おかっぱ頭・丸眼鏡・チョビヒゲという独特のファッションがトレードマークの画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)。独自の技法による表現でエコール・ド・パリを代表する芸術家として活躍した。光沢を放つ「乳白色の肌」は、ひと目見れば誰もが心を奪われる魅力を持っている。国際的なスターとして成功しながらも、戦争に翻弄され、フランスに帰化して以来日本に戻ることはなかった。本記事では、藤田嗣治の人生と作品の特徴を解説する。

藤田嗣治
(画像=藤田嗣治)

画像引用:https://boisdejasmin.com/

藤田嗣治とレオナール・フジタ
藤田嗣治(1886年11月27日〜1968年1月29日)は、東京に生まれ、フランスに帰化した画家。洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ(Léonard Tsuguharu Foujita)。なぜフランスに移ることになったのか、藤田と日本・フランスの関係を見てみよう。

藤田の父・藤田嗣章は、森鴎外の後任として軍医総監(陸軍軍医の最高位)を務めた人物。兄弟には大学教授になった者もおり、いわゆるエリート家庭に育った。父には医者か軍人になることを求められたが、手紙で画家になりたい思いを伝え、油絵具一式を買い与えられる。

中学時代にはすでにフランス語も学んでおり、1905年に東京美術学校西洋画科(現・東京藝術大学美術学部)西洋学科に入学。しかし、当時の日本画壇は洋画家・黒田清輝に代表される印象派のような画風が支配的だったため、藤田の画風では高い評価は受けられず、1910年に卒業した後も文展への入選は果たせなかった。

芸術家が集ったモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」にて、パブロ・ピカソ(右端)たち
(画像=芸術家が集ったモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」にて、パブロ・ピカソ(右端)たち)

画像引用:https://ja.wikipedia.org/

初めての渡仏は1913年のこと。モンパルナスでアメデオ・モディリアーニやジュール・パスキン、シャイム・スーティンといった画家たちと友人になり、アンリ・マチスやパブロ・ピカソとも交流を持った。当時、モンマルトルに代わりモンパルナスに芸術の中心が移り始めており、イタリアやスペインなど各地から若い芸術家が集まって、カフェやアトリエで親交を深めていた。藤田はその中で日本人画家として個性を発揮する。

第一次世界大戦があり、しばらくは貧窮した生活を送るが、マン・レイの恋人「モンパルナスのキキ」をモデルとした裸婦像で注目されるようになり、1921年にはサロン・ドートンヌの審査員として推薦される。1922年に代表作のひとつ《裸婦》で一躍有名になり、エコール・ド・パリを代表する画家として認められるようになった。1920年代は藤田の黄金時代といわれる。

《ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)》(1922年)
(画像=《ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)》(1922年))

画像引用:https://www.musey.net/

ルーブル美術館に銅版画1点が収蔵され、フランス国家からレジオン・ドヌール勲章を贈られるなど、藤田は時代の寵児となった。1932年に訪れた南米でも大歓迎を受け、アルゼンチンで個展を開催。メキシコに滞在した後、日本に帰国し、1934年の銀座の日動画廊での個展でも成功を収めた。

その後、君代夫人を連れてフランスに戻るが、1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、帰国を余儀なくされる。太平洋戦争が始まると、記録のための戦争画を制作するため、小磯良平らとともに従軍画家としてシンガポールや南方に派遣された。朝日新聞社主催による上野美術館の「大東亜戦争美術展」に、成果として《12月8日の真珠湾》《シンガポール最後の日(ブキテマ高地)》《二月十一日(ブキテマ高地)》を出品、朝日文化賞を受賞した。

《アッツ島玉砕》(1943年)
(画像=《アッツ島玉砕》(1943年))

画像引用:https://media.thisisgallery.com/

1945年8月敗戦を迎えると、戦争画を描いたことによる戦争協力を責められることに。強い批判にさらされた藤田が日本を去ったのは無理もないことだろう。藤田のファンでもあったGHQのフランク・E・シャーマンの協力もあり、1949年3月に日本を発ち、アメリカ、イギリスを経て、1950年2月にパリに戻ると、1955年にはフランス国籍を取得。1959年にカトリックの洗礼を受け、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチにあやかり「レオナール(レオナルドのフランス語読み)」という洗礼名を授かった。

1950年には画商ポール・ペトリデスの画廊で、フランス帰化後第1回となる個展を開催。以後、藤田が日本に帰ることはなく、81歳の時、ガンによりスイスのチューリヒで死去。フランス北部のランスで葬儀が行われ、ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬された。

藤田嗣治と5人の女性
藤田が生活をともにした女性は、フランス人2人を含めて5人いる。1人目は美術教師の鴇田登美子で、当時としては珍しく大恋愛の末の結婚だった。しかし藤田はフランス留学の夢を諦めることができず、結婚の翌年に単身で渡仏。「画家として成功するまで帰国しない」と決意していた藤田は、当初の予定であった3年が過ぎても日本に戻らなかったため、離婚することとなった。

2人目はフランスで出会ったモデルのフェルナンド・バレエ。この頃藤田はシェロン画廊と契約を結び、1917年、1918年と続けて個展を開催し、画家として人気が出始めていた。フェルナンドが無名の時代を支えたからこその成功ではあったが、しだいに二人の気持ちはすれ違うようになり、互いに浮気をして1924年には破局を迎える。

すでに名声を得ていた藤田は交際相手に不自由せず、フェルナンドと別れてまもなく、17歳年下の少女リュシー・バドゥと暮らし始め、親しみを込めて「お雪(ユキ)」と呼んだ。藤田はユキの肖像を複数残しているが、交際は長くは続かず、ユキはシュルレアリスムの詩人ロベール・デスノスと結婚した。

