フィンセント・ファン・ゴッホとは?
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は、1853年3月30日オランダ生まれ。ポール・ゴーギャンやポール・セザンヌと並んで、ポスト印象派を代表する画家であり、20世紀のドイツ表現主義に影響を与えた人物でもある。27歳の時に画家になることを決意して、1890年37歳で亡くなるまでの10年間制作に没頭。素描も合わせて2,100点以上の作品を残した。代表作は《ひまわり》や《夜のカフェテラス》、一連の自画像シリーズなど。
目次
▍ゴッホが画家を目指すまで
- 画商で働きながら、キリスト教にのめり込む
オランダの南部ズンデルトの村で、牧師の家に生まれたゴッホは、小さい頃からかんしゃく持ちで気性が荒く、両親からは扱いが難しい息子とされていた。
高校を中退してしまったゴッホは、1869年の16歳から20歳になるまで、グーピル商会(19世紀フランスの主要な画商であり国際的なオークションハウス)のハーグ支店で働く。この頃から、支店の近くあった美術館でフェルメールやレンブランドなどの絵画に触れ、美術に興味を持つようになる。
1873年にイギリス・ロンドン支店へ転勤。翌年の冬頃から、牧師の説教を聞きに行ったり聖書を読み込んだりして、キリスト教への関心を深めていく。1875年、パリにある本店へまたも転勤となったが、76年に解雇された。その後は教師、書店員として働き、オランダへと戻ってくる。
- 伝道師を目指してベルギーに
1877年、聖職者(牧師)を目指して、神学部受験の勉学に励むも挫折。1878年に貧しい人々に聖書を説く伝道師(キリスト教で正教師の資格を持たない伝道者のこと)になることを志して、ベルギーの炭鉱町・ボリナージュ伝道活動を始める。しかし、常軌を逸した伝道を理由に伝道師の仮免許の取り上げと俸給を打ち切られてしまう。
- 挫折を繰り返し、画家の道へ
1880年、伝道師への道を諦めたゴッホは画家になることを決意し、ブリュッセルへ移動。19世紀のフランスの画家、ジャン=フランソワ・ミレーの素描きを手本にしたり、デッサンの教本を模写したりと、本格的に絵画技術向上に励む。同時期に、兄弟の中でも唯一ゴッホの理解者であった、弟のテオドルス(通称・テオ。テオもグーピル商会で働いていたため、美術の知識があった)が生活費の援助を始め、以後、ゴッホの画業を支え続ける。テオとやりとりした大量の手紙が、ゴッホが取った行動や作品の制作時期、意図などを知る重要な資料として残されている。
画像引用:http://www.vangoghletters.org/
▍ゴッホの人生と代表作たち
ゴッホは居住地を変えながら制作を続け、人々に愛される作品を世に残し、短い人生を終えることになる。当時の作風の特徴や出来事などと一緒に、ゴッホの代表作を振り返る。
1880年〜:農民を描いたキャリア初期
ブリュッセルから、エッテン、ハーグ、ドレンテ、ニューネンなどオランダ国内を転々としながら、田園風景や農民たちをモチーフにして暗い色彩で描いていたのが初期の作品の特徴。《ジャガイモを食べる人々》はその集大成として、ゴッホの初めての本格的な作品として知られている。
1885年〜:浮世絵に魅せられたパリ時代
1885年、ベルギーのアントウェルペンにある画塾に入学し、デッサンを学ぶ。1886年にパリへと移り、モンマルトルに住んでいたテオのアパートで同居を始める。
1887年頃から、クロード・モネやルノワールなどの印象派やジョルジュ・スーラなどが台頭していた新印象派の画風を取り入れ、大胆で明るい色調で制作するように。このパリ時代に浮世絵に魅了されたゴッホは、プロヴァンス通りにある店で日本版画の収集を始める。同年、カフェ・タンブランで浮世絵展を開き、《タンギー爺さん》の背景にも浮世絵が描き込まれるなど、その影響は自身の作品に強く現れている。ちなみにこの肖像画の人物は、ゴッホが絵具を購入していた店の店主、ジュリアン・タンギーである。
また、この時期から、線ではなく点や点に近い短い筆触(タッチ)で描く「点描」という技法と絵具の厚塗りが見られるようになった。
