近い将来に企業の人的資本の情報を有価証券報告書に記載することが義務化される。そのため、企業にとって従業員エンゲージメントが経営戦略の重要なテーマの一つとなり、多くの企業が人的資本経営に向けた取り組みを開始している。投資家や企業から注目されている「人的資本経営」について、創業以来、まさに「人・組織」の分野で多くの企業の課題解決を支えてきたリンクアンドモチベーションの川内氏に企業が取り組むべき人的資本経営についてお話をうかがった。
▽お話をお聞きした人
常務執行役員 川内 正直
人的資本の情報開示で企業はどう変化するのか
―リンクアンドモチベーションの事業内容についてご紹介ください。
当社は2000年に創業しました。企業の競争優位の源泉である人材のモチベーションにフォーカスしたい、個人のモチベーションを組織の全体戦略に「リンク」させたい、人と人との“間”に生じる様々な問題を解決していきたいといった想いを込めて「リンクアンドモチベーション」という社名にしています。
事業としては創業以来、組織人事のコンサルティングを手掛けています。2016年には、それまでに培ってきたノウハウをクラウドシステムに搭載した「モチベーションクラウド」というサービスもスタートさせました。コンサルティング、クラウドサービスによって、企業の「人的資本経営」をワンストップで支援しています。
また、リンクアンドモチベーショングループ全体としては、企業の組織開発だけでなく、個人のキャリア開発や、人材紹介など企業と個人のマッチングも支援しています。
―リンクアンドモチベーションでは「人的資本」についてどのように定義されていますか?
以前の考え方では、人材=「資源」でした。モノをつくる時に材料が必要なのと同じように、生産のための「コスト」であり、原価管理の対象だったのです。これに対し、「資本」は投資の対象であり、価値が伸び縮みするものです。目的を持って投資することで、後から大きなリターンを得られるかもしれないということですね。つまり「人的資本」とは、新たな価値を生み出す投資対象として、人材を「資本」と捉える考え方です。
―「人的資本経営」を取り入れるメリットを教えてください。
人や組織が競争優位の源泉になる経営スタイルが「人的資本経営」だと思います。企業は商品市場で消費者から、労働市場で求職者や従業員から、資本市場で投資家から選ばれなければなりません。
経営者はどうすれば商品やサービスが売れるのか、つまり商品市場で選ばれるのかに最も関心があると思います。昨今の商品市場の特徴として「ソフト化」と「短サイクル化」が挙げられるでしょう。
以前は、大きな資本やインフラを持っている企業が強かったのですが、今はどの産業においても価値の源泉がソフト化しています。このソフトを生み出していくのは人です。
また、以前であれば、ヒット商品を生み出した企業は、一定期間そのメリットを享受できましたが、今はその期間が短くなっています。これが「短サイクル化」です。だとすると、企業には次々と新しいものを生み出していくことが求められます。新しいものを生み出していくのは誰かと言えば、やはり人であるという結論になります。
消費者の方から選ばれるサービスや新しい価値を生み出し続けるためには、人・組織が重要となっているのです。そのため、資本市場においても投資家から「人的資本」が注目されるようになりました。企業に対しての人的資本開示の要請は年々強くなっています。「人的資本」がしっかりしていれば、投資家から将来性を評価され、資金が集まりやくなるでしょう。
―2023年内に適用が開始される予定の「人的資本の項目開示義務化」によって何がどう変わると見込まれていますか?
