ポール・ゴーギャンという作家をご存知だろうか。ゴッホと共同生活を行なったというエピソードが特に有名で、2016年には東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』という展覧会が開催されたほど。彼は旅好きで様々な地域を訪れは、異国の景色や人物を作品に残してきた。そこで、本記事ではゴーギャンの人生や代表作、彼にまつわる本や映画を解説する。

革命に翻弄される幼少期

フルネームはウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(フランス語: Eugène Henri Paul Gauguin、1848年6月7日~1903年5月8日)。ゴーギャンは19世紀後半のポスト印象派(後期印象派)の象徴主義を代表する画家、彫刻家、版画家、陶芸家、著述家。姓はゴーガンと記されることも多い。

ゴーギャンは二月革命(1848年のフランス革命)の年に共和主義者のジャーナリストの父クローヴィスと母アリーヌの元、パリで生まれたが、革命の波が吹き荒れる中、逃げるように一家で南米ペルーへ移り住む。父が航海中に心臓発作で亡くなった後、リマの母方の親戚に養われるが、叔父の娘の夫はペルーの大統領だったこともあり、ゴーギャンは6歳まで同地の特権階級の富裕家庭で暮らした。しかし、1854年にペルーで市民戦争が起こると、親戚たちも政界を退くことになり、ゴーギャンは母とともにフランスへ戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンで生活することになる。

画家になるまでの意外な職歴

ゴーギャンが最初についた職業は商船の水先案内人の見習い。ここで彼は世界中の海を巡ることになる。この時期に母が亡くなったが、数ヶ月後にインドで姉からの知らせを受けるまで知らなかったという。その後兵役でフランス海軍に入隊し、2年間勤める。23歳でパリに戻ると、1871年からはパリ証券取引所で株式仲買人として働くようになり、実業家として成功する。ゴーギャンは意外にも優秀なビジネスマンだったのだ。この頃ゴーギャンは株式仲買人としての年収と同程度の収入を絵画取引でも得ていた。

しかし1882年にパリの株式市場が大暴落し、ゴーギャンの仕事も低迷。その頃デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚し、5人の子供に恵まれていたゴーギャンは、妻子を養うために画業を本業とすることを決意する。

《ゴーギャン夫人の肖像》(1880年~1881年頃)チューリヒ美術館所蔵
(画像=《ゴーギャン夫人の肖像》(1880年~1881年頃)チューリヒ美術館所蔵)

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画家としてのゴーギャンの成り立ち

ゴーギャンはパリの証券会社で株式仲買人として働き始めた1873年頃に、余暇に絵画を描き始めた。当時印象派たちが集まるカフェの近くのパリ9区に住んでいたゴーギャンは、画廊を訪れたり新興の画家の絵画を購入したりしていた。カミーユ・ピサロと知り合ってからは画家との交流も増え、ピサロやポール・セザンヌらと一緒に絵を描くようになった。1876年に初めて風景画をサロンで発表、同年のうちに自身の作品の一つがサロンで入選するなどアマチュアながら画力はある程度の評価があった。その後印象派展に作品を出品したり、アトリエを持つなど次第に絵画に傾倒していく。

《冬の風景》(1879年)ブダペスト国立西洋美術館所蔵
(画像=《冬の風景》(1879年)ブダペスト国立西洋美術館所蔵)

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1882年のパリの株式大暴落で株式仲買人としての収入が激減した際は、画家を本業としていくことをピサロに告げるが、株式暴落の最中に絵画が売れるわけもなく、生活は困窮。家族と共に生活費の安いルーアンへ移るも生活の立て直しには失敗してしまう。妻メットは地元であるコペンハーゲンに戻り、ゴーギャンも後を付いてフランスを離れることとなる。その後も生活費を稼ぐためにコペンハーゲンで防水布の外交販売を始めるなどしたが生活は厳しい状態が続き、ゴーギャンは6歳の息子を連れてパリに戻る。

