昭和初期から中期にかけて、あまたの中小企業が大企業に合併された経緯を紹介する。
昭和初期~中期のM&A
重工業や紡績業など国の基幹事業を中心に進んできたM&Aの潮流は戦争によって終わりを迎える。
1929年、世界恐慌の余波を受け、日本は戦前最悪とも呼ばれる「昭和恐慌」を迎える。この時にデフレが起き、日本企業は生産量を増加させることで売り上げをたてようとしたが、結果として物価の下落を起こしてしまう。
そのため、経営効率化と物価の安定化を目的とした重要産業統制法が1931年に制定される。この施策により国内のありとあらゆる産業、生産量、物資(資源)、労働力、価格などは国が管理をすることになり、業界のカルテル化が進められることとなった。当時「重要産業」と呼ばれていた24業種には、それぞれ統制団体が生まれ、生産量や物資の割り当て、価格などを決めていた。
また、物資は軍需、輸出、民間用に分けられ、一番重要視されていた軍需物資が生産の大きなウエイトを占めることとなり、ほぼすべての企業が軍需優先としての側面を強くしていくこととなる。
この時に、一定の規模に満たない中小規模の企業は1社では存立できなくなり、整理統合の対象になっていく。
例えば、1934年には八幡製鉄所(当時は官営製鉄所)と九州製鋼、輪西製鐵、釜石鉱山、富士製鋼、三菱製鐵、東洋製鐵の官営、民間企業が合併し日本製鉄が誕生する。また、1943年には四国の紙業会社14社が合併し大王製紙株式会社が生まれている。
1936年に日中戦争が始まると、統廃合の動きは急速に進み、合併によって生まれた企業はますます成長していくこととなる。
戦後
戦後日本はGHQ(連合国総司令部)に占領統治されることとなる。GHQの2大目標は、非軍事化と民主化であった。
その手法の1つが1945年頃から行われた財閥解体である。背景には、重要産業統制法によって経済、産業が大企業に集中すること戦時中の軍需を支えたという理由から体制の崩壊を考えたものと思われる。また、軍需を支えた企業に対してのみせしめという側面も少なからずあったものと思われる。
この施策により、ホールディングカンパニーや株式交換が禁止され、事実上、持株会社が存在できなくなった。つまり事実上のM&Aの禁止であるが、この流れは1952年のGHQの撤退により緩和され、市場での競争を阻害しない場合において許可されている(現在は独占禁止法として残っている)。
戦後の買収劇
財閥解体の影響は、会社の分割化以外にもあった。 財閥解体により、1社あたりの資本金や資産が制限されたこと、株式を一般に解放させられたことによって、会社を乗っ取られる危険が出てきたのだ。
有名な例が、1952年の藤綱久二郎という相場師による陽和不動産の乗っ取りだろう。 陽和不動産は三菱地所の前身であり、財閥解体によって分割化され、三菱グループが所有する丸の内一帯の不動産を所有していた。
分割化され資本金が低く、丸の内という不動産を所有している陽和不動産は藤綱の乗っ取りの対象となり、一時は35%もの株式を藤綱が所有することとなる。
結果として、三菱グループが大金で藤綱から買い取ったのだが、この事件を教訓に旧財閥グループは株式を持ち合いにすることで株の買い占めを予防することとなる。
戦後のハイパーインフレによって資金が潤沢にある個人が増えると、このような乗っ取り騒動が頻発し、実際に乗っ取りが成功してしまうこともあった。世をにぎわせた買収、会社の乗っ取り劇が行われたのもこの時期からであり、M&Aにハゲタカのイメージが強いのはこのころからだと筆者は考える。
なお、この持ち合い制度は、独占禁止法の改正などによって解消が推進されており、市場の流通株式比率を高める働きがなされている。
例として、2021年7月には三菱グループに属する機械総合商事会社の東京産業株式会社(東証1部 8070)は、三菱商事が保有する東京産業株を全株売却すると発表している。三菱商事は全体の13.89%(334万7600株)にも及ぶ株を所有しており、東証が実施する市場改革の動きに合わせたものとされている。