近年アメリカから広がりつつある理論の一つに、日常生活からビジネスにまで幅広く応用できる「ナッジ理論」がある。ナッジとは強制や指示などを用いることなく、個人の行動をよりよい方向に導くことである。
行動経済学にもとづくこのナッジ理論は、そのまま企業経営に活用することも可能だ。ではビジネスにおけるナッジとはどのような役割を果たすのか、ここからその仕組みや活用方法を検証してみよう。
目次
ナッジ理論とは
ナッジ理論とは、「注意や合図のためにひじで軽くつつく」「そっと後押しをする」を意味する「ナッジ(nudge)」をもとに、「そっと相手を望ましい方向に導き、実社会で役に立てよう」という一つの方向性として示されている理論である。
ノーベル賞学者が提唱するナッジ理論
このナッジ理論は、2008年に米国の経済学者リチャード・セイラー教授と法学者であるキャス・サンスティーン教授によって提唱された理論である。リチャード・セイラー教授が2017年に行動経済学における功績によりノーベル経済学賞を受賞したことにより、米国を中心に世界に広がり、徐々に社会へ浸透するようになった。
まだ歴史の浅い理論でもあるので、ここで改めてナッジ理論についてまとめてみよう。
ナッジ理論の基礎知識
冒頭で述べたようにナッジ理論のもとになった「nudge(ナッジ)」という言葉は、本来「相手をひじで突く/そっと押す」という意味を表す。相手の行動をそっと促すことであるが、リチャード・セイラー教授の定義によると、「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャのあらゆる要素」を意味する。
人を動かしたり、人の行動を変えたりしようとする際、一般的に使われる「incentive(インセンティブ)」という概念とは違い、行動経済学的手段で人の行動変容を促すのがナッジである。
行動経済学とは?
行動経済学とは、心理学や社会学、脳科学などと経済学を融合させ、人間の心理が経済活動に及ぼす影響を考察する学問だ。「人は必ずしも合理性だけで行動を決めるわけではない」という不合理性を前提に、人の行動を心理学、経済学の側面から研究する。
人が意思決定を行う場合、合理的(論理的)な思考に頼るよりも不合理的(直感的)な思考に従うケースのほうが圧倒的に多いという。この不合理こそがナッジ理論へと結びつく。すでに米国では、心理学者らのアドバイスを経営に取り入れ、企業は顧客や従業員の行動をナッジ理論で誘導している。
例えば行動経済学を活用することで、企業は社内の残業時間を節減したり、顧客の購買行動を望ましい方向に誘引したりすることが期待できるだろう。当然大手通販サイトやSNS、動画サイトなどにも行動経済学の手法が取り入れられている。
また厚生労働省では「受診率向上施策ハンドブック」で、ナッジ理論を活用したがん検診受診率向上を推奨。同資料では、ランチタイムとおすすめメニューの関連性を例に、「時間的な余裕がない状況で食事メニューを決定する場合、理論的思考によりメニューを選ぶよりも、直感的におすすめメニューを選ぶ人のほうがはるかに多い」という行動経済学を使った説明をしている。
ナッジ理論の活用事例
ナッジ理論は、米国だけでなく世界のさまざまな国でも活用されるようになっていることをご存じだろうか。近年では、日本でも省庁や自治体、民間企業、日常生活、社会政策、ビジネスなどの幅広いシーンで活用されている。ここでは、いくつかの事例を紹介しよう。
身近に見られるナッジ理論
まずは、身近なところでナッジ理論が活用されている例を紹介していく。普段あらゆるところで目しているため、ナッジ理論と気づいていない人も多いかもしれない。これは、日本人にしか分からない感覚かもしれないが、ゴミのポイ捨てに悩む道路脇の空き地に、小さな赤い鳥居を立てたところ、ゴミの投げ捨てが劇的に減少したという話がある。
また英国では、吸い殻入れを投票箱に見立て、「現在、世界最高のサッカープレイヤーと言ったら?」「F1グランプリ(イタリア)とテニスの USオープン、どちらが観たい?」など、週替わりであらゆるジャンルのトピックを投票させた結果、タバコのポイ捨て防止につながった。放置自転車が多いスペースに、「ご自由にお持ちください」という貼り紙をするのも同様の効果を生むらしい。
かなりウィットに富んだこれらの事例では、迷惑行為をする本人の罪悪感を喚起することで、望まれない行動を抑えることに成功している。直接的に注意をするかわりに、相手の情操に訴えかけてコントロールするという手法は、まさにナッジの具体的事例と言えるだろう。
また近年は新型コロナウィルスの問題もあり、スーパーマーケットや公共機関などで、床に一定の間隔で描かれている足跡のマークを目にすることもある。このマークを見ると、人は無意識にそのマークの上に足をそろえて立つ。これも人間の心理を巧みに利用したアイデアだろう。
