話題作『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)の著者が、“車と旅”の海外版について語る新連載エッセイ。
“楽園を探す海外放浪夫婦が、中古の軽自動車を買って北海道から南アフリカへ。
警察官の賄賂を断ってジャングルに連れ込まれ、国境の地雷地帯で怯え、貧民街に迷い込み、独裁国家、未承認国、悪の枢軸国、誰も知らないような小さな国々へ。
南アフリカ・ケープ半島の突端「喜望峰」で折り返して日本に戻ってくる予定が……。”
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【第2話】絶対に“おもてなさない”ロシア・サハリン島
ロシア・サハリン島には、名だたる観光地はない。
モロッコのようにエキゾチックな旧市街はないし、ネパールのように登ってヨシ、眺めてヨシの山もない。妖しくきらめく碧い洞窟も奇妙な建造物もない。さらに言うと、商売っ気もサービス精神も「おもてなし」もない。
でも、ないないづくしの中に「ソ連っぽいなあ」がある。この「ソ連っぽいなあ」はいまや貴重な異国情緒となりつつあるので、じっくりと味わいたい。
というのも、スクーターでバルト三国を走ったことがあるが、2009年にしてすでにソ連の面影はなかった。ひどい人なんか、道でちょっと目があっただけだというのに、
「ようこそ、エストニアへ」「ま、飲んでってよ!」とワインを一本くれた。
一市民による怖いくらいの歓迎ぶり。OMOTENASHI JAPANでもありえないくらい、もてなしてくれた。
ベトナムという社会主義な共和国にしても、初対面で「ウェルカム マイ フレンド!」と両手を広げて歓迎してくれる。「友達、あれはどうだ? これはどうだ?」「親友、あれ食うか? これ食うか?」と休みなくサービスを繰り出し、財布を閉じる暇がないのだ。
そこへいくとサハリン島はシベリアの奥の奥、極東の最果て。ソ連が崩壊して30年以上経つというのに、いまだ初心を忘れていないようである。
絶対に、“おもてなさない”。
サービス精神は、ツンドラのように冷たい
よくわからないが、ソ連っぽいミラクルだ
サハリン島きっての大都会ユジノサハリンスクで、竹箒で掃除している女性と目が合った。しんなりと上品なご婦人だったもので、ふと、道を尋ねてみようかと思いたった。ふれあいがほしくなったのだ。
ところが「Excuse me」と、声をかけたその言葉のアルファベット4つ目の“U”を発音し切っていないというのに、握りっぺを嗅がされたスカンク顔に変身し、「シッシッ!」と迷惑そうに手を振った。
追い払うときはロシア語でもシッシッと言うのか——、と感心している場合ではない。
ち、違うんです、「スーパーマーケットはどこですか?」と、訊こうをしただけなんです、と思わず日本語で言いかけた「ち、ちが……」の音すら聞かずに逃げ出した老婆。
「ヨソモンとは1秒だって話さねーぞ、オレは」という毅然とした背中。すごい婆さんがいるものです。
バ○アの後ろ姿を見送りながら、年寄りだから敵国語の英語は苦手なんだろうと慮(おもんばか)ったが、若い人もさぼど変わらなかった。
ホテルのレセプションで、「今夜ふたり泊まり……」と英語で言いかけただけで、
No!
「部屋はありま……」
No!!!
有無を言わせぬ拒絶。レセプションの娘さんは、パソコンを覗いて部屋の予約状況を調べるそぶりもなく、スカンク顔した鉄の壁だった。
しかたないからホテルの外に出て、英語を話せる地元民を見つけ出し、ホテルに電話をしてもらった。普通に部屋が取れた。空室があっても泊めないとは、不思議な商売である。
不思議といえば、スーパーマーケットで買ったひとつ50ルーブル(97円)のインスタントラーメン。あとでレシートを見たら、100ルーブル(194円)に化けていた。後日、別のお店で買った98ルーブル(181円)のカップラーメンもまた、レジを通したらきっちりに2倍になっていた。
ミラクルである。よくわからないが、実にソ連っぽいような気がする。
お嬢様、花を摘みに行きましょう
おもてなさない精神がよく表れているのは、トイレだ。するなら来るな! と言わんばかりに、拝借できそうなトイレはない。
雑居ビルの駐車場で車中泊した翌朝、眉をひそめて鼻息が荒い妻のYuko。「トイレを探したまえ」という顔だ。Yuko、周囲にはいくらでも薮や森がある。好きな木の下で花を摘んだらよかろう。ボクはすでに雉を撃ったことだし。
……と書きながら思ったのだが、今どきの若い読者は“花を摘む”とか“雉を討つ”と言われても意味がわからないのではないか。用を足す様子が、花を摘んだり、雉を撃つ姿に似ているからついた、隠語である。
だから誰か娘さんが、ちょっと花を摘んでくるねーと森に消えたときは、尾行すると変態扱いされるので注意したほうがいい。なるほど、そういう意味だったんだと頷いている50ン歳のYukoは、あろうことかトイレだけはお嬢様育ちである。藪や森で花を摘む気はさらさらないらしい。
どこかでトイレを借りられないものかとあたりを見渡したが、なにせ僻地の集落。食堂もガソリンスタンドもない。なんだかわからない店舗はシャッターが降りていた。
数件先に普通の民家があった。頼れるとしたら、あの家しかない。ぜひ、トイレを借りたい。でも知っているロシア語は3つしかない。シモに関わる繊細な案件だから、言葉よりジャスチャーの方が無難だろうと考えた。
まず、ドアをノックする。誰かが出てくるだろう。なんだぁ、あんた?って顔をされるだろう。そこでまず、「ズトラストビーチェ(こんにちは)」と笑顔で挨拶をする。
一拍おいて(この“間”が大切だ)、いいですか、よく見ててくださいよっと目で語り、やおらズボンのファスナをおろして如意棒を引っ張り出す……、フリをする。間違って本物を出しさえしなければ、快くトイレに案内してくれるだろう。
だが、Yukoは女性だ。作法が違う。玄関先で、挨拶以外にナニも話さず、にやにや笑いながらスカートを脱いでしゃがみだす50ン歳のおばさんがいたら……、どうです?
