1964年5月10生まれ、岡山県倉敷市出身。倉敷工業高校・機械科を卒業後、日本電子工学院メカトロニクス科を卒業し、三井ミーハナイトメタル(株)岡崎工場に就職。2年間の鋳造実務を経験。その後1987年4月に秋岡鋳造所に戻り、製造課長、製造部長、工場長を経て2005年取締役副社長就任。2011年に秋岡貿易(大連)有限公司を設立し、董事長就任。2020年5月に株式会社アキオカ代表取締役社長就任。
創業からこれまでの事業変遷と貴社の強み
—— 創業からこれまでの事業変遷についてお聞かせください
秋岡 はい、創業は1966年ですが、その前に、私の父が母の実家の鋳物業を継ぎ、そこから独立して事業を始めました。ですから、会社の設立は1967年です。
父が立ち上げた当初は、岡山県倉敷市の観光地で鋳物の栓抜きや工芸品を作って販売していました。また、地場産業である農業機械の部品も手掛けていました。その後、ヤンマー社や三菱社といった大手企業の農業機械の部品を供給するようになり、事業は拡大しました。
—— 競合他社との違いはどのような点にあるのでしょうか?
秋岡 競合他社と異なる点は、昔ながらの鋳物作りの手法を今も大切にしていることです。個人事業時代からの技術も承継し、企業としての鋳物作りに活かしています。
—— 技術の伝承について、どのように取り組んでいるのでしょうか?
秋岡 技術の伝承は、文章化し、見える化することを心掛けています。ただし職人技術はお客様の要望に応えるために必要なもので、これを受け継ぐことは難しいので、実際に見て学び、経験して習得することが大切です。職人技術の伝承は、企業の中で少なくなってきていますが、我々は、変わらなければならない習慣や工法と残すべき技術や習慣を認識した伝承に取り組んでいます。
承継の経緯と当時の心意気
—— 事業を承継された際に大事にしていたポイントはございますか?
秋岡 個人事業から始まった製造中小企業はものづくりに専任してしまうことが多く、当社も最初は個人規模でのものづくりに専念していました。しかし、企業として成長するためには、ものづくりだけでなく、ことづくりや仕組み作りも重要になってきます。つまり、ある程度の企業規模と利益を求めるなら、職人気質だけでやっていくのではなく、企業としての骨格や仕組み作りが不可欠になるため、私が承継した際は属人性の排除や組織構築に注力しました。
—— 承継の際に社内でご苦労したことはありましたか?
秋岡 私の先代である兄は設備づくりに長けた人物でした。ただ、当時の当社は鋳物製造が得意な職人たちが多くいたため、職人たちはより自分達を理解してくれていた父のやり方を支持していました。そのため工場内には、「前のやり方はこうだった、昔の方が良かった」という声も多くありました。そのため、鋳造の原理原則を踏まえた工程と、新たな技術や工法を取り入れ、アキオカの特性・特色を活かす事を考慮した結果、私が兄に代表交代を提案して承継し、原点である鋳物製造にたちかえる経営を行いました。
また、兄が社長をしていたころ、私は国内だけでなく海外での鋳物作りに注力していました。国内の工場でも製造を続けつつ、海外調達を進めることで業績を伸ばしました。両方に全力を注ぐのは難しかったですが、海外事業が軌道に乗ったこともあって、兄に交代を提案しました。 以前から可能な限り工場での滞在時間を確保し、工場内の視察やコミュニケーションを図る事が好きだったので、比較的スムーズに進められたと思います。
ぶつかった壁やその乗り越え方
—— 会社経営において、困難に直面したことやその乗り越え方についてお聞かせください。
秋岡 私はあまり困難を困難と感じない性格です。ただ、最近の市況は非常に変化が早いと感じています。20年前、創業者から2代目である兄に代表が代わった頃は、昔のやり方をそのまま踏襲していれば良いという時代でした。しかし、ここ5年から10年、特にコロナ以降は、変化のスピードが加速しています。
そのため、決められた方法や計画をそのまま進めていると、途中でうまくいかなくなることが多くなっています。計画は重要ですが、実行しながら必要に応じて変更する柔軟性が求められます。決めたことに固執していると、結果が出にくくなることもあります。今一番の課題は、時代の流れが速く、常に変化する情報や環境をアップデートしながら進める事に苦労しています。
—— そうした時代の変化に対応するために、どのような工夫をされていますか?