《居眠りするヌード、ユキ》(1926年)
(画像=《居眠りするヌード、ユキ》(1926年))

画像引用:https://curio-jpn.com/

1931年、藤田は21歳の踊り子マドレーヌ・ルクーを連れて南米へ行き、2年にわたって旅をした。その後日本でともに暮らし始めるが、異国での生活に耐えられなかったマドレーヌは2年後にフランスに戻る。翌1936年に再来日してきたが、麻薬の過剰摂取により急逝してしまった。

そして出会ったのが、最後の妻・君代。結婚は藤田50歳、君代25歳の頃だった。君代は藤田がフランスに帰化する際もついていき、81歳で藤田が亡くなるまで生涯添い遂げる。大量の蔵書は君代が生前に東京国立近代美術館アートライブラリーに寄贈した。藤田は晩年、夫人が生活に困らないよう作品をたくさん残しておいたが、君代は98歳で没するまで作品を守り続けた。

「フジタ礼拝堂」の内部
(画像=「フジタ礼拝堂」の内部)

画像引用:https://www.vacancesweb.be/

藤田が埋葬されたランスの礼拝堂は、藤田自らが設計したもの。ステンドグラスや彫刻、フレスコ画など全ての内部装飾を手がけて1966年10月に完成し、通称「フジタ礼拝堂」と呼ばれている。

藤田嗣治の作品の特徴

《眠れる女》(1931年)
(画像=《眠れる女》(1931年))

画像引用:https://www.musey.net/

乳白色の肌
藤田作品の最大の特徴といえば乳白色。陶器のような光沢を持ちながら温かみのある独特の質感は、藤田が苦心の末に独自の配合でつくりあげた絵の具によるもので、生前には一切レシピを残さず秘密にしていた。死後に絵画が修復された際、下地に使われた画材の研究が行われている。

細い輪郭線
極細の線描で輪郭がとられていることも特徴のひとつ。日本画に使われる面相筆に、細い針を仕込んでいたとも言われている。当時のパリで最先端のアートに囲まれながら、日本画の伝統を絶妙に取り入れたことが、独創性のある優美な雰囲気を生み出したのだろう。

裸婦と猫
藤田の作品にとりわけよく登場するモチーフは、裸婦と猫である。モンパルナスのアトリエにはキキをはじめ多くのモデルが出入りしており、絶賛された乳白色を生かすには裸体画は最適だった。

また、猫は藤田のサイン代わりと言われるほど、多くの藤田作品に登場している。裸婦や自画像に描き込まれていることも多く、自分自身の分身とみなしていたとも言われている。生き生きとした姿でさまざまな表情を見せる猫たちは、今にもカンヴァスから飛び出してきそうだ。1930年にニューヨークで出版された猫のエッチング版画集『猫の本』は人気が高く、現在では希少本となっている。

《争闘(猫)》(1940年)
(画像=《争闘(猫)》(1940年))

画像引用:https://www.musey.net/

藤田嗣治の作品を見るには
日本では、東京の国立近代美術館や国立西洋美術館、アーティゾン美術館、箱根のポーラ美術館、神奈川県立近代美術館、秋田県立美術館などに藤田の作品が所蔵されている。

「小さな職人たち」シリーズ(1960年)
(画像=「小さな職人たち」シリーズ(1960年))

画像引用:https://www.atelier-blanca.com/

クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールなど印象派の名コレクションで知られるポーラ美術館は、藤田作品も多数収蔵しており、2021年には展覧会「フジター色彩への旅」を開催。3点の新収蔵品の初公開を含め、中南米旅行中に出会った人々を描いた作品や、子供たちがさまざまな職業の大人に扮したシリーズ「小さな職人たち」などが展示され、藤田の旅と色彩の変遷をテーマに画業を振り返った。

《受胎告知》(1927年)
(画像=《受胎告知》(1927年))

画像引用:https://tadaoh.net/

藤田は晩年にキリスト教の洗礼を受けているが、それ以前から宗教画を制作している。ひろしま美術館は、キリストが生誕する前から処刑された後までの3部作《受胎告知》《三王礼拝》《十字架降架》を所蔵。上の画像は天使がマリアに聖なる生命が宿ったことを告げる聖書の物語、受胎告知の場面を描いた油彩。

《秋田の行事》(1937年)の一部
(画像=《秋田の行事》(1937年)の一部)

画像引用:https://www.atelier-blanca.com/

秋田県立美術館の《秋田の行事》は、高さ3.65 x 幅20.5mの大壁画。藤田の一級品をコレクションした資産家・平野政吉からの依頼により制作された。画面右側には祭りの様子、左側には日常生活が描かれている。藤田は世界最速の壁画制作を目指し、およそ15日間で一気に仕上げたという。

まとめ

《猫のいる自画像》(1926年)
(画像=《猫のいる自画像》(1926年))

画像引用:https://www.wikiart.org/

激動の時代に生きながら、生前から画家としての地位と名声を得た藤田。誰にも教えることがなかった乳白色の下地と極細の線の秘密からは、アートの激戦地ともいえるパリで異邦人ながら成功するための探究心と情熱がうかがえる。日本国籍を捨てるという大きな決断には葛藤もあったに違いないが、戦後は愛する女性と猫のそばで平穏な暮らしを手に入れた。

藤田の作品最大の魅力は、やはり誰にも真似することのできないマチエール(絵の質感)。生涯の大半をフランスで過ごしたとはいえ、日本にも多数の名画があるので、ぜひ美術館に足を運んで実物を鑑賞してほしい。

ANDARTへの無料会員登録はお済みですか? 本格アートの所有権を1万円から購入できる共同保有サービスはもちろん、新作情報やオークション速報など、お得なアート情報をいち早く入手することができます。まだの方はこちらをチェック!

文:ANDART編集部