矢野経済研究所
(画像=tadamichi/stock.adobe.com)

2025年7月
未来企画室
主任研究員 品川 郁夫

オフィスにおける生成AI導入の理想と現実のギャップ

企業のデジタル変革が加速する中、生成AI(LLM:大規模言語モデル)の導入は多くの組織にとって重要な経営課題となっている。ChatGPTやGemini、Claude、Microsoft CopilotといったLLMに注目が集まり、業務効率化への期待は高まる一方で、実際の導入現場では様々な課題に直面している企業が少なくない。
多くのオフィスでは、デスクワーク業務、特にドキュメント作成において、Microsoft社のWord、Excel、PowerPoint利用が業務の中心を担っている。営業資料、財務分析レポート、経営・事業計画書、企画提案書、議事録、報告書の作成など、日常的なデスクワークの大部分がこれらのアプリケーションを通じて行われている。しかし、生成AI利用において重要でありながらクローズアップされることが少ない課題がある。それは、LLMとMicrosoft Officeアプリケーションとの間に存在する「見えざる壁」である。
この壁は、単なる技術的な互換性の問題を超えて、企業の業務効率改善への期待値にも影響を与える構造的な課題となり得る。しかしながら、企業で生成AIの導入を検討する際、情報の機密保持、テキスト生成や要約機能などの精度には注目するが、実際の業務で求められる文書作成の品質やデザイン・スタイルの一貫性を維持することの難しさについては、十分に理解されないまま導入検討がなされるケースが多い。

Microsoft Officeアプリケーションが築く高い壁

LLMとMicrosoft Officeアプリケーションのシームレスな統合における最大の課題は、デザイン、レイアウト・配置などのスタイル、つまり視覚的要素の処理にある。この問題を理解するためには、各アプリケーションが持つ固有の特性と、LLMの処理能力の限界を具体的に見ていく必要がある。
Wordの場合、普段意識せずに利用することが多いが、実際には文書の論理構造と視覚的表現の実現が複雑な要素で成立している。企業で使用される文書には、見出しレベルの階層構造、段落スタイル、フォント設定、余白調整、ヘッダーフッター、ページ番号、目次の自動生成など、基本的な機能だけでも多層的な書式設定が施されている。LLMは優れたテキストを生成できるが、これらの書式情報をすべて理解し、適切に反映させることは現時点では不可能である。「企業の年次報告書のドラフトを作成してください」という依頼に対して、LLMは内容面では高品質なテキストを生成できるが、企業やユーザーが設定する既存のテンプレートの書式を維持したまま適切に配置することはできない。
Excelにおける壁は、さらに複雑である。表計算アプリケーションの本質は、データの構造化と視覚化にあるが、LLMはプレーンテキストベースでの処理を得意とするため、セルの書式設定、条件付き書式、グラフの詳細設定、ピボットテーブルの構造、数式・関数など、Excelの真価を発揮する機能群との統合が極めて困難である。財務分析や売上レポートなど、企業の意思決定に直結するドキュメントでは、数値の正確性だけでなく、見やすさ、理解しやすさが重要だが、LLMが生成したデータをExcelの既存フォーマットに統合する際には、大幅な手作業による操作や調整が必要となる。
PowerPointにおける課題も大きい。プレゼンテーション資料では、情報の階層化、視覚的インパクト、場合によってはブランドガイドラインの遵守が求められるが、LLMはこれらの要求を統合的に処理することができない。スライドのレイアウト、図表の配置、色彩の統一、フォントの一貫性、アニメーション効果など、プレゼンテーションの品質を決定する要素の多くは、現在のLLM技術の処理範囲を超えている。最新のLLMであればある程度の図解作成が可能だが、そのまま利用できるケースは少なく、統一感あるデザイン・スタイルの中で再生成することはできない。結果として、LLMが生成した図解コンテンツを利用するためには、デザイナーやPowerPointに精通した担当者による大幅な作り直しが必要となる。
これらの問題の根本的な原因は、LLMがテキスト処理に特化した技術である一方、現代の業務文書が高度に視覚化・構造化されていることにある。企業の文書作成においては、「何を書くか」と「どのように見せるか」は密接に関連しており、この両者を統合的に処理できない限り、真の意味での生産性向上は実現できない。
さらに、企業環境特有の制約も見逃せない。ブランドガイドラインやドキュメント標準が厳格に定められている組織では、これらの基準を満たさない文書は、内容が優れていても業務上使用できない。LLMが生成する汎用的なアウトプットを、企業固有の要求水準に合わせて調整する作業は、現状では人間の作業に依存せざるを得ない。

解決への道筋と現実的な対応策

この構造的な課題に対する解決策は、技術的進歩を待つアプローチ、抜本的に業務の在り方を変革するアプローチ、そして使い分け・ハイブリッド型のアプローチがある。
中長期的には、LLM技術の進歩を待つという選択肢もある。今年Microsoftが発表したWindows向けのMCP(Model Context Protocol)実装は、この方向性の重要な一歩であると推察する。ただし、これを待つという選択肢は、LLM活用において後れを取るリスクにつながりかねない。
別の選択肢としては、業務プロセスというより業務利用アプリケーションの抜本的見直しがある。つまり、Word、Excel、PowerPoint利用への依存を下げるアプローチである。現在ではオンライン、WEB上での情報伝達が可能となり、紙の印刷物が必要なケースは大幅に減少している。つまり、Word、Excel、PowerPoint利用メリットの1つが消失しつつある。その他の大きなメリットとして、デザインやスタイル設定の自由度が残るが、これは組織ごとの定型化で代替が可能である。ただし、この実現には相当なコストや時間、組織文化の変化、取引先の理解などが必要で、ハードルが高い。足元で大きな課題や問題がない中、このような変革に取り組むのは非現実的である。
そのため、現時点で最も実用的なアプローチは、業務の性質に応じたハイブリッド戦略の採用である。LLMには、業務の本質的要素のうち、得意な処理領域、かつ繰り返しや労力負荷が大きな処理を担当してもらい、人はその結果に基づきアウトプットを作成する(デザイン、スタイルを作成する)というものである。ここで重要なのは、業務タスクを細分化してLLMで行うべき内容を予め可視化しておくことである。これがないと業務のメリハリがつきにくくなり、生産性向上への効果が限定的になる。
企業が生成AI導入を検討する際には、利用時のセキュリティ担保や精度品質とともに、このような点も理解した上で、たとえ「見えざる壁」があっても生産性の向上に寄与するかどうかを見極める必要がある。