このビジネスモデルがすごい!
株式会社 船井総合研究所
お客様の業績を向上させ、社会的価値の高い「グレートカンパニー」を多く創造することをミッションとする。中堅・中小企業を対象に、日本最大級の専門家を擁し、業種・テーマ別に「月次支援」「経営研究会」を両輪で実施する独自の支援スタイルをとる。その現場に密着し、経営者に寄り添った実践的コンサルティング活動は様々な業種・業界経営者から高い評価を得ている。
一般財団法人 船井財団
故舩井幸雄が使命感を持って取り組んでいた「よい企業をたくさん創り、よりよい世の中にしよう」という遺志を後世に残すべく設立された経営コンサルタントとして多くの企業経営者へ経営のアドバイスをする中で、企業の本来の目的は社会性、教育性、収益性の3つに行きつくという考えに至った舩井幸雄の理念を継承し、規範となるよい企業を見つけだし、賞賛していくことを目的にグレートカンパニーアワードを開催している。
https://funaifound.or.jp/

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歩んできた道―世の中に、困った人に「役立つ」を貫く

白ハト食品工業は「危機こそチャンス」という逆張りの発想で発展を遂げてきた。

その原点は、1947年に創業者・永尾勢一氏の手で開業された「白ハト商店」まで遡る。勢一氏は2代目社長の和俊氏の父で、現社長・俊一氏の祖父にあたる。

代々受け継がれる社名の「白ハト」には「白く清潔で安心できる食品を国民に届けたい」「戦争のない平和な時代が続きますように」との思いが込められていたという。

当時のメイン商材はアイスクリームで、オリジナル商品の開発に営業努力も伴い、1953年には大阪市内にある映画館の80%の売店で売られるまでになった。

現在の社名に変わったのは、1959年のこと。当時は「討て冬将軍」というスローガンを掲げ、冬場に売れにくいアイスクリームのもう1つの柱となる商品開発に取り組んでいた。

カステラ、シュークリーム、もち、せんべいと次々チャレンジを続けるなか、和俊氏の妻がおやつに食べていたさつまいもをヒントに、現在の主力商品の1つであるスイートポテトを開発し、1970年に百貨店内へ出店。1973年には白ハト印の明石焼きもスタートし、いもたこなんきんの商売は順調に推移した。

しかし、いもは「ダサイ」「田舎臭い」とマイナスイメージがつきまとい、ファンづくりとともに社員もなかなか育たないことが、事業の進展を阻んでいた。

そこで和俊社長は、息子でありのちの3代目となる俊一氏に話をもちかけたところ、「働く人もお客さんも夢が持てるワクワクするような店にしたらいい。日本一といわれるブランドをいもたこなんきんで目指すべき」と提案され、俊一氏に事業を託した。俊一氏の最初の一手は、1985年道頓堀にオープンした白ハト食品工業初のたこ焼きブランド店「KUKURU」。まだ大学生でありながら店長も務めた俊一氏は当初、経営に大苦戦することになる。

人生初の挫折を味わい、「他店と同じではダメ」と気づいた俊一氏は、当時全盛だったディスコでの実演試食など世間の注目する仕掛けをどんどんつくることでマスコミがKUKURU に殺到し、日本中から顧客が集まるようになった。「ダサイ」から「カッコいい」に。ブランドと人材を作り出す企業へと大きく舵を切った瞬間だ。

KUKURU 創業当時、道頓堀にはたこ焼きの屋台が2軒あっただけ。たこ焼きを道頓堀名物にしたいという思いで、「KUKURU」から「たこ焼き道頓堀くくる」のブランド名に1990年改名。それ以降、道頓堀くくるの躍進とともに道頓堀がたこ焼きの聖地へと変わっていった。

この成功をきっかけとして、ポテト部門も俊一氏に託されることとなった。

俊一氏は、さつまいものあか抜けないイメージを、おしゃれでかわいくてヘルシーなケーキとして買ってもらえるようアレンジし、それがさつまいも専門洋菓子店「おいもさんのお店らぽっぽ」の誕生へとつながっていく。

こうした俊一氏のイメージ戦略の裏では、父・和俊氏の手により生産ラインの開発・改良が進められていた。ブランドづくりの俊一氏と、ものづくりの和俊氏による相乗効果により、「くくる」と「らぽっぽ」は順調に店舗数を拡大。百貨店や大型商業施設を中心に新規出店し、当時珍しい、ターミナル駅店舗での実演販売店舗を展開。便利でスピーディーにヘルシーな商品を提供するビジネスモデルを定着させた。