1888年〜:名作を次々と生み出したアルル時代
1888年2月、ゴッホはテオのアパートを出て、太陽の光と日本に似ている風景を求めて、南フランスのアルルへと到着。同年5月からアトリエとして使い始めた「黄色い家」が、以前より交流のあったフランスの画家であり友人のポール・ゴーギャンと共同生活を過ごした建物として知られている。
「黄色い家」で、ゴッホが寝室兼アトリエにしていた部屋を描いた作品《アルルの寝室》にも、影がないところや明るく平坦な色調に浮世絵の影響が見られる。この頃、ゴッホは補色(正反対に位置する関係の色)の研究に熱中し、色彩構成に神経を注いでいた。パリ時代から始まった鮮やかな色彩と厚塗りによる手法を、このアルルの地で確立させる。
「黄色」を多用するのは、ゴッホの作品の特徴のひとつ。《夜のカフェテラス》は、ゴッホの優れた代表作としても挙げられる。光り輝く明るい黄色のカフェテラスと空の青系の補色を組み合わせたコントラストで「夜」を表現した作品。「夜空」はゴッホが意欲的に描いていたモチーフで、《夜のカフェテラス》と同様、《ローヌ川の星月夜》もアルル時代でよく知られる作品の中のひとつ。
不朽の名作《ひまわり》が誕生
同じく1888年の8月、「黄色い家」のアトリエに飾るために描かれたのが、ゴッホの一番の代表作《ひまわり》である。花瓶にさされたひまわりという構図、全部で7枚制作された。特に有名なのが、4番目に描かれたとされる背景が黄色の作品。トーンの違う黄色でまとめる代わりに、絵具を厚く塗る部分と薄く塗る部分とでメリハリを出している。
狂気の「耳切り事件」が起きる
ゴッホとゴーギャンは、互いの強烈な個性がぶつかり合う性格の不一致で、10月から始まった共同生活を2ヶ月で終えることになる。最後まで口論が続き、1888年12月23日、ゴッホは自ら左耳を剃刀で切り落とした。そしてその後、ゴッホは娼婦の元へ行き、「この品を大事にとっておいてくれ」と自分の耳を渡し、その場を去ったという。切り落とした理由は諸説あるが、ゴーギャンがゴッホの自画像の耳をからかったからではないかと言われている。ゴッホはそれから度々発作を起こし、アルルの市立病院で入退院を繰り返した。
画像引用:https://ja.wikipedia.org/
1889年:サン=レミでの晩年
精神病を患ったゴッホは精神科病院への入院を勧められるが、1889年の5月、アルルから20キロほど離れたサン=レミにある民間の療養所へ入所することに。療養所の一室をアトリエとして使う許可をもらい、病室の窓から見えるアルピーユ山脈や麦畑、病室の外でオリーブ畑などを描いた。6月に入ると、作品の主題に「糸杉」と「渦巻き」のようなうねる筆致を多く取り入れるように。《星月夜》は、誰もが一度は見たことのあるゴッホの代表作のひとつである。
画像引用:https://ja.wikipedia.org/
糸杉はその樹齢の長さから「生命」や「豊穣」のシンボルとされる。一方で、イエス・キリストが磔にされた十字架は、糸杉で作られたという伝説があり、欧州・欧米では「死」の象徴ともされている木だ。ゴッホは糸杉を「生と死の架け橋」として表現し、当時のゴッホの不安定な精神状態が渦巻きに現れているのではないかとの考察がある。《糸杉と星の見える道》(または《夜のプロヴァンスの田舎道》とも呼ばれる)は、療養所で描いた最後の作品。
1890年:オーヴェールにて、早すぎる死
サン=レミで療養する間も何度か発作を起こしていたゴッホだったが、体調が安定してきた1890年の5月に療養所を退所。知り合いの医師を頼って、オーヴェール=シュル=オワーズというパリ近郊の農村を次の静養地とした。ゴッホはこの地を大変気に入り、療養の傍で制作を続けていたが、7月27日にオーヴェールの麦畑にて、ピストルで胸を撃ち自殺を図る。その2日後、弟・テオに最期を看取られて37年の短い生涯を終えた。
ゴッホの死後
