江戸時代の日本は流通網が発達し、また全国各地で様々な生産技術が飛躍的な発展を遂げたために、それを扱う問屋、小売店が急増した。ただ、輸出入による品物、金銭の出入りがない完全に閉鎖された社会だったためにほぼすべての品物の生産量には限りがあったため市場も限られたものであった。
そのため、特定の商品の取引に関わる問屋は「株仲間」(仲間とも)という一種の独占制度をつくり、株を持つ問屋のみ商品の仕入れ、割り当てが行われていた。この制度は当初は、米、塩、油といった生活必需品に限られていたが、時代が進むにつれて、蝋、たばこ、鰹節、墨といったものまで多岐に渡った。
株仲間が結成された目的は新規参入を禁ずるものであったが、商売を独占すると同時に、価格の協定、品質の担保、利益率の取り決めなど不当な買い占め、売り渋りを防ぐ役割も担っていた。株仲間以外の商人が商いを行うと訴え出ることもあったという。
実際に大阪にある「二十四組問屋」という株仲間には、下記のような規約が定められていた。
- 注文を受けた買次荷物は,なるべく安価に買い入れて送付すること(価格の安定化)
- 荷物送状には必ず積み込み荷物の元価を記入すること(利益率の安定化)
- 江戸荷主よりの買次諸荷物の海上請合,船歩銀の減額請求等には一切応ぜざること(輸送量の安定化)
- 菱垣廻船以外には一切積み込まぬこと(菱垣廻船とは二十四組問屋の依頼を受ける専門運輸業者、他業者による運輸を禁止した)
- 荷渡し後の荷物の異変には,その責に任ぜざること(当時は発送した時点で商品の責任は買い手にあるとされていた、輸送中の損害も買い手が被ることとなった)
- さらに仲間の新加入に対する条件としては,実子の分家による加入,奉公人の別家による加入,その他無関係者等に対し各々加入金に等差を設け,全く新規の加入者は仲間全部の同意を得,金百両を加入金として振る舞うこと(親族、身内以外の新規参入者の制限)
幕府公認の株仲間
当初は、問屋同士が設立した組合という色が強かったものの、品質管理や価格の安定などに一役買っているとされ、享保の改革では幕府公認の株仲間が登場した。
有名なものには、関西から江戸に送られてくる商品を扱う問屋が集まってできた「十組問屋(とくみどんや)」がある。塗物、絹などの繊維、雑貨類、生薬、鉄製品、綿、畳類、油と繰綿(精製していない綿)、紙と蝋燭、酒の10業界が集まってできた株仲間である。巨額の冥加金(みょうがきん、営業許可のための上納金)を収めることで最盛期には64問屋が加わり、幕府公認の株仲間となった。このような株仲間を「御免株」といい、反対に自主的に結成された株仲間を「願株」と呼んだ。
株仲間はその性質から、株を増やすことが原則としてできなかった。そのため、株仲間に加入するには、預かり休株(やすみかぶ)と呼ばれた空席を買い取るか、既存の構成員から株を買い取る方法が取られた。特に札差(武士の俸禄米を換金する業者)の株は「千両株」とも呼ばれ非常に高値で取引されていたという。
「休株」とは、構成員の店が一時休業、廃業、倒産してしまった場合、その空席の株である。空席となった株は他の株仲間たちが預かることで新規参入者が加わるまで、組合で冥加金を負担するなどして新規加入者が決まるまで保たれていた。時として、構成員が加入希望者に資金援助する形で新規参入を手助けすることもあったという。
江戸時代のM&Aはこの株の売買による営業権の譲渡が最も代表的な形式である。ちなみに、1つの問屋が複数の株を所有したり、異業種の株を購入することもあった。これは現代でいう、業界再編型M&Aや成長戦略を見込んでのM&Aと同じ類の経営戦略になるだろう。
江戸時代のM&A事例 株式会社柳屋本店
整髪料「あんず油」などの製造販売を行っている株式会社柳屋本店(東京都中央区日本橋)は元和元年(1615年)に明から渡来し、徳川家康の侍医を務めていた呂一官が日本橋に興した「紅屋」(のちに柳屋)という薬種・化粧品店が始まりである。
呂一官の死後、辻家(5代目以降は堀家を名乗った)が継承したが、1804年に、近江近江商人の外池半兵衛正義(のちに、柳屋五郎三郎に改名)によって承継(M&A)される。
外池家はもともと薬種行商からはじまり、代を重ねるごとに醸造業、酒屋、運送業と手広く商いを広げた家であった。「紅屋」を承継した経緯も自らが北関東で栽培していた紅花(口紅の原料)の販売先として大きなブランド価値を持っていた紅屋を手に入れることで市場で大きな地位を築くことにあったと考えられる。
この考え方は現代のM&Aと共通するところが非常に大きく、江戸時代の商人のビジネスセンスが伺えるものである。
2015年で創業400年を迎えた柳屋は、現在も外池家による経営が日本橋で続けられている。
まとめ
江戸時代の株の売買は、新規参入の禁止、市場の独占という側面が強いものの、商法が整備されていなかった当時としては市場を保護するためには必要な手段だったと考えられる。
それも、新規参入を一切禁じていたわけでもなく、のれん分けした子どもや弟子などの関係者には、株を買い与えて商売をさせていた事例もある。また、空席が出た際には、他の株仲間達が資金を調達して株を確保し、信用のおける人間に店を開かせるというファンド的な動きもされていた。
その手法や目的は現代のM&Aとなんら変わるところがなく。その柔軟性ゆえに数百年を超える老舗企業が世界一多い国になっているのではないだろうか。