派遣という業界は特に40代以上の方々にとって、ネガティブな印象が強いのが現状です。若い世代、特に20代前半の方々にはあまりそのイメージがないのですが、世代間の格差が大きいですね。この業界で働く人々のイメージを変えることが大きな課題です。

現在、三陽工業では「生産推進グループ」という働き方を推進しており、約1500名の仲間が働いています。しかし、製造派遣業界全体で40万人が働いている中ではまだまだ少ないといえます。理想を実現するためには、8万人規模の会社になることが目安です。売上で言えば、今の50倍に達する必要があるでしょう。まだまだ道半ばです。

ーーM&Aも積極的に行われていると伺いましたが、それも同じビジョンに基づいていますか?

井上 はい、M&Aは、事業承継者がいない企業や技能承継が課題となっている企業を救うための社会問題解決策と考えています。多くの企業が、経営者や技術者の高齢化に直面しており、そこに若い人材を送り込むことで企業を再生させています。

ーー若手社員が現場に入り込むことで、技術の伝承が進み、会社全体の活性化を図っているのですね。

井上 その通りです。技術だけでなく、我々の持つ「正しい思考と行動」を浸透させ、結果として現場の活性化を目指しています。M&Aによって元気のない製造現場が、我々の力で元気を取り戻せるような取り組みが、M&Aに対する基本方針です。

ーー最後に、ファイナンス戦略についてお聞きします。IPOなど資本の増強についても視野に入れているのでしょうか?

井上 IPOは選択肢の一つとして既に考えています。我々はものづくりも行っているため、土地や建物、機械設備が必要で、資金面では多少の負担があります。しかし、今後の成長を見据え、資本強化を含めたファイナンス戦略を検討しています。

全国の経営者へ

ーーそれでは最後に、全国の経営者の皆様に向けたメッセージをお願いできますか?

井上 私たち三陽工業は「日本の製造現場を元気にする」というビジョンを掲げており、このビジョンを実現するために存在していると思っています。多くの企業がビジョンや理念、存在意義を持っていると思いますが、特に経営が厳しい時期や困難な状況に直面した時こそ、そのビジョンに立ち返ることが大切だと考えています。

そして、それをやり続けて、結果として成果を出すことができれば、最終的には日本全体がもっと良くなると信じています。

氏名
井上 直之(いのうえ なおゆき)
社名
三陽工業株式会社
役職
代表取締役

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