これまでIR情報開示する際に、人的資本をアピールしたい企業は自主的に人的資本にまつわる情報を入れていました。しかし今後は、人的資本情報を有価証券報告書に記載することを義務付ける方針が示されているので、上場企業は必ず開示する必要があります。そうなれば、上場していない企業も徐々に開示が求められていくことが想定されます。これからは、情報がどんどんオープンになり、企業にとって「隠せない時代」になっていくと思います。
また、当社の連結子会社のサービスである「OpenWork」では、「社員クチコミ」という形で社員の「生の声」を見ることができます。こういったサービスを使うことは、もはや転職者や就活生の間で当たり前になってきているのです。そういった世の中で、10社中9社が情報を出していて1社だけ出していないと「出せない理由があるのではないか」と憶測を招くことになるでしょう。
隠せない世の中では、現状が完璧でなかったとしても、愚直に取り組んでいる企業が評価されるようになっていくと思います。逆に、真剣に向き合わなくては労働市場、つまり従業員や求職者から選ばれなくなり、人や組織を維持していくこと自体が難しくなるでしょう。ルールだからやる、というよりも、持続的な組織の成長、ひいては企業の成長のために開示していくことが求められるのです。
経営者がどこに経営資源を投下し、どんな未来を作っていくのかを真剣に考えている企業は、人的資本に対しても鋭く効果的な投資をし、大きなリターンを得て、どんどん成長していくと思います。
人的資本経営によって生まれるポジティブなパワー
―現場と人事で「非財務資本への取り組みに対する満足度のズレ」があるとのことですが、どんなズレが起きているのでしょうか?
当社が実施した「大手企業管理職の非財務資本に関する意識調査」では、人的資本を含む「非財務資本への取り組みにおける満足度」として「非常に満足」「満足」と高評価を選択した割合は、人事系部門以外の管理職が29%、人事系部門の管理職では50%以上となりました。ここから、現場と人事の認識のズレが存在することがわかります。
人事部の方は何かを企画してアクションを起こす側のため、満足度が高く出る傾向にあります。しかし、数字責任を負っていらっしゃる現場の方々は、アクションを起こしたことよりも、そこからどれだけの変化や効果があったのかを気にされています。実際に変化や効果を感じないと「何をやっているのかわからない」と思うのも当然でしょう。
経営者や人事からトップダウンで「これをやります」だけ伝えても、社員の理解を得られることはありません。どんな組織戦略に基づいて、どんな施策を実行し、どんな結果が得られたのか、そしてその結果に対して今後どのように改善していくのかといった、組織のPDCAサイクルを可視化して示さなくては、社員に伝わりません。
会社としてやろうとしていることを全社員が認識し、その取り組みが意味のあるものであると納得して進めていけるかが重要になります。そのためには、経営者や人事から積極的に社内に発信していくことが必要です。
―ズレをなくして「人的資本」への取り組みを機能させるためのポイントはありますか?
ポイントは「従業員エンゲージメント」です。当社では、企業と従業員の「相互理解」や「相思相愛度合い」と定義しています。企業と従業員の間の結びつきの強さとイメージしていただけると、理解しやすいでしょう。従業員の企業に対する共感度合い、転じて愛着心や仕事への情熱の度合いを示すとも言えます。
従業員エンゲージメントが高まると、労働生産性の向上・営業利益率の向上・退職率の低下・顧客満足度の向上など、企業にとって様々な好影響があることがわかっています。具体的に言えば、この会社で世の中に楽しいことを仕掛けていきたい、新しい価値を創出していきたい、もしくはこの事業を大きくしていきたいという人が増えていきます。そういった前向きでポジティブなパワーが生まれてくるのです。
当社はこれまでに1万社以上の従業員エンゲージメントに関するデータを集め、「エンゲージメントスコア」という指標で算出してきました。これは、組織の状態を偏差値的に表した数字です。50が平均で、数字が大きいほど好ましい状態、小さいとそうではない状態となります。
従業員エンゲージメントの違いによる、取り組みの違いをイメージしていただくために例をお伝えします。実際にある企業で起きた話です。社長から福利厚生でマッサージチケットを社員に配られた会社がありました。エンゲージメントが高い部署からは感謝の声がたくさん届いたのですが、エンゲージメントが低い部署からは「もっと働けということですか?」とネガティブな反応があったのです。