厚生労働省が推奨する「明日から使えるナッジ理論」
省庁や自治体のナッジ理論活用例も増加傾向だ。先述した厚生労働省では、「明日から使えるナッジ理論」と題して、がん検診の受診率向上ハンドブックを公開。同ハンドブックでは、身近なナッジ理論を紹介した上で、がん検診の受診率を上げるアイデアについて解説している。
例えば、ランチタイムの「本日のおすすめ」メニューを引き合いに出し、まずはなぜ多くの人がおすすめメニューを選ぶのか、そこに働くナッジ理論を紹介するといった具合だ。これは、選択肢の多さや意思決定を避ける傾向が強いからだという。
その上で福井県での事例を挙げ、ナッジ理論にもとづいた「がん検診セット受診」による成功例を解説している。この事例では特定検診とがん検診とをセットのように扱うことで、申込者の選択肢をせばめ、がん検診の受診率向上に貢献したことが理解できる。
このように、日本国内の政府機関でもナッジ理論には注目しており、管轄する分野での活用を推奨している。いずれはこの流れが、民間のビジネス界にも波及するだろう。
国内外での具体的な活用事例
ナッジ理論の活用は、国内外でさまざまな事例がある。具体的な活用事例は、以下の通りだ。
- ナッジを活用した啓発による省エネ行動促進の取り組み(大阪府吹田市)
- 記入式の受診カードによる乳がん検診の再受診勧奨(東京都立川市)
- 近隣のよく似た家庭や省エネ上手な家庭と、自分の家の電力使用量を比較(米国)
- 階段を利用すると音が奏でられる楽しさによる階段利用率の向上(ドイツ)
- 座席にぬいぐるみを置いたフィジカルディスタンス啓発(りそな銀行)
ほかにも医療分野での受診率向上や、心理的プロセスを利用した省エネ対策、納税率の向上などにナッジ理論が活用されている。
ビジネスに役立つ活用事例
次にビジネス分野での事例も、いくつか代表的なものを挙げてみよう。
- 階段を用いたアンケートによるエスカレーターの混雑緩和(JR西日本、大阪大学)
- 食品の賞味期限表示の変更による要求意識の変化(農林水産省、食品メーカー)
- ナッジによるアンケート回収率の向上(神奈川県茅ヶ崎市)
- 掲示物による代金回収率の改善(ニューカッスル大学)
こうした取り組み以外にも、アプリケーションを利用して従業員のモチベーションを高める事例や、持続可能性に興味がある株主を募るビール会社のキャンペーン事例など、ビジネスにおけるナッジ理論の可能性が着実に広がりを見せていることが分かるだろう。
ナッジ理論をビジネスで活用するメリット
そもそもナッジは、金銭的インセンティブや罰則を用いず、相手の意思決定の癖を利用してそっと後押しするように行動変容を促すものだ。ビジネスの現場で活用すれば、消費者や取引先、従業員の行動を良い方向に変えるだけでなく、低コスト、下手な指導によるパワハラを避けられるといったメリットも期待できそうだ。
マーケティングや長時間労働防止、人材育成などさまざまなシーンで活用してみてはいかがだろうか。
ビジネス現場でナッジ理論を活用する際のポイント
マーケティングや長時間労働防止、人材育成セミナーなど対象が誰であれ、POPやチラシ、ビジネス資料を作成し、相手に情報を伝え、その情報で相手の行動を促すのが一般的だ。そのような資料を、ナッジ理論をもとに以下に挙げるようなポイントに注意しながら作成するとよいだろう。
- 選択肢を少なくするか、または選択の方法を簡単にする(Easy)
- 損をする情報を与えて行動を促す(Attractive)
- 周囲の人の行動を指標として与える(Social)
- 適切なタイミングで情報を与える(Timely)
これにより伝えたい内容や目的がはっきりして分かりやすくなり、行動する側のフットワークも軽くなる。
ナッジ作りのプロセス
ナッジ理論をビジネスの現場で活用し、人々の行動をより良い方向に誘導するためには、ナッジそのものが良いものであることが大切だ。ここでは、ナッジ作りのプロセスを紹介していく。
ナッジ設計のプロセスフロー「BASIC」
「BASIC」はOECD(経済協力開発機構)が提案するナッジを設計するためのプロセスフローの一つである。まずは、以下の5つの基本をもとにナッジを作成してみるといいだろう。
1 Behaviour (行動)
行動の観点で政策課題の重要な側面を見つけて標的にする
2 Analysis(分析)
標的にした行動を行動科学のレンズで徹底的に調べる
3 Strategy(戦略)
行動を活用した解決策を見つけて構想を練る
4 Intervention(介入)
実験をデザインして効果を検証する
5 Change(変化)
施策の実施、横展開、監視、評価、維持管理、結果の普及について計画を立てる
参考:THE BASIC TOOLKIT(OECD)
ナッジ理論の枠組み「EAST」とは?