《水浴するブルターニュの少年》(1886年)シカゴ美術館所蔵
(画像=《水浴するブルターニュの少年》(1886年)シカゴ美術館所蔵)

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画家として奮闘、ゴッホとの共同生活

1885年にパリに戻るも生活費を稼ぐために雑多な仕事を続け、姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになる。その翌年にはブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らし、そこでは画学生と出会い交流を深める。ピサロやエドガー・ドガなどの印象派の作品や、その頃ヨーロッパで関心が高まっていたジャポニズムに影響を受けながら、ゴーギャンの作品はしっかりした輪郭線をもって純色で平坦な色面を強調するクロワゾニスムを用い、主観と客観の総合を目指す絵画様式である総合主義を提唱していった。

《黄色いキリスト》(1889年)オルブライト=ノックス美術館所蔵
(画像=《黄色いキリスト》(1889年)オルブライト=ノックス美術館所蔵)

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1887年からはパナマや、友人のシャルル・ラヴァルとともにマルティニーク島のサン・ピエールという村に滞在した。マルティニーク島では原住民の小屋に住んで人間観察などを楽しみ、島内を旅行してインド系移民の村にてインド的モチーフや、戸外の情景を明るい色彩で描いた作品を残した。

その際に描いた絵画にフィンセント・ファン・ゴッホが感銘を受け、ゴッホの弟テオがゴーギャンの作品を購入したことから2人は交流を持つようになる。1888年に南仏アルルにあるゴッホの「黄色い家」にて9週間にわたる共同生活をした後、芸術観の違いやゴッホが剃刀で自ら耳を切りラシェルという娼婦にそれを手渡した「耳切り事件」などが原因で共同生活は破綻、その後文通はするものの二度と会うことはなかった。この時期にゴーギャンとゴッホはお互いのことを描いた作品を残しており、ゴーギャンはゴッホが自身の代表作を描く姿を《ひまわりを描くファン・ゴッホ》という作品に残し、ゴッホはゴーギャンが愛用していたのであろう《ゴーギャンの肘掛け椅子》という作品を残している。これらの作品からも彼らがお互いに親愛し尊敬していた関係性がみて取れる。

《ひまわりを描くゴッホ》(1888年)ゴッホ美術館所蔵
(画像=《ひまわりを描くゴッホ》(1888年)ゴッホ美術館所蔵)

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2度のタヒチ滞在、そして最期

1891年に仏領ポリネシアのタヒチに滞在してからは、現地の住民をモデルにした肖像画などゴーギャンの傑作が数々生まれた。タヒチの伝統的な習俗や神話などを作品に反映させた絵画や彫刻などの制作を行なっていたが、病院では心臓病と診断され(梅毒の初期症状とも推測されている)、何度も入院するなど衰弱しており、さらに滞在費用が底を尽きたなどの理由で1893年にフランスに帰国。
帰国後もタヒチを題材にした作品を制作し続け、画家がよく訪れるモンパルナスの外れに住むと、毎週「サロン」と称して集まりを開いていた。1894年11月にはポール・デュラン=リュエルのギャラリーにて個展を実施し、展示された40点のうち11点が高値で売れるなどある程度の成功を収めた。

《イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)》(1891年)メトロポリタン美術館所蔵
(画像=《イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)》(1891年)メトロポリタン美術館所蔵)

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1895年6月に再びタヒチに向かって出発し、同年9月から6年間パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らし制作を続ける。この頃は初期に木彫りなどの彫刻作品に注力した後、性的イメージを含むヌード作品を描いた。1897年4月に最愛の娘の死去の報告を受け、さらに健康状態の悪化、借金など度重なる苦悩の末、彼の代表作である《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》を描いた。後の手紙によるとゴーギャンはこの作品の完成後に自殺を試みたという。1900年2月から1901年9月には植民地政府に批判的な地元誌『Les Guêpes(スズメバチ)』の編集者としても活動していた。この時に妻にしていたのは14歳半のパウラという少女で、彼女との間には2人の子供がいた。

