話題作『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)の著者が、“車と旅”の海外版について語る新連載エッセイ。
“楽園を探す海外放浪夫婦が、中古の軽自動車を買って北海道から南アフリカへ。
警察官の賄賂を断ってジャングルに連れ込まれ、国境の地雷地帯で怯え、貧民街に迷い込み、独裁国家、未承認国、悪の枢軸国、誰も知らないような小さな国々へ。
南アフリカ・ケープ半島の突端「喜望峰」で折り返して日本に戻ってくる予定が……。”
目次
なぜ間宮海峡の“こっち側”で警告灯が…
フェリーに乗って、サハリン島からユーラシア大陸へ渡った。間宮海峡のこっち側は、“ロシア本土”である。
左目の左端から右目の右端まで広がる森に、細い道がひょろりと延びている。この頼りない道がなんだかんだとヨーロッパ大陸に続いているわけだが、とてもそうは思えない。どちらかといえば、この世の果てで行き詰まる気がするが、時速70kmで朝の9時から夕方の5時まで走れば、3週間ちょいでスペインに着く、……はずだ。
がんばれ、Chin号!
“Chin号!”とは、旅のブログ『旅々、沈々。』にあやかった、愛車の愛称である。御歳10万km。日本の中古車市場では壇上に上がることなく引退させられるロートルだが、まだまだ若いもんには負けてませんよ。マフラーから出る鼻息は小気味良く、西へ向かって熟年の走りを見せていた。
と思ったら、とんでもないものが目に入った。エンジン警告灯が、点いている。
シベリアの森のなかで車を停めて、まずは深呼吸
どうしてオレンジ色に輝いているのか、警告灯よ。まさかと思うが、故障したのではあるまいか。よりによって、エンジンが。まだ40kmと走っていないのに。
しかもシベリアの森のなかである。“本土”には、人喰い熊どころか、虎までいるというのに。むしろこの辺こそがアムール虎の産地だというのに。今すぐにでもエンジンが、しゅるるる〜と止まるような気がしてきて、心臓から大腸にかけて胃もたれしてきた。
「あ゛〜゛〜゛〜゛」、どうしたらいいのだろう。落ちつけ、まず、落ちつこう。
「Yuko、オレンジがアレしたから、止まったらアレなんで停まるね」
落ち着きのないことを言いながら、アクセルからそーっと足を離し、ゆーっくりと路肩に寄せて停まった。ひと呼吸入れる。ギアをニュートラルにする。心なし震える手でエンジンを切り、ハザードランプのスイッチを押した。んちゃ、んちゃ、んちゃ……。
不運を嘆くには早い、まだ、故障と決まったわけではない。おそらくアレではないかと、素人ながらに考える。シベリアの空気に慣れていないエンジンが、動悸とか息切れを起こし、少々不整脈になったのではないか。コンピュータ制御かどうかは知らないがファジー機能がないのだろう、眩暈なんかはお年寄りにはよくあることだ。
だから、ちょっと休めば大丈夫。まずは深呼吸……、深呼吸するのはボクだ。呼吸を整えながら考えるに、オレンジ色に輝いたのは幻だったかもしれない。神さま仏さま、何卒よろしくお願いしますと、祈りながらキーを回し、エンジンをかけてみた。
件のマークだけが消えることなく、輝いたままだった。神も仏もあったもんじゃないと、そっとエンジンを切った。このマークは、エンジンにトラブルがあったときに発光すると察するが、勘違いというセンもある。なにせロシア語以上に車に疎いのだから、素人が知ったかぶりせず、頭をニュートラルにしよう。
取扱説明書に「エンジン回転中に点灯・点滅したときは…」の一文
ダッシュボードから、車の取扱説明書を取り出した。目次からパネル類の説明ページを探し出し、マークを見つけた。添えられている一文を読むと、「エンジン回転中に点灯・点滅したときは……」
おお、これですこれ、まさにこれ。エンジンは回転していました。まったく同じシチュエーションが記載されているということは、よくあることなのだ。解決策はある。例えば、どこかとどこかを同時に押すと、再起動して、何事もなかったように警告灯が消えるとか。そんな感じだろう。
ああよかった、もうダメかと思ったですよ。はやる気持ちを抑えつつ先を読むと、
「販売店で、点検を受けてください」
…………。
…………。
…………。
時間が止まった。こんなに役に立たない文章は初めて見た。便所の落書きの100倍以上、意味をなさない。心がこもっていない。勝手に越境しておきながら僭越ですが、言わせてください。
「どこにあるとです、販売店?」この1行でコトを済ます気なら、マークとか取扱説明書はいらないと思うのです。
「販売店にGo!」という1行をピカらせてくれたら、コンマ1秒で状況を理解できた。絶望はするが、よっぽどスッキリする。壊れていてもなお、清々しい。
もし不調の原因がわからないというなら、「謎」のひと文字でもいい。せっかく表意文字を使っているのだから、それでいいじゃない。わざわざ高いお金を払ってデザイナーにマークを作らせても意味がないから、お金だけ払えばいい。と、デザイナーのボクから提案させていただきます。そうだ、いっそのこと、「ヾ(;´・ω・)ノ」はどうだろう? ね、Yuko?