さらなる飛躍の転機は、2008年の中国製ギョーザ中毒事件だ。事件の余波で中国産さつまいもの調達が難しくなり、競合他社が大学いもの原料難に苦しむなか、白ハト食品工業は国内農家から調達先を確保し人件費とコストの高い国内であえて国産さつまいも専用加工工場を2005年建設したため、生産が滞らなかった。

他方、生産ラインも改良を続け、飴落ちしない大学いもが全国のスーパーやコンビニエンスストアに並び、国内シェアは40 %から80%に上昇し日本一となる。

俊一氏が代表取締役に就任した翌年の2011年、再び苦難の時を迎える。九州の霧島山新燃岳が噴火し、麓にあった宮崎工場に火山灰が降り積もり工場がストップして数千万円の損害を出したのだ。火山活動はおさまらず、新工場の候補地として九州とともにもう一つのさつまいも最大生産地茨城県を視察中に東日本大震災に被災。この時、東京事務所に状況を聞くと、自社の前には寒く冷たい夜風のなか真っ暗な道を遠くの家に向け歩いて帰宅する人の行列ができていた。「こんな時だからこそ、温かい焼きいもを食べてもらおう」と俊一氏は考え、いったん閉めた店を開け焼きいもを手配りした。「これで、なんとか家に帰るまで頑張れる」「本当にありがたい」という言葉をもらい、人を元気にする魔法をいもたこなんきんは持っていると思い知らされたという。

その後、東北の被災地60カ所で焼きいもやたこ焼きを全職員でふるまったが、このプロセスで全員が自社の存在意義に気づき、俊一氏は世の中に役立つ人材づくりを事業の最重要課題としようと強く心に決める。

被災地支援と並行して、さつまいもスイーツ事業の根幹であるさつまいも農家の高齢化を問題視し日本の農業を応援することも決め、2012年に農業生産法人株式会社しろはとファームを設立。震災で風評被害にあっている茨城県行方の土を使った「ソラマチファームらぽっぽおいも畑」を東京スカイツリーに作るなど、本格的にさつまいも農業の6次化による地方創生事業への進出を図る。

その事業をもっとも象徴するのは、2015年にオープンした農業体験型テーマパーク「らぽっぽなめがたファーマーズヴィレッジ」だ。「日本の農業をステキにしよう!」をスローガンに、行政や農協、地元農家を巻き込み、45億円をかけたこの大プロジェクトを決行。農業(1次)、加工(2次)、流通・販売(3次)を一気通貫で行う6次産業化を進化させた12次産業化の拠点を目指す事業となった。

これらの取り組みから、2017年に第56回「農林水産祭」多角化経営部門天皇杯を受賞するなど対外的にも評価を受けている。

この企業から学ぶこと

●まさに「社会の公器」を地で行くスゴさ

船井総合研究所と白ハト食品工業とのお付き合いは1996年からです。

事業の拡大とともに数多くのテーマで、船井総研の各専門コンサルタントがお付き合いをさせていただきました。

未来を見越し将来最適で、次々に新しいチャレンジに取り組まれる白ハト食品工業ですが、その経営目標は単に自社の業績の拡大のために留まることなく、国家的な課題ともいえる、農業振興・地方創生に貢献をしていくことです。

実際、これからの日本の農業や食、そして地方のあるべき姿を、らぽっぽなめがたファーマーズヴィレッジでの取り組みを通じ体現されてきました。

理想論に留まることなく、農家も地域もお客様も喜び、事業としての永続性も有した、まさに論語と算盤のバランスがとれた経営をしておられます。その、企業としての魅力は、何よりもこの採用難の時代に毎年5000名という多くの学生が白ハト食品工業グループへの就職に関心を抱いているという事実が端的に示している、といえると思います。

執筆:地方創生支援部 グループマネージャー 横山 玟洙

企業プロフィール 白ハト食品工業 株式会社
業務内容: さつまいもの洋・和菓子の製造販売、たこ創作料理・たこ焼き・明石焼き専門店の運営
所在地:大阪府守口市 創業:1947 年 代表者:永尾俊一
資本金:4500 万円
従業員数: 正社員87 名(グループ計128 名)、
パート・アルバイト911 名(グループ計1039 名)2018 年12 月現在**