EASTは、もともと英国内閣が法律、税金、財政の分野に行動経済学を応用するために考え出された。その後さまざまな修正を経て、現在ナッジ理論を実践するためのフレームワークになっている。前述した資料作りの例でもEASTを活用している。EASTは4つの実践プロセスの頭文字である。ここでそれぞれのプロセスを順番に解説しよう。
①Easy(簡単であること)
まずは行動の難易度を下げることが重要である。相手に伝えるメッセージはシンプルに、作業の手間は可能な限り少なくなるように心がける。また、意思決定の過程や選択肢を減らすと、ナッジの効果を高めることが可能になる。
②Attractive(魅力的なこと)
得をすることと損をすることでは、どうやら損をすることのほうのインパクトが強いらしい。つまり人は自然に、損を避ける方向で選択肢を選ぶのである。今までに無償で受け取れていたものが、ある時を境にもらえなくなるような損失感が、ナッジでは重要な要素になるのである。
③Social(社会性があること)
社会的な行動だという意識が働くと、人は望ましい方向に進むという傾向がある。また、他者とは異なる行動をとっていると認識させることにより、他者と同じ行動へと相手を誘導することも可能だ。
④Timely(時宜にかなっていること)
ナッジを実践するには、タイミングも非常に重要である。相手に情報を伝える場合でも、タイミングを逃すと行動を促すことはできない。ナッジでは、積極的にタイミングを作り出すことも重要視される。
決して難しくないナッジ理論の実践
ランチタイムの飲食店の例からも分かる通り、行動経済学や理論を持ち出してきても、ナッジ理論を堅苦しくとらえる必要はない。我々が意識していないだけで、ナッジ理論はすでに日常生活の中で自然に実践されているのである。
ただし、この理論を系統立ててビジネスに活用する試みは、まだ日本では始まったばかりだと言える。ここでナッジ理論に興味を抱いたのなら、まずはBASICやEASTを意識しながら簡単な取り組みから始めてみるとよいだろう。企業経営で未知の可能性が拓けるかもしれない。
ナッジ理論でよくある質問
Q.ナッジ理論とはどういう意味?
A.ナッジ理論とは、英語で「注意や合図のためにひじで軽くつつく」「そっと後押しする」を意味する「ナッジ(nudge)」をもとにした行動経済理論のことだ。「そっと相手を望ましい方向に導き、実社会で役に立てよう」という一つの方向性として示されている。2017年にノーベル経済学賞を受賞した米国の行動経済学者リチャード・セイラー教授が提唱した。
同氏は、ナッジ理論を「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャのあらゆる要素を意味する」と定義している。世界諸国で社会やビジネスのほか幅広い場面で活用されている。
Q.ナッジ理論の身近な例は?
A.ナッジは、社会のさまざまな場面で活用されている。身近なところでは、放置自転車が多いスペースに「ご自由にお持ちください」という貼り紙をしたことで自転車を乗り捨てする人が少なくなった例があった。「放置しないでください」と放置する人に対する文言のかわりに、「ご自由にお持ちください」と第三者向けの文言を書くことで放置する人の心に響かせたわけだ。
また長野県塩尻市が住民税申告書に同封するチラシにナッジを取り入れ、申告しないことのデメリットを強調したところ、期限内申告者が増加した例がある。人は、「自分の不利益に敏感である」という損失回避心理にうまく訴えかけられた成功例だ。
Q.ナッジの基本は?
A.提唱者であるセイラー教授によるとナッジは「選択を禁じることも、強制することも、経済的なインセンティブを大きく変えることもせず、人々をより良い方向へ誘導するもの」が基本である。そのため、選択アーキテクチャ(構造)が重要なカギを握ると言えるだろう。例えばナッジ作りの基本ともなっている「EAST」というフレームワークを押さえておくことも方法の一つだ。
- Easy(簡単)
- Attractive(魅力的)
- Social(社会性がある)
- Timely(時宜にかなっている)
相手に伝えるメッセージはシンプルに、意思決定の過程や選択肢を減らすが魅力的な選択に導くような伝え方をする。例えば、得をするか損をするかでは、人は損を避けることに魅力を感じやすい。また「社会的な行動だ」という意識が働くと、人は望ましい方向に進む傾向がある。このような意思決定の癖を利用してそっと後押しをするように行動変容を促せるといいだろう。
Q.ナッジ理論の欠点は何か?
A.ナッジの作り方や伝え方によっては「操られている」と感じて拒否反応を示されたり、強要・介入と受け取られたりする可能性があることは、ナッジ理論の欠点である。ナッジは、あくまで「選択を強制しない(選択の自由を確保する)」「(相手が)より良い方向に行動できるように誘導する」ものだ。
例えば、健康促進でナッジを活用する際、果物をカフェテリアの目のつきやすい位置に置くのはナッジであるが、ジャンクフードをカフェテリアに置くことを禁止する行為はナッジではない。また私利私欲のために選択肢を絞ることもナッジではない。選択した本人が「この選択が良いもの」と思えるように導くことを心がけよう。
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