《3人のタヒチ人》(1899年)オルセー美術館
(画像=《3人のタヒチ人》(1899年)オルセー美術館)

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その後マルキーズ諸島のヒバ・オア島に滞在し、そこで出会った14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を最後の妻として制作に専念し、タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作と、タヒチ時代の絵をさらに深化させた《扇を持った若い女》《赤いケープをまとったマルキーズの男》《未開の物語》という3作品を制作する。

《未開の物語》(1902年)フォルクヴァンク美術館所蔵
(画像=《未開の物語》(1902年)フォルクヴァンク美術館所蔵)

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病気のためほとんど制作ができず最期を悟ったゴーギャンは『前語録』(Avant et après)と題する自伝的回顧録を書く。ここにはポリネシアでの生活や、文学・絵画への批評、中には地元当局やマルキーズ諸島でいざこざがあったカトリックの司教ジョセフ・マルタンへの批判も盛り込まれている。

その後ゴーギャンは島駐在の国家警兵やその部下の無能力や汚職を告発し、逆に名誉毀損で罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けてしまう。すぐに裁判所に控訴しようとしたが、その資金集め中に54歳という若さで急死してしまう。死因はアヘンチンキという痛み止めの薬物の過剰摂取か、心臓発作と考えられている。遺書はなく、死後ゴーギャンの手紙や絵画などの遺産は競売にかけられた。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまったとの指摘もある。

ポール・ゴーギャンの作品の特徴

ゴーギャンの作品の最大の特徴は強いメッセージ性を含むことではないだろうか。また、彼が中心となって提唱していた総合主義により、画面上で現実と想像上の世界などの非現実が混在し、内面的で独特な世界観を持った作品が多い。また、ゴーギャンは印象派の写実を重視するあまり象徴性に欠ける描き方に絶望したことから、神話のような象徴的な主題を多く用いた。

色彩も特徴的で、フランスで絵を描き始め、印象派に影響を受けていた初期から晩年の南島移住に向かって、色彩が濃く鮮やかになっていくのが顕著にわかる。タヒチで描かれた作品には、南国らしい自然が豊かな風景や、現地住民をモデルにした作品が多く残されているのも彼の作品の特徴。島独特の風俗や神話を題材にし、どこか非現実的で霊的な雰囲気の作品も多く見られる。

また、油絵が有名だが、フランスの国民美術協会のサロンに提出する用の陶製彫像や、タヒチに滞在した際などは木彫りの彫刻作品なども制作している。

ゴーギャンの作品はポール・セザンヌには「中国の切り絵」と批評されるなど同世代の芸術家には評判が悪くパリの美術界では孤立していたようだが、西洋絵画に問いを投げかけた独自の手法は後年ピカソやマティス、ナビ派の画家にも影響を与えている。

陶製彫刻《オヴィリ》(1894年~1895年)オルセー美術館所蔵
(画像=陶製彫刻《オヴィリ》(1894年~1895年)オルセー美術館所蔵)

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ポール・ゴーギャンの代表作

強いメッセージ性が特徴のゴーギャンの作品。印象派に影響を受けつつ、目に見えるものだけではなく、思想や理念といった概念も一緒に表現しようとした。ここからはそんなゴーギャンの代表作を紹介する。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897年~1898年)

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897年~1898年)
(画像=《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897年~1898年))

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この長く哲学的なタイトルだけでも聞いたことがある人も多いのではないだろうか。本作はゴーギャンがタヒチに滞在した際に遺書的な意味合いで描かれた。139.1cm × 374.6cmのキャンバスに油彩で描かれた大作には、原始的な姿の人々が描かれ、果物を食べるなど生的な描写と、青白くどこか霊的な描写が混在している。この作品完成後に自殺を図ったというエピソードからも、当時のゴーギャンの不安定な精神状態がどこか反映されているようだ。本作は現在アメリカのボストン美術館に所蔵されている。