ゴッホの生前、唯一売れた絵は《赤い葡萄畑》の1点のみだったとされているが、自ら命を絶つ前の1890年1月、フランスの文芸誌では既に高く評価されていた。また、テオの妻・ヨーの尽力により、回顧展の開催や書簡集の出版など、ゴッホの作品は死後、世に広く知れ渡ることになった。1973年には、アムステルダムに「ファン・ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)」が開館。その他、世界中の美術館にゴッホの作品が所蔵されている。
▍ゴッホをより深く知る、おすすめのエンタメ
- 小説『リボルバー』
ゴッホの死は「自殺」とされているのが定説だが、実際には目撃者はおらず、銃弾の角度が不自然な位置にあると主張する者もいる。謎が多いゴッホの自殺に迫る、著者・原田マハの傑作長編ミステリー小説。本作をもとにした舞台『リボルバー 〜誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ?〜』が2021年東京と大阪で上演された。
画像引用:https://www.amazon.co.jp/
- 映画『ゴッホ 〜最期の手紙〜』
ゴッホがテオに宛てた手紙の発見をきっかけに物語が始まる、ゴッホの真相を描いた作品。これは、元々実写撮影された映画を62,450枚の油絵を繋げて編集した、世界初の動く油絵の映画。絵のタッチもゴッホの力強い厚塗りを再現。ゴッホ好き、アート好きなら是非鑑賞してほしい作品だ。発売中のDVDには、オリジナルの英語音声に加えて、日本語吹き替え収録されているので、字幕を追わずに動く油絵に集中できるところもおすすめ。
▍まとめ
1880年に画家として活動開始後、1888年のアルル時代に画風が確立してから、評論家たちに認められるまでの短い期間を考えると、ゴッホは画家として早くに成熟していたと言える。しかしまた、この世を去ってしまったのも早かったこと、そして自身の情緒不安定さに苦しめられたドラマチックな人生と作品の素晴らしさ。ゴッホはその全てをひっくるめて、美術史を語る上で必要不可欠な人物として愛され続けている芸術家である。
▍展覧会情報
「ゴッホ展―響き合う魂 ヘレーネとフィンセント」
Collecting Van Gogh: Helene Kröller-Müller’s Passion for Vincent’s Art
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の芸術に魅了され、その世界最大の個人収集家となったヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)。ヘレーネは、画家がまだ評価の途上にあった1908年からおよそ20年で、鉄鉱業と海運業で財をなした夫アントンとともに90点を超える油彩画と約180点の素描・版画を収集しました。ファン・ゴッホの芸術に深い精神性を見出したヘレーネは、その感動を多くの人々と分かち合うべく、生涯にわたり美術館の設立に情熱を注ぎました。
本展では、クレラー=ミュラー美術館からファン・ゴッホの絵画28点と素描・版画20点を展示します。また、ミレー、ルノワール、スーラ、ルドン、モンドリアンらの絵画20点もあわせて展示し、ファン・ゴッホ作品を軸に近代絵画の展開をたどる、ヘレーネの類まれなコレクションをご紹介します。 さらに、ファン・ゴッホ美術館から《黄色い家(通り)》を含む4点を展示し、20世紀初頭からファン・ゴッホの人気と評価が飛躍的に高まっていく背景にも注目します。(本文引用: https://gogh-2021.jp/ )
会場:東京都美術館 企画展示室( https://www.tobikan.jp )
会期:2021年9月18日(土)〜12月12日(日)
休室日:月曜日、9月21日(火)※ただし9月20日(月・祝)、11月8日(月)、11月22日(月)、11月29日(月)は開室
詳細は、展覧会公式ウェブサイトへ
ANDARTでは、オークション速報やアートニュースをメルマガでも配信中。無料で最新のアートニュースをキャッチアップできます。この機会にどうぞご登録下さい。
文:ANDART編集部