秋岡 工夫というよりも、私一人の時間には限りがありますので、同じ進め方や考え方で時間を費やしてくれる人を集めることが必要です。同じ方向を向いていれば、異なる考え方でも良い結果が生まれると信じています。人がキーワードになると思いますので、可能性のある人を集め、それぞれの可能性を伸ばす事の出来る環境整備が大切だと考えています。
今後の新規事業や既存事業の拡大プラン
—— 今後の中長期的なビジョンについてお聞かせください。特に、新規事業の展望や既存事業の拡大についてどのように考えていらっしゃいますか?
秋岡 この業界でよくお客様が困っていることは、鋳造工程はブラックボックス化されているために、バイヤーの専門家も減少していることです。以前は大手の工場に鋳造工場があり、専門家が多くいましたが、今はそのような環境が失われつつあります。そこで、弊社としては鋳造に関する知識を活かして、鋳造業だけでなく、新たな方面でも事業を展開していきたいと考えています。
また、日本では鋳造工場が減少しており、小規模な家内工業も廃業の危機にあります。しかし、国外には多くの鋳造工場があり、当社工場に類似した工場やまったく異なる工場と提携・協業し日本のお客様の要望に応える製品を提供できるようにしたいと考えています。
—— 海外との提携や連携は、今後の大きなテーマになりそうですね。海外の企業とどのように関係を築いていくことが重要だと考えていますか?
秋岡 外国人でも同じ人です。最終的には真摯に話し合えるかどうかにかかっています。相手が嘘をついている場合、その背景を理解し、なぜそうしなければならないのかを考えることが大切です。もし技術不足や知識不足が原因であれば、我々が支援し、一緒に事業を成功させることができます。実際に中国のメーカーと協力し、彼らの工場は規模が何倍にもなっています。結果として彼らは、目先の損得だけでなく、継続した協業が行える、良好な関係を今も続いています。
—— 信頼関係が重要ですね。日本国内の企業との連携についてはどうお考えですか?特に、廃業を考えている企業との関係についてお聞かせください。
秋岡 技術を持っている企業と一緒になることは合理的です。しかし、技術を持った方が引退してしまうと、その価値を引き継ぐことができません。M&Aや連携を考える際には、技術やノウハウが残っていたり、最新鋭のシステムが芽生えていたりすることを重要視しています。
メディアユーザーへ一言
—— 経営者を中心とするこの記事の読者の方へ一言メッセージをお願いいたします。
秋岡 我々の先輩方、特に私の父の世代が戦後の日本を作り上げてくれたと思っています。その時代、日本は国際競争の中で輝いていました。しかし、今では世界のトップ10に入れない分野が増えてきています。日本が再び競争力を取り戻し、30年40年前のように輝くためには、変わるべきものは変えていかなければなりません。
一方で、日本人としての考え方や文化、習慣は大切にしなければならないこともあります。例えば海外に出てみると、日本人ならこんなことはしないだろう、ということがたくさんあります。日本人の義理や人情、文化、習慣をしっかりと守りながら、変えるべきところは変えていく。そして、30年40年前のように、様々な分野の半分くらいが世界のトップ3に入っているような日本を一緒に作っていきたいと思います。
—— ありがとうございます。非常に興味深いお話でした。
- 氏名
- 秋岡 正之(あきおか まさゆき)
- 会社名
- 株式会社アキオカ
- 役職
- 代表取締役