絹紡糸用シルクの原料商として100年前に京都で産声を上げた元廣は、戦後その素材をシルクからウールに転換して事業を進化させ、現在は中国やオーストラリアにも拠点を持つグローバル企業となった。その同社がフランチャイジーとして活動を開始したのは今から30年前。外食事業で多店舗展開を行い、直近2020年12月期の売上高は全体の3割となる40億円を占める水準まで到達した。先代社長の命を受けて新規事業の舵取りを任された同社の代表取締役専務である元廣剛巳氏に、メガフランチャイジーになるまでの道のりを聞いた。
元廣が創業したのは、1921年。現経営陣の祖父である元廣理一氏が広島の尾道から大阪の繊維原料商店に丁稚奉公したのち、京都で創業。2代目で先代の元廣理氏が祖業の繊維商社事業を大幅に拡大させていった。そして兄であり、現3代目社長の元廣哲也氏と同じく家業に入った元廣剛巳氏だが、入社9年目に大きな課題を突き付けられる。
「明日から繊維やらんでええわ」
突如舞い降りた新規事業への辞令
―繊維関連事業から外食事業へ転換するケースは珍しいケースだと思いますが、どのような経緯で参入することになったのでしょうか。
元廣 当時の社長である父から言われたのがきっかけです。当時私は本業の繊維事業に携わっており、よく泉大津の方に羊毛を売りに行っていたのですが、ある日社長から「もう明日から繊維やらんでもええわ」と(笑)。私の兄で現在の社長は長男だから羊毛を担当し、お前は次男だから会社の将来の2本目の柱となる事業を開発しろと。そこから「何しよ」言うて始まりました(笑)。幸い時間は一杯あったので、色んなところに話を聞きに行きました。コンテナを使ったカラオケボックスだったりTSUTAYAのフランチャイズ、また自社でレンタルビデオや本屋といったように色んなことを考えました。
―御社が最初に加盟したブランドは、「びっくりドンキー」ですが、このブランドとの出会いはどのような経緯からですか。
元廣 繊維事業の方で三菱商事と羊毛の取引があり、新しい事業をやりたいからといって話を聞きに行ったのがきっかけです。当初は先方から「そんな話があるならローソンの直営店を置きたいから土地を貸してくれ」と言われたのですが、あくまでも自分らでやりたいと。そんな話をしていた時に、その羊毛部隊の人が、「そういうたら、建築の部署で大垣に『びっくり丼』か何か知らんけど、変な名前の工場建設の建築資材を卸す言うとったから話聞きに行くか?」と言ってもらって。行ってみたらびっくり丼ではなく、びっくりドンキーでしたが(笑)
―ただ三菱商事だと、「ケンタッキー・フライド・チキン」のフランチャイズも展開していますが、そこに加盟する話は出なかったのですか。
元廣 もちろんありました。私たちが紹介してもらってあった第三建設チームという部署は、まさにケンタッキー・フライド・チキンを日本に持ってきたチームだったので、お話はいただきました。ただその時はマクドナルドの勢いがすごかったのでそれはお断りして。当時びっくりドンキーが建設する工場というのは、まさにこれから全国展開をしようとするためのセントラルキッチンだったのです。
―まさにこれから伸びていくブランドだからチェックはしておくべきだと。
元廣 実はびっくりドンキーはそれまで大々的なFCの公募をしていなかったのですが、すでに何社かフランチャイジーとして店舗を出店している会社がありました。その中で、大阪にすでに4店舗を出店していた会社があったのでそこの店舗を見に行ったのですが、めちゃくちゃ流行っていた。恐らく月に4000万円以上は売っていたのではないでしょうか。また食べたら美味いわ安いわで、こんなお店が近くにあったら僕ら行くやろなというのが、一つの決め手になったのです。
大阪の店舗視察から日を経たずしたある日、日経新聞にびっくりドンキーのFC一般公募の広告が掲載された。当時のびっくりドンキーの店舗数は60数店舗。内、直営店舗は40店舗程で、残りの約20店舗を本部と直接取引のある企業がフランチャイジーとして運営していた。広告を見た元廣氏はすかさず運営元のアレフへ電話をかけ、本社のある札幌市へ赴く。