「(・ε・)??」
まったく興味がないというお顔でして、そういえばYukoは「起きていないことで悩まない」が信条だった。警告灯は単なる警告でしかないから、どんだけ光ろうが、事件は起きていないというスタンスなのだ。危機感を共有できない相棒ほどいらいらするものはないが、「どうするの!? どうするつもりなの?」と訊いてこないぶん、可愛いやつと思っていただきたい。
車から降りて道路の真ん中に立ち、森に伸びる道を眺めた。このままスペインへ向かおうか?
次の町まで280km、およそ4時間。それまで警告だけで済んでくれるだろうか。突然、しゅるるる〜と気が抜けた声を出して、止まったりしないだろうか。森のなかでChin号! が逝ってしまったら、トイレに行くだけで熊か虎の餌食になりかねない。
熊か虎だ。滅多なことでは同時にお会いできない、自然界の両巨頭。優しく噛んでくれるのはどっちだろう? 調べてみたところ、虎はヒグマを食べるとのことなので、ボクらが熊に食べられてから、その熊を虎が襲えば食物連鎖的に無駄がないと知った。重要なことは、噛みかたではない、順番なのだ。くだらないことを言ってないで、ワニノの町まで戻ることにした。
Chin号! は余命を宣告されてしまったのだろうか
シベリアの辺境で、メカニックを探し出す——。難しそうな課題だが、意外に簡単である。スマホの地図アプリに、英語で“Car Repair”と入力すると、町のあちらこちらで旗が立った。
近場の一軒を訪ねた。コンテナの墓場のような一角に、青い作業着の中年男性がいた。
「ズトラストビーチェ(こんにちは)」と挨拶をすると、「誰?」「……ってか、なんなのその車?」「小さっ!」「あいやー」と驚いた風の彼に、「ちょっと見てよ、ここ」という顔で警告灯を指さすと、「ああ、それね。よくあるんだわ」という顔で頷いた。
かようにして、車とは万国共通の言語であり、その土地の言葉を知らなくても、言いたいことは通じる。自動車故障診断機なるものをChin号!に接続して、さっそく診察を始めた彼の名はアレクサンドル。エジプトの王様みたいな名前だが、気さくなおじさんだ。
アレクサンドルは診断機のモニターを眺めながら、「○△※×□……」と言った。モニターの文字「○△※×□÷△※×□」を指でなぞって、「○△※×〓≡△※×□」と続けた。
それがロシア語かどうかも判然としないほどナニを言っているのかわからない。が、不治の病を見つけてしまったかのような口ぶりである。眉間に皺を寄せている。もしかしてChin号!は、余命を宣告されてしまったのだろうか。アレクサンドル、ぜんぜん意味がわからないんだけど、どういうこと?
アレクサンドル「気にするはありません!(笑)」
つまりこういうことなんだ、とスマホを見せられた。Google翻訳が、「車、ロシアにない」「データありません」「不可能です」「ごめんなさい」と謝っていた。
診断機にMAZDAのスクラムという項目がなく、そのため、どこが悪いかわからないらしい。姉妹車のSUZUKIのエブリイで調べてもらっても、該当するデータは見つからなかった。
ってことは、修理はできないってこと? 日本まで戻らないとならないの?
「南アフリカまで行く!」って大見得切ってまだ2週間と経っていないんです、カッコ悪くて日本になんか帰れないです〜と嘆いたら、「ロシアがガソリン安い、悪いやつ」「酸素、違った」「濃度とここは触媒です」とわかったようなわからないような言葉を並べたて、最後に「故障、ありません!」と言い切った。
アレクサンドル、本当? 故障してないの? 邪魔くさくなって追い出そうとしてない?「気にするはありません!」笑いながら、背中を叩いてくれたのである。
再びスペインを目指して西へ
「故障、ありません!」
Yuko、アレクサンドルの言葉を信じよう。再びスペインを目指して西へ走りだした。途中、修理工場を見つけては、「ちょっと見てよ、ここ」という顔で警告灯を指さし、「ああ、それね。よくあるんだわ」という顔で頷くメカニック諸兄に診察を受けた。「気にするはありません!」のセカンドオピニオンを増やす旅である。
ちなみに、アレクサンドルの次に会ったメカニックはセルゲイといい、その次もセルゲイ、4人目はアレクサンドルだった。余計なお世話だけど、ロシア人の名前、少し増やした方がいいんじゃないですかね?
どんだけ「気にするはありません!」と言われても、やはり気になってしまうオレンジ色。Yuko、寄り道をしないでまっすぐヨーロッパを目指そう!
「だね」
「ところで、モンゴルのゴビ砂漠に行くとラクダがいるって」
「寄ってく?」
「ラクダッ!? いいねー、ちょっとご挨拶していこうか」
ハンドルを左に切ったがために、のち、大いに後悔するのである。
■著者プロフィール、この著者のこれまでの記事:https://www.mobilitystory.com/article/author/000028/