他にも、オープンな組織風土を作りたいと思い、他社の施策を真似てピザパーティーを開催したものの、愚痴大会の様相を呈し、全く望まない結果になったという例もあります。
これらの例は、やり方が悪かったというより、そのエンゲージメント状態の時にやるべき施策ではなかったということなのです。仮にエンゲージメントが高い企業であれば、ポジティブなパワーに溢れているため、ピザパーティーでも「もっとこうしたらいいんじゃないか」と前向きで活発な議論が行われたでしょう。
エンゲージメントスコアが30くらいの、平均から比べてかなり低い企業では、経営陣が自分たちのことを考えてくれているのか、この仕事をしていて私は成長できるのか、といった相互不信が生まれています。まずこの状態では、いかに信頼関係を取り戻すかがポイントになります。
強調したいのは、同じ組織課題を抱えていたとしても、組織のエンゲージメント状態によって有効な打ち手は全く異なるということです。
エンゲージメントを改善するためには、過信せず、一方で卑下もすることなく、フラットに現状を認識し、適切な対策を施していく必要があります。逆に言うと、状態を見誤ったうえで手を打つとズレが発生し、悪化が加速してしまいます。改善するため、そして悪化させないためにも、エンゲージメント状態を把握したうえで手を打つことが大切です。
当社では、このように現状を把握する「診断」、改善策を立案し実行する「変革」、取り組みの進捗や方針を社内外に公表し、企業価値向上につなげる「公表」、この3つのサイクルを回すことが人的資本経営の実現に向けて重要であると考えています。
―では、人的資本経営を実践している企業の実例があれば教えてください。
大阪を中心にスーパーマーケットを展開している佐竹食品グループ様をご紹介します。エンゲージメントスコアが高い企業を毎年表彰している「ベストモチベーションカンパニーアワード」で5年連続1位となり、殿堂入りされた企業です。過去この企業では従業員が増えてくると同時に、考え方や商売のやり方など、いろいろなところでズレが出てくるようになっていました。そこで、そういったズレをなくし、パートタイマーの方も含めた従業員をまとめていくための指針として「日本一楽しいスーパー」という理念を掲げて取り組まれています。
パートタイマーの方を含めた従業員の方々と、我々はこういうことを大事にしていきたい、こういうことに楽しさや喜びを感じる、だからこういう販売や接客をしていきたいというのを、コミュニケーションを取りながら推進されています。
また全店舗を1日だけ休業し、全社員を集めての社員総会を実施し、理念の共有をすることもありました。当然、その日の営業はストップしますし、売上も出ません。パートタイマーの方にも来ていただくので、時給や経費も発生します。それでも実施したほうが未来につながるはずだと考え、全従業員との理念共有に投資をしました。その結果、社員総会を実施した月は通常より1日営業日が少ないにもかかわらず、過去最高益を記録し、その後も順調に売上を伸ばされています。これは「人的資本経営」というには短期的な例ですが、人や組織は投資するに値することを示す好例と言えるでしょう。
―今後、日本企業はどう変化し、そこにどう貢献していきたいと考えているかを教えてください。
人的資本経営がより促進されていくと思いますが、義務だからやるという感覚では本質的な活動にはなりません。人的資本経営には「経営戦略」と「組織戦略」の連動が必要であり、企業成長のためには必要不可欠であると経営者の方に伝えていきたいと思っています。人的資本「経営」と言っているぐらいですから、経営トップが向き合い、牽引すべきものと考えます。
人的資本経営は、世の中において「理解」「共感」のフェーズから、いよいよ「実践」のフェーズになってきました。人的資本経営を実践したくても、方法が分からないと悩んでいる方もたくさんいますので、当社がいろいろな形で情報や事例を提供し、支援していきたいと考えています。
当社が経営者にアドバイスをしたり、取り組みをサポートするツールを提供したりすることで、人的資本経営が力強く実践されていくよう尽力したいですね。そうすることで、一人ひとりの従業員の才能やポテンシャルが発揮され、誇りを持って働き、「夢」や「生きがい」によって、たくさんの意味をこの社会から汲み取っている状態を実現させていきたいです。
文・THE OWNER 編集部