企業価値を高めていくためには付加価値を生み出す人材が欠かせない。人的資本経営を推進する企業では独自の人材投資が本格化しており、人事スタッフには経営戦略と人材戦略を連動させるための役割も求められている。(取材・執筆・編集:日本人材ニュース編集部)
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自社の方向性や価値基準に沿って必要な人材を確保
2023年3月期決算から上場企業に人的資本情報の開示が義務化され、人的資本経営の具体的な取り組みが公表されるようになった。
建設関連会社の人事担当役員は「人への投資という観点では、以前は投資家には人件費はコストとしか見られていなかったが、人への投資がプラスと評価されることは良いこと。投資家にどんな投資をしているかと聞かれたらアピールできるし、人材育成を重視する企業にとってはフォローの風と言える」と話す。
情報開示を前向きに捉える企業では、自社の取り組みに対して広くフィードバックを得て、人材の価値を高めるための施策を強化している。
開示が義務付けられている項目にとどまらず、独自の取り組みや指標を開示する企業も少なくない。これまでの人事システムでは情報を一元管理したり各種データを容易に収集できないため、新たなシステムを導入する動きも活発だ。
まずは自社の現状を適切に把握することからスタートするが、さまざまな情報を収集・分析できるようになったことによって、それぞれの施策が人材の価値を高めるために本当に役立っているのかが、データに基づいてより一層問われるようになっている。
大手研修会社インソースグループで企業の人的資本経営を支援するインソースコンサルティング執行役員の帰山智幸氏は、最近の企業からの相談内容について次のように話す。
「社員のスキルを可視化して自社の人材要件に照らし合わせるためにアセスメントのニーズが伸びており、『一般的なアセスメントでは物足りないので自社に合うアセスメントを作りたい』という相談が増えています。こうした独自性を求める傾向は、人材要件、教育体系、評価制度の見直しなどの相談でも共通しています。人的資本情報の開示項目にも各社の個性が見られますが、自社の方向性や価値基準に沿って必要な人材を確保していきたいという意識が強くなっています」
人材要件や成長の可能性を丁寧に伝えて離職を防ぐ
アセスメントサービスのニーズが伸びている背景について、同社執行役員の百瀬康倫氏は企業から離職防止の相談が多くなっていることを挙げ、人事部長として多くの社員と面談してきた経験を踏まえて、次のような見方を示す。
「特に若手社員は転職にネガティブなイメージがなく、今の仕事に不満がなくても、もっと自分に合う会社があるのではないかと考えています。転職エージェントに登録すればキラキラした求人をたくさん見せられますが、一方で、今の会社にいるメリットは何か、どのように成長できるかなどを分かっている社員は多くありません。こうした現状を考えると、自社の人材要件や成長できる可能性を社員に対して丁寧に伝えることがより大切になっています。会社はどんな人材を求めているか、各年代や役職で身につけてほしいスキルなどを可視化し発信すれば、社員は自社でのキャリアや得られる収入などが分かりやすくなります」
実際に大手転職サービス「doda」に登録した2023年の新社会人は、調査を開始した2011年の約30倍に達している。「doda」を運営するパーソルキャリアは「不確実性が高まり続ける現代社会において、自身の『はたらく』将来に不安を抱くようになりました。結果、転職・副業などを通じ、自己成長やスキルアップを図り、自らの市場価値を高めることを強く意識するようになっています」と分析している。
これまでも「人材が大事だ」と公言する企業は少なくなかったが、一人一人の能力やスキルを確認しながら支援していくことが十分だったとは言えず、社員もスキルアップやキャリアを会社に任せきりだった面が否めない。アセスメントを上手く活用すれば、企業と社員が仕事の成果や働き方に対して、より真剣に向き合う契機になる。
社員のスキルを可視化し、人材投資の効果を高める
