北海道函館市生まれ。北海道函館東高校(現・函館市立函館高等学校)を卒業後、日本大学法学部へ進学。東証一部上場企業勤務の後、2017年より有限会社ホテルテトラ入社。常務取締役を経て、2022年8月、創業家3代目として代表取締役社長に就任。
当社は、事業継続が難しくなったホテル等の宿泊施設を「再生」することで店舗数を拡大し、その地域の観光業や雇用を守ってきました。各館の地域色あるプランのご提案を積極的に展開し、「地域に根ざし、地域とともに、地域を元気に」「人と人がつながるコミュニティ」という家庭的であたたかいおもてなしで、「ホテルテトラらしい」観光業を核とした地域経済への還流を目指し、日々奮闘しています。
創業からこれまでの事業変遷
—— グループの歴史を教えていただけますか?
有限会社ホテルテトラ代表取締役・三浦 裕太 氏(以下、社名・氏名略) :1980年に始まった当社は、喫茶テトラという喫茶店を私の祖父母が経営していました。祖母が喫茶店で経営を行なっていた一方、祖父は囲碁が得意で、喫茶店の二階で囲碁教室をやっていたんです。その後、祖父は三菱のトラックや自動車を売って稼いだお金と、銀行から借りたお金でホテルを建てました。
当時、函館駅前は活気にあふれていましたが、祖父は街が五稜郭の方に街の中心が移っていくことを予想し、そこにホテルを建てました。それが今の1号店です。
しかし、祖父は長崎出身で原爆を受けた影響か、52歳で亡くなってしまいました。その後、二代目社長である私の父が事業を引き継ぎました。
—— お父様が事業を引き継いだ時の状況はどうでしたか?
三浦 :父は東京で就職していて、1年で独立し、24歳で会社を持っていました。しかし、28歳で亡くなった祖父の会社が大変な負債と赤字で、どうしたものかと迷いましたが、面白そうだと思い、引き継ぐことにしたそうです。
当時のホテル従業員はこだわりが強い方が多く、支配人などが若い社長についていかないという感じで、結局みんな辞めてしまいました。そこから父と叔父、そして祖母の三人で再スタートしました。
バブル期に2号店を新築しましたが、土地の値段が高くて経営が苦しくなりました。それでも札幌や東京に進出し、函館で増やすなど、少しずつ経営のノウハウを体得していきました。
—— いつ頃から赤字から黒字に転換できたのですか?
三浦 :父が40歳くらいの時に師匠と出会い勉強を始めたことで、経営が徐々に改善しました。インバウンドの波に乗って店舗の拡大ペースも上がりました。
そして7年前の、私が30歳の時にこの会社に入りました。
代替わりの経緯・背景
—— ホテルテトラを継ぐ決意をしたのは20歳の時だと伺いましたが、どのような経緯がありましたか?
三浦 :そうですね。私には商売の師匠と経営の師匠がおり、商売の師匠は私が学生時代にアルバイト先のバーテンダーで出会った方です。彼は私を店長として育ててくれました。私は彼に「私の夢は店舗経営です」と言って修行していたのですが、彼は私の本当の願望を見抜いて、「お前はそういう店舗で独立したいんじゃない。本当は会社を継ぎたいんだろう」と言ってくれました。
私は最初、「そんな気持ちはない」と言っていましたが、何ヶ月か経った頃に彼の言葉の意味がわかり、本当は父親の会社を継ぎたいという気持ちに気づきました。それが初めて言えた瞬間でした。師匠は、「やっと言えたじゃないか」と喜んでくれました。
—— そこから、お父様に会社を継ぐという話をされたのですか?
三浦 :そうです。実は、私と父親はそれまで一度もその話をしていませんでした。しかし、20歳の時に初めてその話ができました。その後、大学に通いながら就職活動を進め、金融業界に進むことにしました。金融業界は不動産のことも学べるし、情報が集まる世界ですからね。
そこで、私の性格に合った金融の会社を見つけ、上場企業に入社することができました。
—— その後、ホテルテトラに戻ってきたのですね。
三浦 :はい。金融業界で学んだことを活かし、ホテルテトラに戻ってきました。ホテルのことも学ばせてもらい、取締役を経て常務になりました。そして、2年前に代表取締役に就任し、今に至っています。
ぶつかった壁と乗り越え方
—— ホテルテトラの大きなターニングポイントとして、お父様が引き継いだ後の急成長期と、直近のコロナ禍における立て直し期があると思いますが、それぞれの時期でどのように困難や壁を乗り越えてきたのでしょうか?
