薄さ2ミリという他にはない老眼鏡「ペーパーグラス」を開発、平均単価2万円という高価格ながら年間約1万本の販売実績を誇る西村プレシジョン(福井県鯖江市)。同社は、実家の眼鏡向けチタン切削加工工場の関連会社として2012年に本格稼働。50年以上の歴史を持つ実家工場だが、父親が社長を務めていた2000年を境に苦境に立たされる。鯖江の眼鏡産業が生産を中国へシフトしたため、眼鏡メーカーとの取引が大半だった同社も、売り上げは激減。存続の危機に立たされた。26歳で実家に戻った西村昭宏社長は眼鏡業界依存からの脱却を進め、再建を果たす。その後西村プレシジョンの代表取締役に就任し、ペーパーグラスのブランド化を強力に押し進めた。(※2021年8号「100年企業を作るための 事業継承のススメ」より)

西村昭宏社長
(画像=西村昭宏社長)
加藤友康
西村昭宏社長
にしむら・あきひろ
福井県鯖江市出身。チタン加工専門の工場である西村金属の次男として1977年に生まれる。2002年、東京のIT系会社に就職したが、2003年には地元に戻り家業を手伝いを始める。2012年、貿易会社として設立されていた西村プレシジョンを引き継ぎ、「ペーパーグラス」の生産を開始。今では1ブランドでの売り上げ高4億円を超える。

チタン加工技術を本業以外にも拡大
約5年で売り上げ高を倍増

「東京のIT系企業で働いていた私のところに父が訪ねてきて、初めて『家業を手伝え』と頼まれたのは就職して1年にも満たない頃でした。それまでそんなことを言われたことがなかったので、会社は相当厳しいのだろうという感覚がありました」。当時の様子を西村昭宏社長は振り返る。会社は解雇こそしていなかったものの、年末挨拶で従業員に「来年はもたない」と話していた、と聞いて驚いたという。「父親は自分が新しいことに取り組んでいけると期待していたと思うし、ピンチの時には家族の力は強いと考えたのでしょう」。

2003年、西村社長は意を決して実家の西村金属に入社することを決めた。戻ってまず感じたのは、業界内だけのシェアしかないということ。当時の鯖江の眼鏡産業は地元にしか仕事がなく、西村金属も100%が眼鏡部品の売り上げだった。「しかし当社は設備もあるし職人もいる。これまで蓄えてきた財産は眼鏡だけでなく、ネットを活用すれば他の産業にも活かすことができるのではと思ったのです」(西村社長)。

インターネットが普及し始めていたが、まだネットの信頼度は低く、形のない技術を売れるわけがないという声も多かった。しかし、西村社長はIT企業勤務の経験を基にあえてチャレンジすることにした。「鯖江はチタンという素材に早くから着目し、難しい加工をクリアしてきた歴史がある。他の地域にはないものなので、それこそが強みではないかと。チタンを中心に情報発信をしていきました」(西村社長)。

当初はそれこそ手探りの状態だったが、ネットの普及と比例するように、付加価値の高い商品開発を必要とするメーカーからネットを通じて声がかかり始めた。例えば器具の殆どを輸入に頼っていた医療分野では、国策による内製化も後追いになった。また、錆びてはいけない半導体製造装置など、ニーズは広がっていった。

「眼鏡に固執したところで仕事は増えない。生産がどんどん減っていく中で、従業員を賄い、継続した仕事を確保していくには、我が身で新しい分野を切り開いていくしかない」(西村社長)。成果は少しずつ見えてきた。結果が結果を呼び、2009年には売り上げが倍増。眼鏡に関する売り上げは全体の約2割にまで減り、多分野への進出に成功する。

自社ブランドを立ち上げ
「ペーパーグラス」が評判を呼ぶ

眼鏡業界への依存体質から抜け出し、売り上げもV字回復した頃、リーマンショックが起こり、第二の危機が訪れた。「世界全体が不況の状態に陥った時には、下請けはメーカーの意向を強く受けてしまいます。このままではいけないと思いました」(西村社長)。