●インソース「管理職育成に活用できるアセスメントサービス一覧」
最近は初任給の見直しやオンボーディング施策の充実などが大きく報じられているが、一方で職場のリーダーとして活躍が期待される中堅社員への支援も欠かせない。「多くの企業は1~3年目ぐらいの社員は手厚く教育しますが、中堅層へのサポートが後回しになりがちで離職の可能性を高めています。中堅層がスキルアップできる機会を充実させることも必要です」(帰山氏)
リスキリングの「実践の場」を求める企業が増加
人材投資の一つとして、社員のリスキリングに力を入れる企業も増えている。コロナ禍でオンライン学習の多様なコンテンツが社員に提供されるようになったが、一方でオンラインや座学だけでは得られない機会を検討する企業も出てきている。
大手企業に対してリスキリングプログラムを提供している、みらいワークス事業開発チームの岩田央子氏は、企業の取り組みの狙いについて次のように話す。
「座学やインプット中心の研修では現場で生かせないという課題を解決するために『実践の場』を希望する人事担当者が多くなっています。また、キャリア自律やキャリアオーナーシップを持つ社員を増やしたい企業では、副業や越境学習の仕組みを用意して実践の場を希望する社員の声に応えようとしています。例えば、NTT東日本様は、副業を社員の成長やキャリア自律につながるものとして位置づけ、副業案件へ平易に応募できるプラットフォームを設けることで、社員の副業を後押しされています」
みらいワークスは、副業を推進する企業の人事担当者が、社員の求人応募や実践状況を把握できるように副業プラットフォーム「Skill Shift」を提供している。副業や出向などの施策を人材戦略の中でどう位置付けるかや、社内外にどのようなメッセージで発信するかなどに悩む企業も少なくないという。
「全社的に副業を推進したり他社で長期間仕事をしてもらうのは、まだハードルが高いと考える企業がほとんどです。そのため、まずは1泊2日の合宿などで自社と異なる事業環境の課題を考えたり、他社の社員と刺激し合える『実践の場』を体験できる機会の提供からスタートする企業が増えています。ミドル・シニア層のリスキリング、次世代リーダー候補の武者修行など各社の目的はさまざまですが、一部の限られた社員のみが参加するプログラムよりも、多くの社員に参加をしてもらう実践の場を提供する仕組みを目指す企業が出てきています」(岩田氏)
自社と異なる課題を考えたり、他社交流の機会を得る
●みらいワークスが支援する「短期実践体験」の事例
ハラスメントを防ぎ、心理的安全性の高い職場づくり
人的資本を重視する企業では、肉体的、精神的、社会的にすべてが満たされた状態を指す「ウェルビーイング」の考え方を取り入れる動きも見られる。多様な働き方が広がる中で、企業と働く人の関係性の変化を踏まえた人材戦略の見直しが求められているからだ。
ウェルビーイング経営を支援するピースマインドの荻原英人社長は、最近の企業からの相談内容について、「『ハラサー(ハラスメントをする人)』を放置していると大きなリスクになるため、ハラスメントの問題を自分事と理解して行動を変えてもらうためのコーチングの依頼が最近は増えています。また、ハラスメント手前の事象は多くの職場で起きており、生産性の悪化や社員の離職を防ぐために予防施策を強化したいという相談が業種を問わず多くなっています」と説明する。
パワハラ対策義務化などで相談窓口を設けたりハラスメント防止研修を実施する企業は増えているものの「なかなかハラスメント問題が減らない」「管理職がリスクを恐れて部下との密なコミュニケーションを避けてしまっている」といった課題を感じている企業で導入されて好評を得ているのが同社の「リスペクト・トレーニング」だ。
動画配信サービスのNetflixが開発したワークショップ型のトレーニングで、同じ職場で働くメンバーが相互にリスペクトのフィルターを通して接する思考の筋力を鍛えることによって心理的安全性が高まり、誰もが安心して能力を発揮できる職場環境づくりにつなげる。