三浦 :急成長期には、技術力の向上が大きな要因でした。そして、直近のコロナ禍では厳しい状況がありましたが、さまざまな取り組みを通じて壁を乗り越えてきました。
—— お父様が紹介された師匠との出会いが、親子関係の改善にも繋がったというお話ですね。
三浦 :そうです。父の師匠と私の師匠は同じで、私はその方から直接学んでいます。親子関係もギスギスしていた時期がありましたが、その研修を通じて改善されました。
—— そういった経験が、コロナ禍でのコミュニケーションにも役立ったのでしょうか?
三浦 :コロナ禍ではコミュニケーションがスムーズで、一緒に困難な状況を乗り越えることができました。例えば、お歳暮の販売や、溝のない爪楊枝をノベルティとして売り歩いたりしました。
—— また、コロナの医療提供軽症者の隔離施設としてホテルを提供したことも売り上げに繋がったそうですね。
三浦 :そうです。当初は社員も不安があったようですが、地域の皆さんに説明し、理解してもらうことができました。結果として売り上げにも繋がり、会社として団結が強まりました。
また、お弁当の販売なども行い、なんとか3年間乗り切ることができました。そのおかげで離職者も減り、今のホテルテトラがあると思っています。
未来の展望について
—— 今後の展望についてもお聞かせいただけますか?
三浦 :当社が創業以来大切にしてきた地元愛や想いを、社外へも発信していきたいと考えています。宿泊業・観光業は、お客様はもちろん、従業員、食材を提供してくださる生産者さんや協力会社、地元企業等のご協力なしには成立しません。地域を大切にしたい、つながる喜びを共有したいという想いを広げ、地域活性・地方創生に貢献していきたいと考えています。
また、直近の話では、2023年4月、利尻島で最大規模のホテル「北国グランドホテル」の経営に苦しんでいた前運営母体のながもり観光から全株式を取得し、ホテルの営業と従業員の雇用は継続する形で、同ホテルをグループ化しました。
国内で最も高齢化が進んでいる秋田県では2045年に高齢化率が50%を超えると言われていて、利尻島はそれを20年先取りするかたちで高齢化が進んでいます。日本国内はもちろん、世界各地においても「高齢化」が喫緊の課題とされる中で、20年後の日本の縮図ともいえる利尻島でいかに人手を確保しサービスを維持できるか、ここでノウハウを獲得できれば世界のどこでも勝負できる自信が付くと、新たな挑戦を行っています。
全国の経営者へ
—— 経営者を中心とする当メディアの読者の方々に向けて一言、コメントをいただければと思っています。
三浦 :親子間のコミュニケーションはやはり難しいところがありますが、本当に相手の声を聞くことが大切だと思います。もしかしたら、カッコつけている親もただ寂しいだけかもしれないし、息子が会社に戻ってきてくれたらどれだけ楽かとか、救いを求めている心の声が威圧に変わっているだけかもしれません。
地域の活性化も同じように、本当の声を聞くことから始まると思います。ビジネスもそうですよね。お客様とのつながり方や、クレーマーの対応も、本当は寂しいだけなのかもしれないし、大切にされたいだけなのかもしれません。そういったことは、マニュアルや定規に縛られたチェーン店ではない、地域の商店街のようなところで大切にされていると思います。
地方にはまだ、昔ながらのコミュニケーションが残っています。例えば私だったらゆうたくんと呼ばれていましたが、「ゆうたくん、今日はお客さん来てるの?」とか「コロッケ、いつもは5個しか買わないのに今日は6個だから、お客さんが来てるんじゃない?」みたいな会話があったんですよね。そういった繋がり方は東京では感じられませんが、地方ではまだあるし、人間として当たり前でいいなと思います。
だから、家業や地元で能力を発揮することは素晴らしいことだと思います。そういう人が1人でも成功すれば、それが日本に良い影響を与えると思います。
—— 本日は貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。
- 氏名
- 三浦 裕太(みうら ゆうた)
- 会社名
- 有限会社ホテルテトラ
- 役職
- 代表取締役