話題作『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)の著者が、“車と旅”の海外版について語る新連載エッセイ。
“楽園を探す海外放浪夫婦が、中古の軽自動車を買って北海道から南アフリカへ。
警察官の賄賂を断ってジャングルに連れ込まれ、国境の地雷地帯で怯え、貧民街に迷い込み、独裁国家、未承認国、悪の枢軸国、誰も知らないような小さな国々へ。
南アフリカ・ケープ半島の突端「喜望峰」で折り返して日本に戻ってくる予定が……。”
目次
よく「どうして軽自動車で?」と、訊かれるが…
車中泊をしながら、ロシアをドライブしている。
目的地は、南アフリカのケープタウンだ。地図を指で辿ったところ、2万km以上。行って帰るとなると、誤差を考慮して6万kmにもおよぶ。地球一周半も運転するかと思うと、気が遠くなった(実際のところ、喜望峰に着いたら7万kmも走っていた。誤差の方が大きい)。
よく、「どうして軽自動車で?」と訊かれる。いい質問である。
「及ばざるは過ぎたるより云々」と家康公の言葉を借りながら、われわれ現代人は足りないくらいがちょうどいいのです。モノにしても機能にしても足りないからこそ頭を使うのです、なんちゃらかんちゃらと、シンプルライフの教祖様のようなことを言っている。
だが、本当は「軽自動車が660ccとは知らなかった」だけ。納車されたとき、こんな車で南アフリカへ行けるんですか!? と僕が驚いていた。
ボディを触ってみたら頼りないことこの上なく、ヒグマに襲われたら車ごと齧(かじ)られそうである。密かに楽しみにしていた森のなかの「ロマンチック車中泊」は、諦めることにした。
サハリン島では、寒村の駐車場で息を潜めたり、巨大な廃工場に閉じ込められたり、辺境の雑貨店にぴたりと寄り添って壁のフリをして寝ていた。
道の駅「シベリア版」で、“ひとつだけ”勘弁してほしいこと
サハリン島では逃亡者のように身を潜めていたが、間宮海峡を渡ると一変する。ロシア本土は、車中泊天国なのだ。
ヨーロッパに続くシベリア街道には、数十キロごとにガソリンスタンドがあり、安食堂がある。一食300円もしない本場のロシア料理は、値段相応のB級グルメを楽しめる。食後は、一杯30円の本格的インスタントコーヒーを飲みながら、仕事に精を出した。
筆者は2005年から18年間、一度も遅配することなく社会保険を納めている海外放浪型リモートワーカーなのだ。こう見えても、自称ワーク・ライフ・バランスの模範生である。平素より、厚生労働省に表彰される逸材として襟を正し、無職にならないよう踏ん張っている。
22時ごろに食堂が閉まると、お店の前の駐車場で車中泊をする。食住近接、便利この上ない。長距離トラックのドライバーも寝泊まりするので、周囲は壁のような大型トラック群。強盗どころか、クマやトラも近寄ってこない。それでいて、一泊無料〜200円というリーズナブルな価格設定。
便利、安全、格安と三拍子揃った道の駅「シベリア版」に、ひとつだけ勘弁してほしいことがあるので聞いてほしい。
トイレ。なんとかなりませんかね、あれ。
サッカー場のようにだだっ広い駐車場の、この世の果てみたいな隅っこに、電話ボックスくらいの粗末な小屋が、それだ。
ドアノブすらないドアを開けると、穴。それだけ。ボットン式。金隠しなんてオシャレなものをつけてくれとは言いませんから、せめて照明をつけてくれませんか?
暗すぎて、パンツを下ろすのがたいへんなんです。
暗すぎて、ポジショニングできないのです。
暗すぎて、トイレットペーパーを使いこなせないのです。
それに秋ともなると床が凍って、滑ります。
そんな恐ろしい“闇便”については、稚書『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)に譲るとして、道の駅「シベリア版」の落とし穴は、もうひとつあります。
頭が痒い。シャワーがなくて。
3泊も車中泊をつづけると、ぽりぽりに痒くなります。ボクの頭皮はデリケート肌なものですから、誰よりも痒いのです。数値化すると、100点満点中200点くらい。それを我慢して4泊目に突入すると、夜、痒くて眠れません。不眠症のさなか熟睡していると、朝は痒くて目が覚めて辛いです。
5連泊もした日に思わず一句浮かんで、
──掻いても掻いても わが痒み 楽にならざり ぢつと手を見る
シベリアをドライブすると身に染みるロシアのある言い伝え
ロシアの言い伝えに、「モスクワから離れれば離れるほど、善良ないいロシア人」というのがあるそうだ。シベリアをドライブすると、その言葉が身に染みてくる。
「困ったら、いつでも電話をしてくれ」
電話番号をくれたのは、昼間っから飲んでいた坊主頭のウラジミール氏。顔は極悪人だが世話好きの酔っ払いで、トラックの運転手。数字に見えないほどの達筆なメモを、10分おきにくれた。
ハバロフスクの町で、ロシア人カップルにドライブに誘われた。