「リスペクト・トレーニングや、インシビリティ(礼節の欠如)から考える“ギスギス職場”の風土改革などの取り組みは、会社が何を大切にしているか、どのような職場にしたいかを社内に浸透させられるポジティブなアプローチです。経営層が職場の実情を理解して会社を良くしていきたいという方針を明確に示し、社内外にメッセージを発信していくという考え方は、人的資本経営時代のリーダーに求められるスキルと言えるでしょう」(荻原氏)
さまざまな能力開発を行って人材の価値を高めても、その能力を最大限発揮できる環境がなければ全く意味がない。社員が生き生きと働くことができる職場環境づくりを支援していくことは経営者や人事部門の大きな役割となっている。
●ピースマインド「リスペクト・トレーニング」の導入メリット・特長、導入企業の声
新たな戦略の実現には新たな「組織能力」が必要
人的資本経営の推進に向けて各社で施策が進んでいるが、人材投資が企業価値向上にどのようにつながっているのかについての説明や検証がより問われてくる。
大手企業の人材開発・組織開発を支援するインヴィニオの土井哲代表は、最近の企業の取り組みについて、「企業が大きくなるほど、経営者の方針を経営企画部門が各部門に伝え、現場が数字を報告してすり合わせているだけということが起こりがちです。人的資本経営の取り組みも個別の施策が先行し、資料に方針や数字は書いてあっても、競争優位を確立するための経営戦略と人材戦略の連動がよく分からないというものになっていないでしょうか」と懸念を示し、経営戦略と人材戦略を連動させるためには、戦略の実現に必要な「組織能力」を特定することが欠かせないと訴える。
同社は、経営陣・事業責任者とともに「競合との差異化を生み出す戦略」を明確化にした上で、「それを支える組織の6つの要素(業務プロセス、構造とガバナンス、情報と測定基準、人財と報酬、継続的改善の仕掛け、リーダーシップと組織文化)」の設計に現場のリーダーを巻き込んで、変革の実行と定着を支援している。
「先日、『今後、この事業はどうやって勝っていくのかという議論が足りない』という課題意識を持つ大手商社のある事業本部長からワークショップの依頼を受けました。こうした議論の機会がなければ、新しい戦略は作れず、必要な組織能力も特定できません。つまり必要な人材の要件も決まらないということです。今の組織能力は過去の戦略に沿って蓄積されたもので、新たな戦略の実現には新たな組織能力が必要になります」と強調する。
組織能力の特定が経営戦略と人材戦略の溝を埋める
●経営戦略と人材戦略の連動に向けた課題
HRBPを育成するためのトレーニングを用意
そして、人的資本経営を推進していく上でHRBP(HRビジネスパートナー)の役割が増し、人事スタッフには新しいスキルが求められると土井氏は話す。
「パーパス、ミッション・ビジョン設定や戦略構築に関わり、組織能力や人材要件の定義に至るまでをファシリテートできる能力を高める必要があります。HRBPを配置する企業も出てきましたが、戦略の議論に関わることに躊躇している人が多いようです。その大きな理由はスキル不足ですので、必要なトレーニングを用意すれば能力を高められます。部門を超えたローテーションがある日本企業には、事業部経験を持つ人事スタッフが比較的多くいますので優れたHRBPに育つ可能性があります。先ほど紹介した大手商社のワークショップでも人事スタッフを同席させて、私のファシリテーションを見学させることでHRBPを育成していきたいという狙いもうかがえました」
経済学的アプローチで人的資本について研究する小野浩一橋ビジネススクール教授は、失われた30年の日本企業の行動ついて、流動性が低い労働市場や賃金調整の難しさなどが背景となって「必要以上の労働者を抱え込んだ企業は、一気に保守的になり、経費削減に舵を切った。人材はコストであるという捉え方が強まり、人材に投資するという発想は失せた」と指摘する。
少子高齢化が加速し、人材を奪い合う時代に突入している中で、人材の価値を重視する人的資本経営の推進は各社の生き残りをかけたものとなる。魅力的な仕事や職場、キャリアアップの機会などを提示して人材に投資する企業と、人材に投資しない企業との企業価値の格差は広がっていくだろう。