渋沢栄一は生涯500を超える企業の創業に携わったといわれているが、その多くは政府主導の国営企業の色が強いものだった。その理由として、開国直後の日本が近代化を進めるにあたり、輸出製品の製造やインフラ整備、文化事業など欧米に近づくために膨大な会社、運営母体が求められたがためである。当時の明治政府は、資本投入による植民地化を警戒し、外国資本を受け入れず国策としてこれらの事業を立ち上げた。

東京商工リサーチのよると、1868年(明治元年)から1912年(明治45年)の期間に創業した企業は全国で2万1799社にもなるとされている。生命保険、地下鉄、劇場、証券取引所、旅行会社、銀行、鉄道など現在にもその名前を残す大企業の多くはこの時代に設立されている。

官営事業の払下げと財閥

三菱財閥が急激に成長した1つの理由に、国からの払下げによる事業買収があげられる。

明治政府は、国家の欧米化、近代化を急激に推し進めるため殖産興業政策をとった。結果として、前述した富岡製糸場をはじめ、日本全国で政府が主体となって立ち上げられた商業施設、工場、鉱山が急増した。一方で、技術指導にあたっていたお雇い外国人の人件費の高さ(月収100万~300万程度)や官営ならではの経営効率の悪さなどから事業自体は好調なものの、収支として赤字になる官営事業も多かった。

そこで、明治政府はこれら赤字事業を精算すべく、1880年(明治13)11月5日には「工場払下概則」(こうじょうはらいさげがいそく)を発令した。太政官布告とは明治政府が発令した法律のことで、太政官布告・太政官達とも呼ばれる。例えば、平民でも姓を名乗ることを義務付けたのも太政官布告によるものである。

さて、「工場払下概則」だが、営業資本の即時納入など譲受の条件が非常に厳しく、また、官営規模の設備を買い取るだけの資本が当時の一般人にあるはずもなく、払下げは難航した。そのため、工場払下概則が発令された4年後には、投資資本の3割程度の価格に引き下げるほか、25~55年での長期返済を許可するなど条件をかなり甘くすることで民間への払下げが進んだ。

後に財閥となる企業の多くは、払下げられた工場や炭鉱を長らく事業の中核としている。

例えば、後に三菱財閥となる「三菱社」は1881年に長崎の高島炭鉱を1884年に長崎造船所を払下げられると、この2事業を中核として多角的に事業展開を行っていく。ちなみに、高島炭鉱は現在「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産登録されている。また、長崎造船所は、1917年(大正6年)に独立して三菱造船株式会社となり、戦艦武蔵などの大型船舶を造船。現在も三菱重工業として造船業を行っている。敷地内にある旧木型工場は高島炭鉱と同じく世界遺産登録され「三菱重工業長崎造船所史料館」として一般見学が可能だ。

また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月に世界遺産登録された富岡製糸場は創業しばらくして赤字が続いたため、1893年に三井家に払い下げられている。また、三井家は1888年には九州の三池炭鉱を払下げにより取得、この炭鉱は1997年まで採炭が行われていた。

M&Aで急成長したカネボウ

紡績業の鐘淵紡績(カネボウ)もM&Aによって国内トップクラスの紡績会社へと成長した企業である。もともと、三井財閥の出資を受けて創業した東京綿商社が前身であったが、経営状況が悪化し、三井による経営再建の後押しを受けることとなる。

その時、三井が抜擢したのが当時28歳の武藤山治だ。兵庫の新工場の工場支配人に抜擢された武藤は、新設備の導入や日清戦争により急速に需要の伸びていた中国への輸出を強化するなど経営再建を行った。

武藤が取った経営再建手段の1つがM&Aによる企業買収だ。紡績は日本が外貨を稼ぐうえで1,2を争う国の基幹産業であり、その分会社も多かった。そのため、日本全国で大小様々な紡績工場が誕生したのだが紡績というシンプルな産業において、会社が乱立していることはあまりにも経営効率が悪かった。実際に赤字に陥っている工場も多く、当時の北浜銀行の頭取岩下清洲は紡績業者との談合の中で「地方色の強い日本の弱小紡績業が,これから国際競争力 をつけるには,合同あるいは連合によって企業基盤の強化を図るべきである」と述べている。このあたりから、紡績業界の業界再編を行うべきだという気運が起こり「紡績合同論」が唱えられるようになった。

武藤が出版した「紡績大合同論」という書籍の中では、「ローマでは共同のかまどと食堂を設けることで経費を削減した」という序文に始まり次のような合同(トラスト)のメリットを述べている。

・仕入れ価を安くすることができる ・製造コストを抑えることができる ・従業員の給与を増やすことができる ・製品を安く売りだすことができる

この方な背景には、当時、中国やインドなどより安価な糸がでまわったため糸の値段が下がったこと、日清戦争後の人件費や原材料費の高騰などがあったとされている。

武藤はわずか5年の間に10を超える紡績工場を買収した。その後も鐘紡の支配人として辣腕を振るい、1933年には紡績大国イギリスを抜いて綿布輸出で世界一となった。また、武藤が支配人・社長を務めた鐘紡は国内企業売上1位を誇っていた。

ほかにも、鐘紡は鐘淵デイゼル工業や茨木自動車などの異業種の買収も行っている。この時に行った買収と経営の多角化がのちのカネボウ、クラシエ、カネカへとつながっていくのだ。

余談だが、武藤が兵庫支店で配布した「兵庫の汽笛」という小冊子が日本で最初の社内報だといわれている。もともと、慶応義塾大学を卒業後、カリフォルニアのパシフィック大学へ留学していた武藤は、帰国後まもなく日本で初めての広告取扱業「新聞広告取扱所」を起業するほど先んじたセンスの持ち主だった。

家族経営から会社へ、会社から大企業へ変わっていく中で、社員やステークホルダー(当時、関係者や周辺役場などにも配られた)へ経営者の言葉を伝えるツールとして使っていたのかもしれない。