普通の人なら、見なかったことにしてドアを閉ざすに違いない。
その場に取り残されたYukoを思うと不憫なので、たいへん面倒くさいけれど、車でトイレを探す旅に出た。が、そう簡単には見つからないのが、ソ連っぽさが残るサハリン島だ。
刻一刻と、「ああ」、「ああ…」、「ああ……」、切なげにもじもじするYukoが鬱陶しくなったころ、迷い込んだ路地が建築現場の事務所に行き着いた。よく見たら、鉄道駅だった。
「駅だ。絶対にトイレがあるよ」
駐車場に車を停めるやいなや、間髪入れずに陸上部並みの猛ダッシュをかますかと思いきや、さすがトイレだけはお嬢様。「電車はそろそろかしら?」風味のゆとりをふりまきながら、膝から下で小走りしてゆく。
地図アプリによると、ここはサハリン鉄道のノグリキ駅である。
サハリン鉄道といえば、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の着想を得たのではなかったか。観光地には興味はないが、賢治さんが座った便器となると話は別だ。もはや単なる白い陶器とは呼べないであろう。
しからば拙者も一献傾けさせていただこう。Yukoに続いて、ご相伴に預かったのである。
賢治さんがひと仕事した玉座かと思えば、ウンが付くこと請け合いである。幸運のノグリキ駅は、わが家だけの秘密の観光地「マイ秘境」として、永遠に記憶されることとなったのだった。
人類の基本に立ち返ることにした
サハリン島をドライブして10日。何かと心許ない軽自動車ではあるが、すこぶる元気に走っている。
齢10万kmを超えている中古車とはいえ、ナニひとつ問題がない。そろそろユーラシア大陸の本土に渡らねばなるまい……。行かねばなるまいか、本当に行っていいのだろうか、こんな車で。軽自動車ですよ、これ? わかってます? 誰か止めて!くらいの心持ちでフェリーのチケット売り場を訪ねた。
例によって、窓口のおばさんは、「How are you?」すら受け付けない英語音痴だが、「ワニノ港まで。大人ふたり、ものすごく小さい車一台。なるはやで」と伝えなければならない。
総額で2万円以上すると思われるので、語彙の少ないロシア語や、感性に左右されるジェスチャーに頼らない方が賢明である。聞いたことのない絶海の島に、ボクだけ連れて行かれてはたまらない。
そこで、人類の基本に立ち返ることにした。
絵文字を使うのだ。そのときに描いた絵文字を見ていただきたい。
英語が間違っていると思われるかもしれないが、到着地の「ワニノ」を表すキリル文字である。絵文字を手渡された窓口のお姉さんは一瞬怯んだが、すぐに書類作りにかかってくれた。“車と旅”の海外版は、画力がモノを言うのである。
ここでひとつ、自分の車で海外を走りたい人にアドバイスを。
フェリーや国境では車検証を求められる。日本の車検証は情報が少ないので、英語で“Car Passport”なる書類を自作すると、手続きがスムーズになる。
メーカー名、車種名、ナンバー(プレート、エンジン、シャシーの3種類)、縦横高さの寸法、重さ、色、座席数、パスポートナンバー、住所、電話番号、意外なことに父親の名前も役に立つ。
賞状のようなデザインを施せば、車検証より重宝される。
翌朝、8時にチェックインさせられた。そのままひと言のエクスキューズもなく10時間も待たされたが、車一台と大人ふたり、無事に船に乗ることができた。
とんでもないものを見つけてしまった
間宮海峡を越えて、ユーラシア大陸の本土に渡った。とうとう来てしまった。もう進むしかない。目指すは、アフリカ大陸へのフェリーが出ているスペイン。大雑把に地図を見れば、一直線だ。
250年以上前に大黒屋光太夫が歩いたんだから、軽自動車にできないことはないだろう。ハンドルを優しく撫ぜ、君だけが頼りなんだ、カラダに気をつけて頑張ってね、と祈りながらゆっくりと走り出した。
出口があるようには見えない森が、果てしなく広がる。
快調だ。この調子で進めば遠からずスペインに着く。案外、ユーラシア大陸もたいしたことはないのだ。サグラダファミリアの蜃気楼を目に浮かべてハンドルを握っていたら、とんでもないものを見つけてしまった。
エンジン警告灯が点いていた。
「ど、どうしたの?」
ユーラシア大陸横断ドライブは、初日にしてピンチである。(了)
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『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)
2023年1月19日発売。海外車中泊旅で起こる数々の事件を、軽妙洒脱な文章で綴った旅の記録。
リモートワークをしながら世界中を旅する夫婦が、楽園(移住先)を探すため、日本で買った軽自動車で南アフリカに向かうも…。