安藤 国威理事長(78・左)と中澤信雄
(画像=ビジネスチャンス 安藤 国威理事長(78・左)と中澤信雄)

長野県立大学(長野県長野市)
安藤 国威理事長

東京コーパス総合研究所代表
中澤 信雄

日本が世界に誇るモノづくり企業ソニーに入社し、ソニー・プルデンシャル生命(現:ソニー生命)の立ち上げ、そしてパソコン「VAIO」の開発を主導し、2000年にソニー7代目の社長に就任した安藤国威氏。現在は公立大学法人長野県立大学の理事長として、産学官で構成する「信州ITバレー構想」の発起人の一人として奔走している。現代の起業家にとって必要な要素とは何なのか。安藤氏の経験をもとに紐解く。(※2020年8月号「上場請負人 中澤信雄の成功道入門」より)

安藤 国威
安藤 国威
あんどう・くにたけ
長野県立大学理事長
1942年生まれ。東京大学経済学部卒業。69年ソニー株式会社入社、79年ソニー・プルデンシャル生命保険株式会社(現ソニー生命保険株式会社)を設立し代表取締役就任、生保業界に革新的なビジネスモデルを確立する。90年より米国ソニープレジデントCOO、96年ソニー本社ITカンパニープレジデント就任以来、パーソナルコンピュータ”VAIO”、携帯電話、デジタルカメラの開発・事業化を主導。2000年6月ソニー株式会社 代表取締役社長に就任。2005年ソニーフィナンシャルホールディングス株式会社代表取締役会長。その後ソニー生命保険株式会社会長、名誉会長を歴任。2018年4月長野県立大学理事長就任。
中澤 信雄
中澤 信雄
なかざわ・のぶお
東京コーパス総合研究所代表
1944年8月7日、熊本市出身。早稲田大学卒業後、野村証券に入社し海外投資銀行部門を20年渡り歩く。常務取締役、専務取締役を経て、1997年国際証券社長に就任。三菱証券社長、国際投信投資顧問会長を経て、2003年、事業創造大学院大学初代学長に就任。2006年から現職につき、国内外の幅広い企業で顧問を務める。

IT事業への本格参入を指揮 エンジニアの意識改革を実行

中澤 生命保険会社の立ち上げ以降は、どのようなキャリアを積まれたのですか。

安藤 生命保険会社には設立から10年間携わりました。その後はアメリカに戻って5年間、ソニー・エンジニアリング・アンド・マニュファクチャリング・オブ・アメリカ(SEMA)のCEOとして、ソニー本社の事業部サイドの開発・製造業務をすべて米国で引き受けました。その後、日本でバブルが弾けたこともあり、1994年に日本に戻り、カンパニー制度のコンシューマー部門を担当していました。その後、出井伸之さん(第6代社長)が社長になったので、ようやくアメリカに戻れると思ったのですが、「お前がITをやれと」(笑)

中澤 当時、ソニーは新事業として、出井さんがITへの本格参入を打ち出しました。これは安藤さんが前面に出て行われたのですね。

安藤 ソニーはワープロやワークステーション、そしてパームトップと呼ばれた手の平サイズのコンピューターなど、ユニークなIT商品を開発してきたのですが、残念ながらビジネスとしてはことごとく失敗していました。それでも出井さんはITをやると言った。ですから私は、せっかくやるのであればこれまでと全く違うことをやろうと決めました。幸い、カンパニー制度下のプレジデントということもあり、独立したカンパニーとしての意向をすべて反映することができたのです。

その上でまず行ったのが、優秀なエンジニアたちのオタク気質を改めさせることでした。彼らは「ITはこうじゃなきゃいけない」という気持ちが強い。しかし一般のコンシューマーに訴えるのには、私のような素人目線で「こういうものを作りたいんだ」と明確に発信することが大事なのです。

中澤 こうして考案されたのが、有名な「VAIO」ですね。開発は順調に行ったのでしょうか。

安藤 当初はインテルからマザーボードを購入し、ソニーデザインの筐体に入れてアメリカで売り始めましたが、思ったほど売れませんでした。

日本でも当初は全く売れなくて酷評されました。当時私も、品川の本社から事業部のある藤沢まで移動で一時間弱かかるのですが、その間、ノートPCを腿の上に載せて作業をすると腿が低温やけどする。これは酷いと(笑)。

しかし、エンジニアの名誉のために言うと、3カ月後に発売した次のモデルでは、完璧なハードに仕上がっていました。ただ米国と違って日本で売り出すなら、純粋にソニーが開発した全くユニークな商品を世に問いたいという強い思いがあったため、カンパニーの発足から1年3カ月間は日本では全く売り出しませんでした。

中澤 当時はブロードバンドもまだ普及していなかったと思いますが、それでも将来は必ずパソコン一台あれば、映画や音楽が家庭でも楽しめるという絵があったわけですね。

安藤 ハードのビジネスとソフトのビジネスとではビジネスモデルが全く違います。幸い私は、その両方を経験することができたので、VAIOの開発も実現できた。パソコンというハードと通信やコンテンツといったソフトをどう融合させるかが重要で、融合すれば全く新しいものができるのです。