33歳で一からの飲食業
苦労の末、一般公募1号店を出店
―大阪の加盟店を始め、東北や東京、また直営店などほとんどの店舗を視察し、満を持して本部に話をしに行きます。
元廣 電話でお話をして、「とりあえず本社まで来てください」と言われていったのですが、電話で話をした時の質問が向こうからしたらピントがずれていたんでしょうね。会うなり「お金はかかるし、儲からへんで」ということを何回も言われて。また自分が店に入るつもりでやるんだったら考えるけど、人にやらしたりするならそれはダメやでと。やるんだったら研修も3人しっかり揃えなさいと。当時は私のほかに同期で事業部立ち上げから一緒に動いてくれていた波多野君がいましたが、もう一人足りない。急遽私の同級生で飲食の経験がある人材を呼んで、北海道まで研修に行きました。
―本部としてはそんな生易しい条件で加盟はさせないという感じですね。
元廣 33歳の男が頭を下げて必死にやりました。確かに研修は大変でしたが、最終的には本部からもようやりよったと言ってもらって。今思うと、私たちが飲食の経験が全然なくて貪欲に学んだというのが良かったのかも知れませんね。本部としても一般公募の一社目だったので、色々試行錯誤をしていたのだと思いますし。ただ実際に加盟をすると、本部の方は全部教えてくれましたし、今でも色んなことをアドバイスしてくれます。
―苦労を経て、ようやく1991 年12月に1号店目を出店します。
元廣 建設に際しては、ご縁を頂いた三菱商事の第三建設チームが元請けで残ってくれました。何十億とか何百億の建設をしているような会社がわざわざ1億円の工事を請け負ってくれたのは嬉しかったのですが、施工会社の床施工に不備がありまして…。三菱商事の部長が店舗に来てゴルフボールを置いたらビューンと勝手に転がっていって、「こらあかんわ!床、やり直しや!」言うて。そこで三菱商事が別の大手ゼネコンを連れて来てくれて、直してもらったのです。その間1週間ほど店舗を休業したのですが、その間の休業補償も全部三菱商事がしてくれて。やっぱり大きなところにしておいて良かったなぁと思いました。
―大変な船出でしたね(笑)。でもその後は毎年1店舗のペースで順調に出店を重ねていきます。
元廣 1号店目が成功して、2号店目は高槻市の不二家の居抜き物件、3号店目は河原町丸太町というように、とりあえず1店ずつ出店し、4年目以降は2店舗だったり3店舗という形で出店していきました。当社はエリアフランチャイズではなく、ポイントフランチャイズだから1店舗単位での出店です。ただ本部の方も、暗黙の了解で他の会社が手を挙げても全部断ってくれていたようです。
―一般公募の1社目ということもあって、本部も気を使ってくれたんでしょうね。当時は出せば儲かるという状態だったのですか。
元廣 月商で2200万円〜2300万円売っていたので、年間で1店舗当たり2億5000万円。税引き前利益で 10%は残っていたと思います。ただそれも、次第に店舗が増えていくにつれて人が増え、色んな経費がかかってくる。さらにびっくりドンキーは、「同じ店は2ついらん、違う店を作ってくれ」という考えがあったので、店舗作りにお金がかかるのです。私たちもアメリカに何度も赴き、古いアンティークの看板や内装材などを買っては店舗に置いていましたから。
―でもそういった備品は、本部指定ではないんですよね。
元廣 一時期、関西の加盟店の中でテーマレストラン作り競争みたいなものが流行ったのです(笑)。アメリカに一緒に行った仲間とはテーマパークにも行ったりしましたが、そこで「うちはこんなんする」と言えば、ほかのオーナーは「いや、うちはこんなんするんや」といったようにです。社内からはお金使いすぎやでとは言われましたが(笑)、お客さんも喜んでくれる。特に小さい子どもにとっては、そこでの記憶は大人になっても残るわけですから。
(後編へつづく)