会社に入ったら三年間は「はい」と答えなさい
園部 貴弘(そのべ・たかひろ)
中小・オーナー企業の経営指導機関の日本経営合理化協会教育部次長。オーディオ・ビジュアル局、セミナー企画部、出版局を経て現職。新入社員から、中堅、幹部、経営者・・・の実務に直結したセミナーや教材、書籍を200テーマ以上企画・製作。また、人材教育コンサルタントとして、多くの経営者・一流コンサルタント・士業・専門家と親交を持ち、企業経営者とコンサルタントや仕業などの専門家を結びつけたり、企業においての人材育成や社員研修の指導をする。実家である、440年続く京都の老舗料亭「山ばな平八茶屋」の監査役も務める。1971年京都市生まれ。名古屋商科大学商学部卒業。京都造形芸術大学芸術学部卒業。

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社会人として知っておきたい「三つの嘘」

約束を守るのと同じぐらいに大事なことは、「嘘をつかないこと」だ。嘘も人と人とのつながりの基本である「信頼」を一気に崩してしまうからだ。三年、五年かけてようやく築いてきた信頼も、たった一つの嘘のために無になるだけではなく、マイナスになってしまうことも多い。

個人の信頼を失うだけではなく、たとえ新人であっても、社会人のあなたは会社の窓口でもあるのだから、あなたのついた嘘一つで数百万円、数千万円の取引が一瞬にして消え去るかもしれない。学生のときとは違い、それほど大きなリスクがあることを知ってもらいたい。

何か失敗したときには、保身のために嘘をつきたくなってしまう。人間には防衛本能があるから仕方ない。それでも、失敗は失敗として、すぐに上司に報告することだ。報告すれば、確実に叱られる。厳しい上司だと怒鳴られることもある。辛いことだ。

しかし、それはあなた自身の未来のための糧になる。ここで嘘をついてその場を逃れてしまったら、あなたは学ぶ機会を失うだけでなく、その嘘がばれてしまったときには、あなたの会社での居場所がなくなることもあるのだ。

しかし、どうしても嘘をつかなければいけないときもあるのが世の常だ。だから僕は、「嘘はつくな、ついたらばれるな、ばれたら謝れ」と言っている。嘘はリスクが高いので、基本はついてはいけない。どうしてもつかなければいけないときには、絶対にばれてはいけない。ばれなければ嘘は嘘にならないし、相手の信頼を損ねることもないからだ。

もしばれたとしたら、すぐに謝るのが正しい。嘘はばれた時点でもう見抜かれている。それなのにクドクドと言い訳をしていたら、嘘の上塗りをしなければいけないし、そんな急ごしらえの嘘はすぐにばれていく。だったら、素直に認めて謝ってしまったほうがいい。

傷を負わなければいけないのなら、できる限り傷口を小さくするように立ち回る。汚いかもしれないが、そういうことも求められるときがあるのだ。

一九世紀イギリスの有名な政治家であるベンジャミン・ディズレーリは、「世の中には三つの嘘がある。一つは嘘、次に大嘘、そして統計である」と言っているが、僕は嘘には別の三つがあると思っている。それは「人を不幸にする嘘」「人を幸せにする嘘」、そして「嘘ではない嘘」だ。

「人を不幸にする嘘」は、絶対についてはいけない。もし、ついたとしたらその報いは必ず自分に返ってくると思ったほうがいい。いくら完璧な嘘をついたと思っても、嘘はちょっと立場が違う人から見たら、すぐに嘘だとばれるのだ。

囲碁に「岡目八目」という言葉がある。囲碁の試合をわきから見ていると、実際に打っている人よりも八目も先まで手を見越せる。つまり、ことの当事者よりも第三者のほうが情勢や利害得失などを正しく判断できるということだ。嘘も同じ。そして、悪意のある「人を不幸にする嘘」の場合、必ず第三者が相手に嘘であることを伝えるのだ。

人に嘘をつくと、人も自分に嘘をついていると思ってしまうことがある。自分がやっているのだから当たり前だ。嘘をついていると思ったら、その相手を信頼できないし、相手にもそのことが感じられるので、あなたを信頼してくれることはない。人から信頼を得られないのは致命的だ。それでは人と人とのつながりが大事な社会で生き残っていくのは難しい。

次に「人を幸せにする嘘」。これは「嘘も方便」という言葉があるように、嘘は悪いことだが、場合によっては必要なこともあるのだ。ここで大事なことは、相手から「感謝される嘘」でなければいけないということ。相手から「嘘つき」と言われてしまえば、いくら自分が「正しいことのために嘘をついた」と言っても、それはただの嘘になってしまう。

「人を幸せにする嘘」も、もちろん、岡目八目で第三者は見抜いていることを忘れてはいけない。ただ、見抜いた人も、本当に「幸せにするために必要な嘘」だと思ったら、嘘とわかっていても黙っていてくれるものだ。

最後に「嘘ではない嘘」だ。これは、一言で言うと「事実の一部を『正しく』伝えることによって、結果的に嘘をついたのと同じになってしまう」ことだ。

ある会社の人事部の人が、とある支店を訪問したときに、そこの支店長が部下を呼びつけ叱っているのを目撃したとしよう。どうやら仕事のミスだが、支店長が激しく叱っているのが印象的だった。

その人事部の人が本社に戻って上司に報告する。「あの支店長は、大勢の前で部下を感情にまかせて怒鳴りつけていました」と。すると、人事の中でのその支店長の評価はガタ落ちだ。これは嘘でもなんでもない。人事の人がそのときに見た事実をそのまま報告したにすぎない。

しかし、後から調べてみると、怒鳴られていた部下は以前から同じミスを繰り返し、数回にわたって注意や指導を受けていたにもかかわらず、今回再びミスを犯し、会社に大きな損失を与えてしまったときだったのだ。それも今回は、事前に説明や指示を受けていたのにその方法でやらず、なおかつミスを隠蔽しようとしていたのがばれたところだとわかった。

もし人事への報告が、叱る経緯をしっかりと把握して全体の中での位置づけをしてからだったら、支店長の評価が下がることはなかったが、たまたま見たその瞬間だけを切り取って報告してしまったために、事実とは違う内容を報告したことになってしまったのだ。

事実であっても、ある一部分だけを切り取ると違う意味に伝わってしまう。その部分が事実であるだけに、余計に性質(たち )が悪い。事例のように無意識に切り取った部分だけを伝えてしまったのなら仕方のない部分もあるが、悪意を持って自分の都合のいいように切り取り、都合のいい内容だけを周りに伝える人もいる。

その典型がマスコミだろう。何かの記者会見のすべての内容が、一般の僕たちに知らされることはない。メディアの価値観で切り取り、そして前後の映像やテロップを付けて報道される。それらは事実とは違うことも多い。切り取り方や編集次第で、イエスもノーも操作できる。「嘘ではない嘘」にだまされないよう、気をつけてほしい。