《タヒチの女(浜辺にて)》(1891年)

《タヒチの女(浜辺にて)》(1891年)
(画像=《タヒチの女(浜辺にて)》(1891年))

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タイトルの通り、タヒチに滞在中の初期に現地の住民の女性を描いた作品。南国の海辺ということもあり、女たちの服装や髪飾りなどが色鮮やかで華やかなのが特徴的。それに対し、奥の海は黒く平面的で重厚感があり、両者の対比がゴーギャンの提唱する総合主義に通づる。本作は現在フランスのオルセー美術館に所蔵されている。

《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(不明)

 《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(不明)
(画像= 《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(不明))

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敬虔なブルターニュの人々が聖人の日に伝統衣装を身につけ免罪符を受け取る習慣を題材にした作品。彼らが祈る先には神とアラブハムの孫ヤコブが闘っているのが見える。大胆な構図で画面上が木の枝で分かれており、手前が現実の光景であり、奥は神話の登場人物たちであり幻影なのだが、これを平等に描くのがゴーギャンの総合主義である。ちなみに、神とアラブハムの孫ヤコブの取っ組み合いは、葛飾北斎の浮世絵のモチーフを真似しているとも言われている。本作は現在スコットランドのスコットランド国立美術館に所蔵されている。

《自画像(レミゼラブル)》

 《自画像(レミゼラブル)》
(画像= 《自画像(レミゼラブル)》)

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1888年にゴッホと共同生活をする際にゴッホと交換した自画像。タイトルの『レ・ミゼラブル』とはかの有名なヴィクトル・ユーゴーの小説であり、ゴーギャンは貧しく惨めな主人公に自分を重ねていた。自画像なのに自身の肖像を左半分に描き、蔑むようにこちらを見る視線がこれまでの画家の肖像画には珍しく、色気すら感じる。画面右側に描かれているのはゴーギャンとともに総合主義を成立させたエミール・ベルナールで、ゴーギャン自身とは対照的にほとんど緑で平面的に描かれている。本作はオランダのファン・ゴッホ美術館に所蔵されている。

《いつ結婚するの》(1892年)

 《いつ結婚するの》(1892年)
(画像= 《いつ結婚するの》(1892年))

画像引用:https://www.artpedia.asia/

ゴーギャンがタヒチに滞在中、現地の女性たちを描いたもの。この作品は半世紀もの間実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンがスイスのバーゼル市美術館に貸し出していたが、2015年にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに3億ドル(およそ360億円)で売却された。世界で最も高額な美術品の一つとして記録されている重要な作品。現在もカタール王室に所蔵されている。

ポール・ゴーギャンをもっと知れる本や映画

『ノアノア』(1901年出版)

『ノアノア』(1901年出版)
(画像=『ノアノア』(1901年出版))

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ゴーギャン自身によって執筆された自伝的随想・紀行文。タヒチでの妻である13歳の少女テフラとの日々や、その土地の漁業、自然や神話的体験などタヒチでの日々が綴られている。タイトルの「ノアノア」とは、タヒチ語で「かぐわしい香り」を意味する形容詞「noanoa」という語である。

『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』(2017年)

『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』(2017年)
(画像=『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』(2017年))

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エドワール・ドゥリュックが監督を務めるフランスの伝記映画。初めてタヒチを訪れた頃のゴーギャンを描き、新天地での楽園生活の実態をあらわにしている。

まとめ

革命に翻弄され、生活が困窮しながらも旅を続け、生涯にわたり表現することをやめなかったゴーギャン。ゴッホと共同生活をしていたことが有名で、時代や交友関係でひとまとめにされることも多いが、彼の作品自体は非常に独特で同世代にフランスで活動した画家たちのものとは全く異なる雰囲気を持つ。自伝を残す数少ない画家でもあるので、ぜひ絵画や書籍など多角的にゴーギャンを理解してみてはいかがだろうか。

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文章:ANDART編集部