考えたのはメーカーへの転身。自社ブランドを立ち上げれば、生産もコストもコントロールできる。着目したのは老眼鏡だった。「老眼鏡は世の中に溢れていましたが、安いもので十分という価値観しかなかった。品質、機能性、デザイン性を備えた商品を作れば、1万円を超える高価格でもきっと受け入れられると思いました」(西村社長)。

そのために2012年、貿易部門だった西村プレシジョンを引き継ぎ、新たに「ペーパーグラス」のブランド化に着手した。「ネットの整備や新規顧客開拓の営 業で飛び回っていた中でも新商品に集中できたのは、実家を引き継いだ兄が職人として現場を支えてくれたからです」(西村社長)。「ペーパーグラス」の大きな特徴は、その構造にある。折りたたんでいる状態ではフラットで薄さわずか2ミリなのだが、開くと立体的になり顔に自然とフィットする。「秘密はレンズとテンプルが斜めに取り付いているから。特許も取得しています」 (西村社長)。

老眼鏡は普段は仕舞っておき、何かを読んだり書いたりする時にのみ 使うもので、もっとも重視されるべきは携帯性だ。ポケットにも財布にも収納できる圧倒的な持ち運びやす さは他にはなかった。

販売に当たり西村社長は製品のメリットを伝えることにも尽力した。「商品を通した体験価値、購入した人のライフスタイルがどう変わるかを伝えることが必要でした」(西村社長)。

当時はLINEが登場した年でもある。SNSによりコミュニケーションの仕方が大きく変わり、小さくてもブランドを作って育てられるという自信があったという。

とはいえ、全国の小売店や百貨店との取引は皆無。本格的に売り出すために、西村社長はネット販売に集中した。平均単価は当時で1万2600円だった。しかしこの価格がネックとなり、半年間は全く売れなかったという。潮目が変わったのは、その年のグッドデザイン賞受賞だった。「信用や認知度をつけていく手段として第三者の評価が欲しかった。結果4000点の中からベスト100に選ばれ、特別賞を頂きました」(西村社長)。各メディアに取り上げられる機会が増え、認知度が一気に上がっていったのだった。

直営1号店を福井駅前にオープン
直営2号店は帝国ホテルに

ブランド立ち上げから3年後。西村社長は次なる手を打った。実店舗のオープンだ。

「実物が見たい、メンテナンスをどうするのかといった声を多くもらうようになりました。百貨店での催事しかお客様とつながる手段がなかったので、老眼鏡をワクワクしながら買って帰れる場所を作りたいと思ったのです」(西村社長)。

なぜ福井なのかと言われたが、「長く続いているブランドほど地元に愛されている」と、1号店の場所には福井駅の駅前を選んだ。

2016年には東京へ進出。帝国ホテルに2店舗目を出店した。

「東京に出すなら帝国ホテルだとずっと言い続けていました。ホテルは旅行で忘れるという老眼鏡のニーズが感じられやすい。なによりも帝国ホテルは誰もが知っている、ブラン ド力もある」(西村社長)。その思いが共鳴するように、ホテル側から出店依頼を受けた。「田舎の小さな部品屋が立ち上げたブランドですが、ホテルも宿泊者に絶対に喜んでもらえると分かっていたのだと思います」(西村社長)。

 現在では全国に10店舗を構え、売り上げは約4億円、ペーパーグラス自体の販売数は、平均単価約2万円と老眼鏡としては高価格ながら、年間1万本を超えている。「1ブランドで10億本を一つの区切りにしたい。その可能性はあると思っています」(西村社長)。

 競合がいないのも強みだ。「ハイブランド、多品種小ロットが実現できるのは、鯖江だからではないでしょうか。ペーパーグラスの形がスタンダードになって、老眼鏡というネガティブなワードに置き換わることができれば、社会的意義も大きいと思います」(西村社長)。