産学官共同で世界に通じる人材を育成

中澤 ソニー時代に様々な経験をされた安藤さんですが、2年前から公立大学法人長野県立大学の理事長として、グローバルな学生の創出に努めていらっしゃいます。

安藤 長野県立大学は、1950年に創立された長野県短期大学が2017年に改組し、翌年から4年制化して開校した大学です(※現在は短期大学は閉学)。新県立大学は1年生は全寮制にしており、起業家コースと経営学コースについては、2年生になると全学部の学生が1カ月程度の海外留学を経験します。7カ国から選択できるのですが、とにかく早い時期に海外に行ってもらい、グローバルでの発信力を鍛えてもらうことを目的としています。

グローバルマネジメント学部(経営学部)には、起業家コースやソーシャルイノベーターコースのほかに公共経済コースがありますが、こちらは地方の官僚になる人向けです。

そして女性が中心の健康発達学部というものもあり、こちらでは管理栄養士と子ども学科があります。一番所帯が大きいのが経営学部で、全体で240名の学生の内、170名ほどが在籍しています。

中澤 特徴的なのは、それぞれの学部で学ぶ目標が明確化されている点ですね。

安藤 やはり企業側から見ると、日本の大学を出てくる学生よりも、海外の学生の方が最初からやりたいことが明快でアントレプレナー志向が強いのです。日本の場合、高等学校までは世界基準で見ても優秀な学生が多いのですが、大学に入ると遊び癖がついて勉強しなくなる学生が多いのです。そのため企業に入社しても、また最初からトレーニングをしなければならない。それでは世界に負けてしまいます。

中澤 ほかにも安藤さんは、長野県庁がサポートして昨年からスタートした「信州ITバレー構想」というプロジェクトに参画されています。

これは長野の地理的なメリットを生かして、快適な住環境の実現や、産学官でITビジネスの創出を促すエコシステムの構築を目指しているものだと聞いています。実際にはどのような活動をされているのですか。

安藤 長野には非常にユニークな会社が多いのですが、残念ながらソフトウェアが弱い側面もあります。こうした部分を人や情報を通じてサポートし、事業者の業績向上に寄与していくものです。今はパソコンさえあれば、どこに行っても仕事の生産性は変わらないわけですから、クオリティーライフとグッドワークを両立できます。さらに東京と比べてコストは圧倒的に低い。現在は首都圏を経由せずとも、地方から世界へダイレクトに発信できる環境があるわけですから。

中澤 この活動に参画している企業の中にグッドパッチという会社がありますね。この会社の社長はGoogleを長野に誘致するといった、面白い取り組みもしていますね。

安藤 この会社はソフトの開発を行っていますが、長野県出身の若い経営者のもと、ドイツやアメリカから人材を多く採用して事業を行っています。彼も私も同じ考えですが、これからは東京一極集中は日本をダメにすると思っています。今まさに、新型コロナウィルスでそれが露呈してしまっていますが、人材は地方に向けて動き出しています。

中澤 もはや海外から地方に人材が移ってくることも、当たり前になってくるかもしれませんね。

安藤 地方で事業をしていると、どうしても人材の格差が生まれてしまいます。だからこそ、海外から連れてきてしまう。信州ITバレー構想は長野県内の仕事だけをするということではなく、東京を含めた世界が相手です。優秀な方たちが地方で仕事をすることで、地方活性化を促し、東京一極集中を逆転させることができると思っています。

中澤 日本人を含めて、日本をもう一度活性化させる。そういう地方創生とイノベーションの両側面がありますね。

安藤 ほかにも、(一社)長野県経営者協会にも協力いただき、(一社)長野ITコラボレーションプラットフォーム(NICOLLAP)という組織を設立し、「善光寺駅前イノベーションタウンプロジェクト」(ZIT構想)というものも推進しています。これは善光寺の表参道周辺にお洒落なシェアオフィスやゲストハウスをたくさん作り、そこに日本のみならず、世界から若い起業家たちにどんどん来てもらったり、大企業にサテライトオフィスを作ってもらったりして、新しいソフト産業クラスターを立ち上げようというものです。

善光寺は毎年600万人ぐらいの方が訪れ、6年に1回のご開帳時には700万人ほどがいらっしゃいます。しかし参拝者は来るのですが、すぐに帰ってしまう。長野県は東京から新幹線で1時間25分で行ける場所にも関わらず、人が居つかない。ですからあんな良い所であるにも関わらず、どんどん老齢化しています。だからこそ、そこに人を呼び、賑わいを取り戻そうということで、長野市と共同で推進しています。企業はどこまで行っても、最後まで人材です。それを担う人材が長野から生まれてくれれば、日本も変わってくると思っています。