危機管理上、海外では知らない人の車に乗らないことにしているが、断れないほど感じのいいご夫婦だったのだ。たとえ誘拐されたとしても、お断りしては失礼かと思ったのだ。
ピオネルラゲリカラヴェラルラとかいうネットで調べても出てこない謎の公園で、小学生の男子が100回くらい叫びそうな「珍宝島」を眺めて記念撮影をした。折から花火が上がり、ウスリー川に大輪を咲かせては消えた。
ハラショー! ボクらは手を叩いて喜びあった。何かと因縁のあるロシア人と花火を眺める、いいではないか。人種を超えた友情である。町のあちらこちらに「対日戦勝70周年記念」と書かれているが、誘拐しないでくれてありがとう。ゆで卵をご馳走になった。
モスクワから遠いロシア人は、いい人である
ビロビジャンの町では、洗車場のオヤジに「あんたたち日本人か? いいところに連れてってやっから」と車に乗せられた。経験上、知らない人の「いいところ」には近寄らない方が無難なのだが、断ると気の毒なくらい気さくなおじさんだったのだ。
彼の車が向かった「いいところ」は、森のなかの奥底。うかつに近寄ると撃ち殺されそうなロシア軍基地だ。厳重な警戒体制をかきわけて、冗談が通じそうにない鋼鉄顔の兵士に「この日本人に、ミサイルを見せてやってよ」ってお願いして、こっぴどく怒られていた。
モスクワから遠いロシア人は、いい人である。
そういえば、エンジン警告灯が点きっぱなしの「Chin号!」はと言うと…
ところで、相棒のChin号!(軽自動車の愛称)はエンジン警告灯が点きっぱなしである。
どこに不満があるのかさっぱりかわからないので、警告灯に気づかないフリをして運転している。お腹が痛いのに快速電車に乗るような、一発触発系の心持ちである。さっさとヨーロッパに行って修理に出すべきなのだが、
「ゴビ砂漠に、ラクダがいるって!」
妻Yukoのひと言で、モンゴルへ向かうことになった。往復2000kmの寄り道だ。警告灯が知ったら怒り出す距離である。
バイカル湖にほど近いウランウデ市で左に曲り、荒涼とした大地を南へ下った。ここ2000年くらいお手入れをしていないような、肌荒れした土漠だ。
国境を越えてモンゴルに入り、ひたすら南下してゴビ砂漠に向かった……、ら、もうラクダがいた。
道中、やたらとラクダに遭遇したので、ゴビ砂漠では感動しなかった。
モンゴルの草原の中で車中泊
首都ウランバートルへ向かう道すがら、Yukoが
「草原のなかで、車中泊してみない?」
いいねー、ロマンチックかも!
グイッとハンドルを左に切って、草原を走ってみた。
馬やラクダに挨拶をしながら、大地を走る。丘の上に立って、遠くヨーロッパを眺める。目を凝らせばエッフェル塔くらい見えそうだ。
地球全体が見渡せそうな雄大な景色を前にすれば、いくら温厚かつ出世欲のないわが輩だって、どれどれ、拙者もひとつ、世界でも征服してみようぞ、という気になるものだ。
大海原に投げ出された小舟のように、揺れに揺れた「Chin号!」
Yuko、今夜はここに泊まろう。
とは言ったもののちょっと待てよ、あまりにも目立ちすぎはしまいか、と不安になった。世界中から見られているような、地球規模の檜舞台だ。横綱級の不良に目をつけられて、カツアゲされそうである。
そこで、あたり一帯を走り回り、移動式住居のゲルを見つけて訪ねた。
「すみません、日本から来ました。この小さな車で。すごいでしょう? ところで今夜、ゲルの横で車中泊していいですか?」
少々小太りのおばさんが出てきて、目を見開いて固まってしまった。
ひと言も通じていない手応えは、十二分にある。しかし、そこは笑顔で以心伝心。握手をすれば了解を得たようなもの。という解釈をして、ま、そういうわけでございますから、ひとつよろしくお願いします、また明日、おやすみなさいと手を振りながら後退りをした。おばさんのゲルから付かず離れずの距離にChin号!を停めた。
トイレはない。隠れるところもない。気をつけないとおばさんのお土産を踏むことになる。山羊だかなんだか正体のわからない頭蓋骨が、恨めしげにこちらを見ている。
そんな丘に夕陽の赤が差し込んできた。狼の遠吠えを聞きながら眠りにつこう。呑気なことを言っていたら、夜、吹雪になったのである。Chin号!は大海原に投げ出された小舟のように、揺れに揺れた。
歴代の横綱たちが突っ張りをかましてるような衝撃が続き、そのうち、居ても立っても居られないくらい寒くなった。すべての服を着て寝袋にくるまっても寒い。というより、痛冷たい。ってか、痛い。
生粋の道産子なので、寒さにはめっぽう強い! ということはなくて、すべての筋肉を硬直させて、毛穴に忍び込む冷気をシャットアウトしようとしたが、夏用の寝袋では叶わなかった。
「どうして、夏用?」
語ると長くなるので割愛するが、モンゴルはマイナス50度になる極寒の地。冷凍車より寒いのである。冬用の寝袋で何の心配もないように眠るYukoにしがみついて、生きながらえたのだった。
翌朝、ドアを開けたら、銀世界だった。そして、大切なことに気がついた。
冬タイヤを持ってきてないじゃん!(第5話に続く)